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年賀状を巡る複雑な思いの「謹賀新年」

今年も今日を入れて3日になった。

年賀状は昨日投函した。年々枚数が減っている。亡くなってしまった人がいたり、人間関係が途切れてしまったりと、昔に比べればかなり少ない枚数で足りている。勿論、SNSでご挨拶という人も少なくない。そういう人の殆どは、住所を把握していないので、そもそも年賀状は出せないのである。

住所を把握していて、年賀状を出している人というのは、今の時代で考えると、普段は疎遠に見えても、実は繋がりの強い人なのではないか。年に1回しかご挨拶と簡単な近況報告をしなくても、その1回がとても濃い。その中には、変な話だが、おそらくこのまま一生会わないで終わってしまうかも知れない人も結構いる。それでも、日常的に顔を合わせる人よりも、やはり繋がりは強い。


今僕が年賀状をやり取りしている人の殆どは、高校・大学時代に繋がりのあった人だ。社会人になり、ごく親しい会社の人とも年賀状をやり取りしたが、僕が会社を辞めてからは、数年で音沙汰がなくなった。今どうしているのだろうかと時々思い出す。向こうは、日々の忙しさの中で、僕のことなど忘れてしまっているに違いない。

一応物書きに属するので、本当はちょっと凝った年賀状を用意する必要があるのだろう。気の利いた一言を葉書の真ん中に据えて、それらしいデザインを施す。だが、僕はそういうことは苦手だ。結果、もの凄く平凡なものに落ち着く。それでも、一言手書きで何かを書き添えることは忘れない。印刷したものだけでは何か物足りないと、自分がもらった時に思うからだ。

そんなひと言も、もう届かなくなった人もいる。先に書いた、もうこの世からおさらばしてしまった人だ。普段忘れているわけではないけれど、いざ年賀状を書こうとして、もう宛先がないことに気付く。それでも、僕はその人達の名前や連絡先を、年賀状作成ソフトの住所録から消すことができない。そこから消してしまったら、本当にもう二度と会えなくなる、僕の中から消えてしまうと思えるからだ。どんなに強かった繋がりも、切れる時は一瞬である。それは、生きている人との関係でもそうだ。


年賀状を書く時、僕はいろいろな思いに捕らわれる。生きてきた時間が長くなり、失ったものも多くなった。それを思い出しながら、「謹賀新年」などと書く。今年はどんな人と出会い、何を手にするだろうという期待より、誰と別れ(その中には今生の別れも含まれる)、何を失うだろうという不安の方が大きい年になった。

新しい年を、素直に祝う、寿ぐことが難しくなった。

年賀状はあと何通減るだろうか。

いつまで僕は年賀状を書き続けられるのか。

そんなことを思いながら、年を越していくことになる。せめて、年が越せるだけでも有り難いと思わなければならない、そんな今を僕は生きている。年賀状や年の瀬の行事に接する度に、僕はそこのことを、微かな痛みとともに思い知る。 

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