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一番になりたかったわけじゃない。ただ「特別だ」と言われたかった

筋トレも、仕事も、ゲームも、趣味のスポーツも。
たいていのことは人並み以上にこなせます。
人付き合いも、だれとでもそれなりにやれる。

でも、一番がない。何をやっても、必ず上がいる。

これがずっと、私の一番の悩みでした。
決定的に「これだけは一番」と言えるものが、ひとつも無い。無いと、何で自分を褒めればいいのか、何で満足すればいいのかが、分からなくなる。

たぶんこれは、承認欲求じゃなくて劣等感だ

最初は「認められたいだけだろう」と思っていました。
でも、よく見るとそうじゃない。

自分より下手な人が、少し成長して周りから褒められている。
それを見たとき、素直に「よかったね」と思えない。
「なんで自分の方がうまいのに、私は認めてもらえないんだ」と疼く。
みっともない感情だと自分でも分かっています。でも出てくる。

これはたぶん、認められたい気持ちより、認められない自分が許せない気持ちの方が大きい。承認欲求というより、劣等感です。
自分で自分を褒められないから、その穴を人に埋めてほしくてたまらない。
そういう構造になっている。

二番目の山は、誰も覚えていない

なぜそんなに一番にこだわるのか。
突き詰めると、埋もれるのが怖いんだと思います。

富士山は誰でも知っているのに、二番目に高い山の名前はなかなか出てこない。私はそれが怖い。
たとえば今、私は会社で一番体が大きい。でも、もっとでかい新人が入ってきた瞬間、私は「マッチョな人たちの一人」になる。
私という存在が、大勢の中に溶けて見えなくなる。

「価値がなくなる」よりもっと手前の感覚です。
埋もれた瞬間、私という存在そのものが感じられなくなる。
それが、たまらなく怖かった。

満足するのが、怖い

おかしな話なんですが、私は「もう十分だ」と満足するのが怖い。

満足したら、そこで成長が止まる気がする。
止まるというのは、後退と同じです。
だから「上がいる、超えたい、休んでられない」が、ずっと私の燃料でした。

「結果がすべてじゃない」という言葉も、正直あまり信じていませんでした。あれは負けた人か、負けてもいい人のセリフだと、どこかで思っていた。走り続けている間は「まだ負けてない」と言える。
だから、止まりたくなかった。

「満点を目指せ」で育った

たぶん始まりは、親の口癖です。

やるなら何でも一番を目指せ。いい点を取って「すごいでしょ」と見せても、そんなので喜ぶな、満点を目指せ。何かひとつは一位を取れ。「これだけは負けない」を持て。
お前はいつも中途半端で、本気が感じられない——。

ずっとそう言われて育ちました。
だから私の中には、何を達成しても合格をくれない採点者が住んでいます。

ここははっきり書いておきたい。
今ではもう、これは親の声ではありません。
私自身の声です。外にいる誰かのせいにはできない。
私が、その採点者を自分で雇い続けている。90点を取っても「満点じゃない」。勝っても「次がある」。
だから、満足が一度も着地しない。

私はたぶん、わざと全部を中途半端にしている

ここからが、自分でも気づいていなかった本音です。

私は何でも人並み以上にやるのに、一個に全部を賭けることだけは、しない。長いこと「器用貧乏なんだ」と思っていました。
でも違った。たぶん私は、わざと散らしている。

もし何かひとつに全部を賭けて、それでも満点が取れなかったら。
そのとき「お前はいつも中途半端だ、本気が感じられない」が、言い訳のしようもなく確定してしまう。
本気を出した結果ダメだった、という判定だけは、どうしても受けたくない。

だから一個に絞らない。広く、そこそこ高く、散らしておく。
そうすれば、いつまでも「まだ本気出してないだけ」「これはまだ過程だ」と言っていられる。一番になれないのは、怖い。妥協や逃げに見えるから。
でも、一番になるのも怖い。なったら現実を見なきゃいけないから。

結局、私が唯一安心できる場所は、勝ちでも負けでもなく「まだ過程」という宙吊りの状態でした。夢を見続けられる場所。
あの採点者から逃げ込める、たったひとつの避難所。
情けないけど、これが本当のところです。

「よかったね」が、上から下に聞こえる

採点者は、私の耳まで作り替えていました。

ゴルフをしていて、スコアが伸びて嬉しい。
でも近くを回っている同年代の人が、私より少し上のスコアで「いいじゃん、よかったね」と声をかけてくる。スコア差はたった1のときもある。こっちが勝つ日だってある。
なのに、その「よかったね」が、どうしても上から下に聞こえてしまう。

私を下に置いているのは、相手の口じゃない。私の耳のほうでした。
嬉しさが着地する前に、ぜんぶ「あいつに上から見られた」に変換されてしまう。だから、何をどう達成しても、満足が一度も手元に残らない。

人に見られる場所ほど、採点者が出てくる

しかも厄介なことに、この採点者は、人に見られている場所でだけ強くなる。

筋トレや家事みたいに、見ているのが自分だけの場所では、わりと静かにしている。でもゴルフや、体や、これから出すアプリみたいに、誰かの目がある場所になると、急に出てくる。私の代わりに合格・不合格を決め始める。

そして私は、その「人の目がある場所」を、自分から欲しがっている。
見てほしい、認めてほしい、と願って、そっちへ向かっていく。
自分が一番安らげなくなる場所に、自分の足で歩いて行っているわけです。
この矛盾には、最近やっと気づきました。

自分を褒められる、たったひとつの場所

そんな私にも、自分を褒められる瞬間があります。

休みたい夜に、それでも「休んだら負けだ」とジムに行った日。
残業が長引いて、気づけば日付が変わっていた夜でさえ、家に帰らずジムへ寄った。
疲れているのに、無理にでも体を動かした日。
家事を、仕事を、しんどくても放り出さなかった日。
そういうときだけ、少しだけ「よくやった」と思える。

不思議です。ここには点数も順位もない。比べる相手もいない。誰も見ていない。——たぶん、だからです。比べようがない場所だからこそ、あの採点者の耳が働かなくて、私は初めて自分にOKを出せる。

私が安心できるのは、一番になれる場所じゃなかった。
目に見える成果が、もともと無い場所でした。

でも採点者は、その場所まで値引きしてくる

正直に書くと、ここでも採点者は黙っていません。

「いや、そんなの当たり前だろ。みんな嫌なことを嫌々やってる。褒めるほどのことか?」——救いになっているはずの場所まで、すぐにそうやって削りにくる。

でも今回は、ここだけは値引きさせないでおこうと思っています。
しんどいことを続けられる人は、本当はそんなに多くない。
それを当たり前と切り捨ててきたから、私はずっと自分に一度もOKを出せなかったんじゃないか。
そう思うようになりました。

比べる言葉は刺さらない。見てくれる言葉は効く

もうひとつ、はっきり分かったことがあります。

「よかったね」「いいじゃん」みたいな、成果や順位の言葉は、私の耳が勝手に上下に変換してしまう。
何度もらっても着地しない。むしろ毒みたいに効く。

でも、「お前は特別だ」「みんなと違うな」「お前はすごいね」——そうやって順位じゃなく、私という存在そのものを見てくれる言葉は、心からにやけてしまうくらい、ちゃんと効く。
同じ褒め言葉でも、種類でこんなに効き目が変わるとは思っていませんでした。

そこでようやく腑に落ちました。私は、一番になりたかったわけじゃない。
私の周りには、私より体がでかい人も、体力がある人も、もっと頑張れる人も、いくらでもいます。それは認めます。
私が本当に欲しかったのは、勝つことじゃなく、「お前は特別だ」というたった一言だったんです。

ずっと穴の埋め方を間違えていました。
一番とか、順位とか、勝ちとかで埋めようとしていた。
でも、その薬はそもそも私には効かない。
効くのは、比べない言葉のほうでした。

だから私は、作ったものを世に出す

そしてこの一言は、一番にならなくても手に入る、と今は思っています。

「みんなと違う」は、誰かに勝つことじゃなく、まぎれもなく自分であることから生まれる。筋トレをやってきたSEが、自分の不満から筋トレアプリを作る。文系から専門学校を経てこの仕事に来た、少し外れた経歴で。
その掛け算の上に立っている人間は、たぶん私しかいない。
そこには上も下もない。比べようがない。

だから私は、個人開発で自分の作ったものを世に出すことにしました。
隠れて一番を目指して宙吊りでいるより、未完成でも、過程ごと人に見てもらう。失敗も、詰まったところも、全部出す。
いつか誰かに「これ、お前らしいな」と言ってもらえたら——それがきっと、私がずっと探していた一言です。

正直、採点者がいなくなったわけではありません。
たぶん一生、私の中にいます。
でも、その声と付き合いながら、比べようのない自分の山を、ひとつずつ積んでいく。
今はそう決めています。

同じように、何でもそこそこできるのに一番がなくて、埋もれるのが怖い人。
もしいたら、聞かせてください。
あなたが、心から自分を褒められたのは、どんな瞬間でしたか。


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