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私のひだりをかえして・・・ 第八話   「完結長編小説」

 呪縛の始まりと終わり


2019年6月21日

(何をするにしても片腕というのは本当に面倒だ)

「失くしてみて初めてそのありがたみを知る」と言われるが、本当にその通りで右利きの私にとって

(こんなに左腕が今まで活躍してくれていたのか)

その重要性に改めて気付かされた。食事をするにしてもトイレにしても、誰かが差し入れでくれたスナック菓子の袋を開ける事一つにしても、右手でつまんで歯で引っ張り切り開く。両手が揃っていた時の様なパーティー開けが綺麗に出来るくらい、医療技術が進歩するころには私はもうこの世に居ないかもしれない。そんな事を考えると怖くて夜もまともに眠れない日が多々あり、早朝から毎朝午前10時前に看守の歩く靴音が通り過ぎるまでガタガタと震える日々を過ごしていた。

 刑務官は公務員なので、死刑は土曜日、日曜日、祝日には執行されない。対して平日には執行される可能性があるのだが、死刑というのは午前中に行われるもので、夕方や夜に行われることはない。よって、お迎えの日、すなわち死刑執行の日とは刑務官の足音が自分の独房の前で止まる時であり、その時間に彼らが通り過ぎてしまえばその日の死刑執行は無いということだ。以前は「前日に告知をする」という時代があったと聞いたが、受刑者が絶望して独房内で自殺をしてしまった為、「その日の朝突然に申し渡される」という形に変わったとされている。

 因みに「死刑囚」とは死刑の判決が確定した囚人に対する呼称で、死刑囚は「死刑が執行されるその時までその身柄は刑の執行ではない」として、刑務所ではなく拘置所に身柄を置かれてその時を待つのである。だから今私が居る場所は刑務所ではない、拘置所だ。因みにこの拘置所は全国に約110所ほどあると言われており、そのどれもがほぼ満員御礼状態だそう。人間1人の命を奪う行為なのだから、執行における最高責任者である法務大臣の最終許可が出るまでそこそこ時間は掛かる。こうして考えていくと、平成から令和に年号が切り替わる頃に「オウム事件」に関与していたとして拘置所にいた死刑囚が何人も立て続けに執行された例は非常に珍しいケースと言えるだろう。

日本における死刑執行は絞首刑のみで、死刑判決確定後六カ月以内に法務大臣がハンコを押すことで決定となり、正式に死刑囚となる。執行のタイミングは事前に知らされないが故に、突然独房の扉が開かれたかと思うと荷物を整理する時間も与えられず、遅くとも午前10時までには死刑が執行されると聞いた事がある。だから死刑囚にとってはこの時間「午前10時前」が1番の山場であり、「それを過ぎてしまえばその1日は生きながらえる」という事になるのだ。言い換えるならば「いつ行われるのか分からない自分の絶命日を、今日なのか明日なのかと分からない状態で苦しみ、生きた心地のしない毎日を過ごさなければならない生活を余儀なくされる」という生活サイクルが死刑囚なのだ。

 拘置所では全てに於いて時間が決まっており、午前7時起床の後30分後には点呼。そして午前7時40分には朝食、この朝食は拘置所で刑務作業を行っている受刑者が3食作ってくれているので温かくなかなか美味しく、麦3:白米7の割合で炊かれたご飯は健康的でありとても私の口に合うのだ。ラーメン大好きだった私も片腕を失い生活スタイルが大きく変わり、このご飯が美味しいと思う事が出来るようになるなんて想像もしなかった。

その後午前11時50分に昼食、午後16時20分に夕食、そして点呼を終えた後に午後21時就寝となる非常に規則正しい生活だ。健康維持の為に戸外運動と房内運動はその間で行われており、学生の頃と比べると体調も随分整ってきた気がする。もちろん入浴頻度も夏季は週3回、それ以外は週2回と設けられており、15分間という制限付きではあるものの、まだ執行されて死んだわけではないが「生き返る」心地がするものだ。

なお死刑が確定してから執行されるまでの期間は早くて1年から2年、平均で7年から8年であると聞いた。その間この3帖ほどの冷暖房完備で割と居心地の良い場所で過ごすのだろう、不自由と言えば「じっと座っているのは構わないが、寝転んではいけない」という決まりがある。これを横臥許可というのだが、「腰が痛くて座っていられない」などの理由で申請すればゴロ寝をする事も可能だ。それなりに制限時間があるものの、テレビを見たりラジオを聴いたりすることも許されるので、自宅にいる時と正直あまり変わらない感じではある。絵を描いたり折り紙をしたり文章を書いたりという事も出来るので、「刑務所に入った事はないが天と地ほどの差がある」と以前まあさんが話してくれたのを覚えている。死刑囚というのは何かと話題になりやすいため、悪く思う人も絶対数としてかなり多いのだが、ごく少数の死刑反対論者や擁護派の人たちからかなり多くの差し入れを貰える。衣服(死刑囚は囚人服ではなく私服が許されているのだ、執行されるまでは罪人として罪を問われないという考え方だからであろう)だったり、食べ物だったり、雑誌だったり、手紙だったり。中には毛布が差し入れられたこともあった。

 そんな中、美並から手紙が届いたのだ。彼女に関しては迂闊にも取り調べの際に殺意を口にしてしまった事があるが、こうして何もない部屋で冷静になるしかない状況で考えてみるといろいろな感情が交錯する。

(好きになった男子の子どもを自分が望んでいない形で宿してしまったわけで、私と同じく高校3年生の彼女に「産んで育てる」という選択肢はなかっただろう。そして誰かに相談できる訳もなく、「彼氏に話したら嫌われてしまうかもしれない」という純粋な乙女心が向かった先が私であり、いつも様々な生徒から頼りにされている学級委員で同じ女である私に頼るしかなかったのではないだろうか? いやそれにしてもだったら3人から暴行されたというのはどうなる? 更に葵に騙され、葵の兄がその様子をスマホで撮影して脅迫されたという彼女の発言の意図はなんだ? そこまで話を作りこむ必要がどこにあるというのか、咄嗟に出た可愛らしい嘘にしては巧妙かつ大胆すぎじゃないか。ということは「計画的に考え抜かれた嘘」であることは明白であり、何らかの目的で私を陥れるために彼女は嘘をついたと考えるのが自然ではないか・・・)

などと封筒を開けもせず中身も見ないまま正座して、私はあれやこれやと考えながら固まっていた。

(読んで暴れたところでこの中から彼女に声が届くでもなし、見てみるか)

腹をくくって封筒から取り出すと2枚の便箋の便せんが入っており、その1枚目は上の方に小さい字で

『ごめん、本当におとこが消えたらいいのにってかんじ』

とだけ書かれていた。この1行が小さい字で便せんの真ん中に書かれている、訳が分からない。これはどう捉えたらいいのか、単に彼女の私に対する反省の意なのか? 

(そうか、「あぶりだし」ね。柑橘系の果汁で字が書かれていて、水で濡らして炙ると文字が出るという・・・)

 いやいや、成績優秀であれだけの嘘をつく事が出来る子が「拘置所内では火が使えない」事くらい分からないはずがないし、私にだけ分かるメッセージを拘置所に1人でいる状況の人間に、そうまでしてわざわざ伝えたいという意味も分からない。とはいうものの、柑橘系で書かれたものだったら火は使えなくても水で濡らしておいて裸電球にしばらく透かしておけば、何かしら書かれているのがうっすらと見えそうなものだし、でも実際に裸電球ではなくLED照明なので熱源はないから水で濡らしたところで読むことは出来ないし・・・。もしかして書いて消した筆圧による筆跡でも残っていないかと光に透かして見ても何も出てこない、小さな文字が書かれた紙を裏返してみたり封筒を覗き込んでみたり、はたまた封筒を分解して1枚の紙状態にして透かして見たりといろいろやってみたが手掛かりはゼロ、全く以ってミステリーだ。

「これはいくら考えたところで答えがすぐ出るはずもない」と一旦手紙を座卓の上に置き、

(せっかく時間があるのだから・・・)

と2枚目に目を移して私は再び固まった、なんだこれは? 

『おこおとおんとなどこうとしなこととのにれとんおととあいとかこんとじとょうとむこきとだととしのおめとでわとたこしとをみおとるなこんこてきもとこちととわおることい、おこおともいとこだしとただこけでおさこむけこがすおとるしへととんおたといとこしかこおとおもこえとなといこ。はとなしとかけとなこおいととでほおととしいしととちかおよとってほとこしおくなといとくとらいときもとちわとおこるいとこと、あとんたととおこここれここでにとどとあわなくていいとおとこもおうとせこいとせいすおるわおこ。とそれにしてともあとこれだこけのにおんおげんをころととしてとおといてよとくへといきおなとかとおとでいとらこれとたものとおね、しとととんけといをうとたがうとわお。ちおょととっとわとたしとがたおとよってあとげこたとらほいとおほこいとおとかこねとまでとだしおてとくおれて、まとったくとおこめととでたいとったらとおとおことありこゃとこしとなことい。どおとちとらおにとしとてとおもうまとととおれとそおだとったかととんときょうともふこおこうなここら、さといごともふととこうでおわとれとるのだとからとけおっかとおこーらとーいじことゃとなこい? (わらことい)つといとしおこん。わこたとおしこしおこょーとこへこあにとしたとんおこだ、あとおんたとにさおこわとおらとれたかおことらねとこ!』

何かしらのメッセージ性があることは見て分かるのだが、それを解くヒントもキーワードも何もない。

おこおとおんとな? なんの事なのかさっぱり見当もつかない、男? 女? 男と女? 二時間ほど遠くから見たり近くから見てみたり、終わりから読んでみたりしたけれど・・・分からない。

『122番、入浴だ!』

そう言われて15分だけの幸せな時間に浸る、独房の中に水洗トイレはあるが個室ではなく看守が通れば丸見えなので居ない時を見計らって用を足してはいるが、この「湯船に浸かる」というのは本当に生き返った心地だ。片腕での入浴というのは不便だが、それでもあんな小さな部屋に押し込められているのだ、入浴というものは部屋から出られる貴重な時間であり、唯一裸になることが許される解放の時間だ。しばし手紙の事は忘れて日頃の垢を洗い流し、湯船に浸かって使用したものの整頓をして独房に戻り、心も身体もポカポカとした状態であらためて1枚目の手紙を見てみる。

『ごめん、本当におとこが消えたらいいのにってかんじ』

何度も読み直してみて、この文章の不自然な点に気付く。

「ごめん」は平仮名でいい、「本当」と「消えたら」が漢字で書かれているのに、なぜ「おとこ」と「かんじ」は平仮名で書かれているんだ? 美並は常に単行本を持ち歩いていたほどの読書家で、こんなイージーミスをするような女の子ではない。これには何かしらのヒントがあるはず、そういえば昔「狸言葉」というのが流行った事がある。これも造語でその由来は「た」を抜いて読むことから「た抜き言葉」という暗号文章のようなものだ、このシステムを今回の暗号文に当てはめてみると、恐らく「本当に」というのは本当の気持ちという意味であろう、そして「おとこ」という文字を「消えたら」なので抜いて、「かんじ」は漢字にしてという意味ではないだろうか。どのみち一人独房で就寝時間まで暇である、私はウキウキとこの難解なパズルを解き明かすべく、「おとこ」という文字を抜いて書き出してみた。

『んなどうしなのにれんあいかんじょうむきだしのめでわたしをみるなんてきもちわるい、もいだしただけでさむけがするしへんたいしかもえない。はなしかけないでほしいしちかよってほしくないくらいきもちわるい、あんたれでにどあわなくていいもうせいせいするわ。それにしてもあれだけのにんげんをころしていてよくへいきなかでいられたものね、しんけいをうたがうわ。ちょっわたしがたよってあげたらほいほいかねまでだしてくれて、まったくめでたいったらありゃしない。まあどちらにしてもうまれそだったかんきょうもふうなら、さいごもふうでわれるのだからけっかーらーいじゃない? わらいついしん。わたししょーへあにしたんだ、あんたにさわられたからね!』

・・・意味が分かった、「かんじ」は「漢字に直せ」という意味と「感覚で読め」という二重の意味が含まれていたのだ。これを踏まえて文章にすると、

『女同士なのに恋愛感情むき出しの目で私を見るなんて気持ち悪い、思い出しただけで寒気がするし変態としか思えない。話し掛けないで欲しいし近寄ってほしくないくらい気持ち悪い、あんたとこれで二度と会わなくていいと思うとせいせいするわ。それにしてもあれだけの人間を殺しておいてよく平気な顔でいられたものね、神経を疑うわ。ちょっと私が頼ってあげたらホイホイとお金まで出してくれて、全くおめでたいったらありゃしない。まあどちらにしても生まれ育った環境も不幸なら、最期も不幸で終われるのだから結果オーラーイじゃない?(笑)追伸。私ショートヘアにしたんだ、あんたに触られたからね!』

 1回目の謎解きの時にニュアンスで嫌な感じはしていたが、まさか美並がこんなことを思っていたとは考えもしなかった。あの火災現場で手を繋いでいるところを見て、そして彼の子どもを・・・という事を聞くまでは「彼女も男の子より女の子の方が好みなのではないか」と思っていたし、こんなに腹黒さを持つ子だなんて想像もしなければそんな素振りも全く見せなかった。

(私が触ったから髪をバッサリ切ってショートヘアにした? 生まれ育った環境も不幸なら、最期も不幸で終われるのだから結果オーラーイ? 寒気がするし変態としか思えない?)

 とてつもない怒りと失望にガックリと肩を落としながらも、やり場のない思いをぶつけられるわけもなく、半ば衝動的に美並からの手紙を泣きながら細かく右手と歯で噛み千切った。失意のどん底で私の心の中ではセイヤさんの時と同じ、失恋感情に似たものを感じていた。

(美並だけは味方だと思ってた! 子どもの事も、誰にも言えないから他の誰でもなく私に相談してくれたのだと思っていた! 私が拘置所に入って直接コミュニケーションを取る事が出来ない状態になってからこんな手紙で意思表示をしてくるなんて・・・あの時ぶっ殺してやりたいと思った私の直観は正解だったのか)

これ以上細かく噛み千切れないというほど憎しみを込めて破り捨てた後、差し入れの箱の中にもう1通手紙があることに気付いたのだが、とてもこの1人の環境で読む事が出来る心理状態ではない。その日はそのまま時間までひたすら便器を見つめて黙ったまま座り込み、消灯の合図と同時に布団に潜りこんだ。


2019年6月22日

 翌朝起床の後に点呼と朝食を終えた私は差し入れ箱の中にあったもう1通の手紙についても目を通してみる事にした。

すると何という事か、安藤先生からの封筒ではないか! 美並の手紙にものすごい時間と心を摩耗してしまった私はあわててその封筒を取り出し封を切った。中身は何かの葉っぱと少量の髪の毛らしきものと手紙、これだけではちょっと意味が分からないので文面を見てみる。

『麗ちゃん、人生艱難辛苦。それでも他人の命を奪ってしまうという行為は絶対に許されない事です、あなたの命と刑が執行されるまでの懺悔をもってご遺族に対する贖罪としなさい』

と書かれてあった。私は安藤先生からの手紙だからという事で嬉々として封を切ったのに、死刑囚となった私に優しい言葉を掛けてくれるわけでもなく、先生らしい一般論。期待しすぎたせいかあまりにも腹が立った私は葉っぱや髪の毛ごとクシャクシャにした。

(何なのよ! 先生には私の辛い思いを全部話してきたはずなのに、教科書みたいな手紙と訳の分からない葉っぱと髪の毛・・・髪の毛? 何で髪の毛なんか同封されているんだろう? 死に別れの形見ならこちらが残すはず、なのに先生から送ってくる意味が分からない)

 気を静め、丸めた手紙を拾い上げて髪の毛が包まれていた紙を見ると、内側に文字が書いてあった。

『あの時麗ちゃんが抱っこしてくれた赤ちゃんの、初めてカットした髪です。生まれる命もあれば失われる命もある中で、貴女は奪いそして今度は死刑という制度によって奪われることになるでしょう。そうだとしても何もなく誰にも見送られることなくこの世を去ってしまうのはあまりに寂しく悲しい、だからこの世に産まれ出たこの子の髪を貴女が「次に生まれ変わる時には幸せになりますように」との願いを込めて同封します。そして葉は先生の家のリビングにあった幸福の木の葉です、「私には幸福なんてない」なんて思わずにどれくらい時間が残されているのか分からないけれど、悔い改めない汚い心で毎日を過ごしてはいけないと思うの。「自分がどんな気持ちでどんなことをし、そして今後どうなっていきたいのか」を希望を持って考えられるように同封しました。今回の「麗ちゃん」という人生は悲しい結末になってしまうけれど、希望の葉と産まれた赤ちゃんの髪によってきっと来世は幸せな命となって生まれ変わってくると先生は信じています。そして同封したものたちが、きっと貴女を導いてくれると信じています』

 私は先生からの手紙を胸に抱きしめて泣いた。こんなに優しく温かい差し入れがあるだろうか、大量殺人を犯した死刑囚を彼女は許してくれているのだ。そして「来世は幸せでありますように」との願いを込めて、どんな沈痛な心持ちでこの手紙を書いてくれたんだろうと思うと、とめどなく溢れる涙を止める事は出来なかった。一生懸命に手紙のシワを片手で伸ばし、いつお迎えが来てもいい様に机の上に「私の刑が執行された後、この封筒は一緒に火葬してください」と書いた便箋と共に置き、壁に背中を着けてなぜかずっと便座を見つめていた。

(死刑囚は死刑執行をもってその罪を償うという意味はこういう事なのだろう。世の中で当たり前に生かされている時には気づく事が出来なかった本当の温もりや優しさと向き合いながら、己の犯した罪と対峙して悔い改めてその命をもって贖罪とする。懲役刑を受けた受刑者の様に刑務作業や頭髪、衣類等の厳しい規律が無いのは、「その時間を悔い改める時間に使いなさい」という意味なのだな)

安藤先生のまるで仏様の様な温もりに触れて気付いたような気がする。自分の生徒だった人間が大量殺人を犯して死刑判決が確定し、もちろん亡くなられた生徒やご遺族に寄り添いながらも、こうして死んでいく定めを持った拘置所にいる自分の事まで気にかけてくれて、更には「次回生まれ変わる時の勇気になりますように」と希望の木の葉と赤ちゃんの髪を私に託してくれたのだ。私なんかが辿り着けない境地、もはや悟りの域にいらっしゃるのではないかと思ってしまうほどの大きな慈愛の精神を、もの凄くポカポカとした愛情という名の真綿に包まれているかのような心地で、気が付くと便器を見つめて泣いていたのだ。外の世界でこんな光景を見たら

(なに? 便器を見て泣いている・・・気持ち悪い)

となるであろうが、この拘置所内で見える物といえばごく限られているし、死についてばかり考えてしまう状況なのだからこのような光景は看守としても見慣れているのだろう、特に何を言われる事もなかった。これは後付けになってしまうのだが、トイレというのは排泄物「汚物」を流して綺麗にしてくれるもの、今の私の心境は今までの愚行を洗い流したいというものだったのかもしれない。

(なーにホッコリしちゃってるのよ。一緒に火葬してくださいなんて、寝ぼけたこと言ってんじゃねえぞカスが! すんなり死ねると思うなよ? これからお前は苦しむんだからな)

 頭の中に響く声、間違いなく幻聴であるとは思うのだがそれにしてはハッキリと直接語り掛けられているように聞こえる、聞き覚えのある声。その主が誰なのかは思い出せないが、内容は明らかに私のことをよく思っていない人間からの罵倒であり、自分にしか聞こえないと分かっていながらも気分の良いものではない。この様な場所で部屋の中に1人で拘留されていると様々な記憶の中から幻聴やら幻覚が知覚されてしまうのは不思議な事ではないだろう、恐らく他の死刑囚だって同じような現象があるだろうから時折叫び声が聞こえたりブツブツ言う声が聞こえたりするのだ。私は自戒の念なんて持たない、寝ている時の夢だって、どんなにファンタジーな内容であっても逆に残酷なものであったとしても、実際に見たり聴いたりしたことからしか作られないと聞いた事がある。今回頭の中に響いた声も誰かしら聞いた事のある声が自分の中の記憶と混同されて作り出されているだけで、こんなことで混乱する私ではない。

先生の手紙に感謝しながらも贖罪するという気持ちはなく、ただ美並が私に嘘をついた本当のところが知りたかった。彼女とてまさか私がここまで殺人を犯すなんて思ってもみなかっただろうし、「実際に自分がついた嘘に関わっている人間が次々に謎の死を遂げていくことをどう思っていたのか」という部分の本音が聞きたかった・・・。

 いや違う。本音が聞きたいのではなくて、彼女の為を思って私自らが手を下して行ってきた一連の犯行に対して感謝してほしい、認めてほしい、美並に褒められたいというのが私の本音だろう。なぜ私は美並に認められたいのか、ここに1人でいると自分に正直に向き合う事が出来る。私よりも容姿端麗、成績優秀でスポーツ万能、偽りの人気ではなくその存在自体に人気がある彼女が羨ましかったし心の奥底で憧れていた。そして何より、

(私は彼女が好きだった、私だけを見ていてほしかった。だから美並を傷つけた人間を殺すことに何の躊躇もなかったし、まるで自分の事のように怒り暴走した。それだけのことなのに・・・)

ずっとこの繰り返し、本を読んでもテレビを見てもこの事ばかり考えてしまう。

そんなある日の朝9時頃、看守たちの足音にビクビクしているとまた幻聴。

(ほーら、お前の耳にも聞こえるんじゃねえか?オレには聞こえるねぇ、確実に忍び寄る贖罪への足音が・・・クックック)

私の独房の少し手前で止まり、ガチャガチャとカギを開ける音が聞こえたかと思うと

『121番、出ろ!』

と隣の部屋から恐ろしい声が聞こえた。

『は? え、なんで・・・』

隣人は状況が理解できずに明らかに狼狽している。

『まさか・・・これから? いきなり何なのよ! そんな、最後の晩餐も無くいきなり殺されるなんてどうかしてるんじゃないの? 弁護士を呼びなさいよ!』

かなり動揺をしているようだ。確かにどこか外国の死刑執行前に好きな物を食べられるというのは聞いたことがあるが、執行日の告知と同じく自殺をしてしまう事件が起こってからその様な制度は無くなったのだ。

 隣人はわめき散らして悪態をつきまくり、暴れまわっている様だが数人の看守によって拘束され引きずられるように断末魔の叫びを残しながら連れ去られていった。暫くの間、遠くの声が聞こえなくなるまでかなり長い時間が経過したように感じる。私自身も右手で口を塞ぎ声を押し殺して耐えていたのだが、恐怖のあまり失禁してしまっていた。ここに来てから毎朝看守の足音に怯えていたが、実際に処刑者として連れて行かれる状況に遭遇したのは初めてだったのでこの時の恐怖感は尋常ではなかった。歯はガチガチと音を立てて体中も小刻みに震え、壁の隙間でダンゴムシの様に小さく丸まった状態になり、片腕で頭を抱えて声が聞こえなくなってからも耳の奥にはあの断末魔の叫びがいつまでもコダマする様に離れず、震えている私にまたあの声・・・。

(アッハッハ! 見たかよあのみっともねえ姿、殺される前の豚みたいにビービー叫びやがって。昨日までケロッとして風呂でこっそり鼻歌なんて歌っていた奴が色気もシャシャリもねえ、テメエは人を殺しておいても自分が殺されるのは嫌だってか、ヘソで茶が沸くぜ。ほーら、きたぞきたぞ、粛清の足音が。今度こそお前の番だよ、覚悟決めて豚みたいに叫びやがれ!)

 暫くすると看守たちの足音が再び近づいてくる、そして足音はすぐ近くで止まった。

『やばい、殺される! まだ死にたくない!』

はっきりとは覚えていないがそう叫んでいたようだ、看守からの

『122番、静かにしろ! お前じゃない!』

という声に我に返り、隣の部屋の音に全神経を集中させて耳を澄ませていると、ゴソゴソと何やら動いているのが聞こえる。この時は初めての事でパニックになり何がなんだか分からなかったが、のちにこれが死刑執行後の遺品整理である事を私は知る。この日私は死刑判決が確定して拘置されているのに向き合おうともせず、どこか人ごとであるかのように今までは呑気に美味しい美味しいと食べていた昼食も夕食も、喉を通らなかった。

 それから何日経過しただろう、ようやく食事を完食できるようにはなったがあんな状況を耳にしてしまった以上、死というものに対する恐怖感はどんどん増していくばかり。今回121番が処刑されたことで「死ぬなんて何ともないと思っていたが、実はものすごく怖い」と初めて知ることとなったのである、これだけ冷静かつ冷徹に何の迷いもなく幾人も殺害してきた自分がこんなにも死を恐れることになるなんて思いもよらなかった。

 それから毎朝9時の刑務官見回りの際には

(自分の部屋の前で立ち止まってくれるな!)

とビクビクする日々が続くのだが、その「魔の時間」さえ過ぎてしまえば執行はない。

(みっともねえったらありゃしねえ、ビクビクしやがって。まだ死にたくない・・・ってお漏らしかよ、恥ずかしいねえ)

確かに初めての執行を目の当たりにして取り乱すほどの恐怖感に襲われたが、この声は自分自身の脳が作り出しているものなのだから反応してはいけない、この声に反応するようになってしまったら負の感情に飲み込まれているという事になるのだから。

 親族、弁護士、教誨師としか面談が許されない死刑囚の私にとって、唯一の身内であった母親が一度も面会に来ることなく自殺したのはマスコミからするとある意味非常に好都合な出来事だったようで、

『拘置中の私と結婚をしたい』

という男性からの申し出が何十件もあるという事実を聞いた時には本当にこの世の中に嫌気がさした。

婚姻状態になれば身内となり、誰も実現できない死刑囚からの独占スクープを取ることが出来るという理由だからだ。そのうち死刑となってこの世と別れなければならない人間に対して情報収集の為に結婚を迫って来るとは、いったいどういう神経をしているのかと疑問を持ったが、先方からしても「どういう神経でこれだけの殺人事件を起こしたのか」という点は、戸籍に傷をつけてでも知りたい所なのであろう。

(くっだらない・・・)

この日、拘置所に来て初めて夢を見た。それはそれは悍ましく、翌朝から死刑執行のその日まで私を苦しみ続けた呪縛の始まりである。その夢の内容は簡潔に表現するとガムテープのようなもので口をふさがれ、身体を拘束されてひたすら相手の話を聞くという拷問だった。

(随分と正義感ぶって好き勝手に他人の命を弄んでくれたじゃないの、高木君・杉原君・大竹君・葵・葵の兄貴・両親とおばあちゃん・両お隣さんの合わせて15人の命を奪っておいて、自分は死刑が怖い? 死にたくない? 馬鹿言ってんじゃねえよ、俺を合わせたら16人だぜ。何が正義とか誰がどうしたとか一切関係ねえ、お前が無慈悲に人間を殺してきたのは事実だ。

高木君の時はゾクゾクしたよなぁ、何にも知らずに憧れの麗お嬢様から告白されるんじゃないかとウキウキして授業さぼって屋上に来てよ、天にも昇る思いで毒入りチョコレートを食べて洗剤飲まされ、昇った気持ちが気が付いたら息できなくて苦しみもがいた挙句に地面に向かって真っ逆さまにダーイブ、急降下だ。そんなことされる覚えもないのに淡い期待が絶望に変わる瞬間の気持ちってどんなだろうなぁ? 思い出して想像してみろよ、お前の作戦は完璧で学校は飛び降り自殺として事件は隠蔽したが、顔面緑色になって苦しみのあまり搔きむしった爪は何枚も生のまま剝がれ、紫色の血が混ざった泡を吹いて地面に叩きつけられた姿は芸術だったぜ? 

次は杉原君、これも爽快だったなあ。雨の日に憧れの学級委員お嬢様とアイアイガサで仲良く帰宅途中に、まさか水路にぶち込まれるとはなぁ。知ってるか、溺死ってめちゃめちゃ苦しいんだぜ? 鼻や口から水やら泥やら入ってよう、息を吸いたいから吸い込むとそれらが直接肺の中に入って来るんだよ。しかもだ、必死でしがみ付いている手を傘で突かれて流されていく間に見たお前の顔は忘れられないだろうなぁ、何も悪いことしてねーのに水路にはめられてそのまま目論見通りマンホールから死のダイブだ。汚物や汚泥に洗濯機の洋服みたいにグルグルとかき回されてよう、体内のガスが膨張してブクブクと醜く膨らんでいく自分の姿をどう思ってみていたんだろうなあ? 

忘れちゃいけねえ大竹君、あんなに男気のある爽やかボーイがまさか冷凍庫に閉じ込められて死んじまうなんて想像も出来なかっただろうなぁ。どんだけ叫んでも肩を脱臼するほど体当たりしても開かねえ扉の中で、唯一の希望だったお前のプレゼントを開けてみたら空っぽってウケるよなぁ。力いっぱい握りしめて何で騙されたのか、何でこうなってしまったのかも全く分からずに、彼はひたすら「大将に申し訳ない」って思いながらジワジワと凍っていったんだよ。お前たちの為に一生懸命ラーメン作ってサービスして喜んでくれていた根は純粋で優しい奴がよ、こいつに関してはちょっと罪悪感とかあったんだろ? 知っているよ、俺には全部お見通しだからな)

『うっさい、いい加減にしろ!』

 叫んで布団を蹴飛ばし飛び起きた。時刻は丁度起床時間、起こしてもらわなくても身体はこの規則正しい生活に慣れているので勝手に目が覚める。夢とは眠っている間ずっと見ているものではなく、それがどんなに長いストーリーであろうとも目が覚める寸前の一瞬の間に見るものだ、という知識はあったが、今回の様に私が見てもいない残酷な映像を説明付きで見せられたのではたまったものではない。スプラッター物が好きだったとはいえ、さすがの私も心身共に疲労困憊で起床、点呼等を済ませ、今日も執行が無いことに一息ついた後に昨夜の忌々しい夢を忘れる為に気を紛らわせようと読書に耽っていた。静かな独房の中で誰にも邪魔されることなくここまで集中して本を読むことの出来る環境は、なかなかない。大きな図書館といえども人の動きが気になったりするものなのだ。ところが集中できるはずの読書の時間にも、あの声は私の中に語り掛けてくる。

(娘が殺人鬼になった母ちゃんがどんな気持ちで過ごしていたか知っているか? お前の身柄が拘束されてから朝から晩までマスコミがずーっと家の前に張り付いていてな、電話は鳴りっぱなしだわインターホンは一日に何百回も押されるわでそりゃおかしくなっちまうだろうよ。電話線とインターホンのコードを引っこ抜いて忌々しい電子音はならなくなるけどよ、部活動の応援ですか? ってくらい外から声を掛けられ続けるんだよ。近隣住民の通報で駆けつけた警察官によって一時は静かになるけどな、深夜になってちょっと静かになったかと思うと窓ガラスに向かって石が投げ込まれるわ、玄関のドアに落書きや張り紙されるわ、生きた心地しなかっただろうな。仕方ないよなあ、自分の娘がしでかしたことだからな。仕方ないよなあ、自分が育てた娘だもんな。そんなこんなで最期は・・・)

もう限界だった、これ以上聞いていられなかった私は

『ウルサイウルサイ! 知らねーよ、私のせいじゃねーよ! お前に何が分かるんだよ!』

と大声で叫びながら頭の中の声をかき消そうと、片腕で邪気を払うように座布団を振り回して暴れた。

『122番、大人しくしろ、騒ぐな!』

と鍵を開けて入ってきた刑務官たちに取り押さえられ、立会いの下で1時間ほど拘束具を着けられた。やがてそれは

『ここはどこだ? お前の番号はなんだ?』

などの簡単な質問に答える事が出来たので外された。精神障害状態ではなく、意識がしっかりして意思の疎通が出来たため、外されたのだと思われる。その後も

(葵ちゃんの家で1本目にお前が投げ込んだ火炎瓶はカーテンに引火して、計算通り2階にものすごいスピードで駆け登り、とどめの2本目に引火した時の爆風で・・・)

とか、

(全く関係ないお隣さんなんてよ、何とか子どもだけでも守ろうと必死になって・・・)

など、昼夜を問わず私の頭の中に話しかけて私の精神を破壊していった。何度も暴れて何度も拘束され正気に戻っては拘束を解かれる、そんな事が続いたのちに私は絶対に会わないと決めていた教誨師と初めて面談することになる。

『本人が望む望まないは別にして、死刑囚の心が自らの犯した罪を認めようとし始めると貴女の様な状態になることは珍しいことではありません。多くの処刑を待つ人間は「自らの迫り来る死」と「犯してしまった残虐な行い」の狭間で嘆き苦しみ、幻覚や幻聴を覚えるようになってしまいますが、死刑囚とはその刑をもって償いとするものであって、拘留期間とは幻覚や幻聴に苦しみ精神に変調をきたす拷問ではありません。我々教誨師はいうなれば貴女たち死刑囚が最期の償いを果たすその日まで、心穏やかに贖罪の気持ちを持って心身共に健康に過ごす事が出来るようにする為のカウンセラーの様な存在です。多くの人は我々と話をする事で罪の重さを認識してその取り返しのつかない誤った行いに対して反省し、心穏やかに贖罪を受け入れます。今の貴女は自分が行った過ちに対して迷っている状態ではないでしょうか? 本を書く感覚でその時どういう感情で犯行に及んだのか、そして今聞こえている幻聴が何と言っているのかを紙に書いてみましょう。悪夢でも他人に話すことで忘れて楽になると言いますから苦しい時は紙に書いてみましょう』

 私は終始無言のまま面談が終わり看守に連れられて独房に戻ると、ノートとボールペンが机の上に置かれていた。

(贖罪なんてこれっぽっちもする気はないが、あの忌々しい声が聞こえなくなるのであれば記録に残してやる)

それから頭の中で何を言われようが淡々と文字にしていき、書いた内容を読み返すこともなくヒアリングをした内容を書き記していくという感覚でボールペンを走らせていった。

(なるほど、これはかなり気が楽になる! 教誨師も役に立つものだ)

と思った矢先、まさにノートに記し始めたその夜の事だった。

(おいレイラ、俺の声に聞こえないふりをするとはどういうことだよ? 教誨師は心を改めろって言ったんだよバカヤロウ! 忘れたとは言わさねーぞ?  カリスマホストにナンバーワンにしてもらっておきながら、その恩を仇で返しやがって。うだつの上がらねえレイラを歌舞伎町ナンバーワンにしてやったのは誰だ、このセイヤ様だろうが! お前は2億も貢いだって思っているかもしれねーけどな、それを稼がせてやったのは他の誰でもなくセイヤ様なんだよ、それをちょっと俺が危ねえ橋渡ってほんの数カ月干されたくらいであんな醜い死に方させやがって。イケメン様がグチャグチャだったじゃねーかよ、誰のせいで? お前が突き落としたからだろうが! 小便臭い勘違い娘が黙って大人しくしてりゃあいい気になりやがって、正義のヒロイン気取りでお前は何人の命をゴミクズの様に弄んだ? それは何のためだ? 美並への敵討ち? 違うねえ、美並は彼氏の子どもを処分しただけの事、お前が騙されて先走って殺しまくったんだろうが! オマエハヒトゴロシデオレヲコロシタ・・・)

 溢れる涙と凄まじい吐き気に襲われて飛び起き、便器に向かって吐き続け、内容物が無くなり吐瀉物が苦い胆汁に変わり、やがてそれは血液に変わった。そしてそのまま気を失い、医療刑務所で点滴の針を刺された状態で目が覚めた。

今まで聞こえていたどこかで聞いた事のある声がセイヤさんだったとは。教誨師は死刑囚にはよくあることだって言っていたけれど、それにしても何もセイヤさんじゃなくたっていいじゃない。何でよりによってセイヤさんなのよ! 彼は私の中で綺麗な思い出として死んだはずなのに・・・

目が覚めて恐ろしい声の主を否応なしに思い出しながらも、冷静に自分が置かれている状態を判断してみると、死刑執行はある程度健康な状態でないと行われないことから、看守の判断で医療刑務所に運ばれた。ということは入院している間私の死刑執行は無いという事だ、考えようによってはここにいる間は魔の時間にビクビクする必要もなければ点呼もない。内臓があちらこちら痛むし食事も流動食で全く食べた気はしないが、横になっていられるし何より気が楽だ。大きく息を吸い込み安堵と共に深く吐き出して布団に潜りこんだその時、

(安心してんじゃねーぞレイラ、お前が贖罪なんて綺麗な心にならないことくらいお見通しなんだよ。俺が思い出として綺麗に死んだだと? そんなふざけた生ぬるい事を考えているあたり、もっと分からせる必要があるようだな。俺にだってお前が当たり前に息をして心臓が動いているように、あの時死ななければその権利は平等にあったはずだ、それをお前が自分勝手な感情で誰に許可を得るわけでもなく奪い去った。眠ろうが眠らなかろうがお前の勝手だが、この世で心臓が動いている限りずっと地獄を見せてやるよ)

安堵する暇もなく彼の声は容赦なく私に話しかけられた。短い3日間という入院生活の間、

(眠ってしまったらまたセイヤさんに怖い事を言われる)

夜中も眠らないように頑張っていたのだが、眠気を我慢できずにウトウトすると待ってましたとばかりに

(レイラ、寝かさねーぞ? 今日は逃げ遅れて焼け死んだ家族の話をしてやろう・・・)

などと毎回違う話題に苦しめられては目が覚めるという生き地獄を過ごし、目の下にはっきりとクマが出来、明らかに白髪が増えた状態で私の身柄は警察病院から再び拘置所へと移送された。眠ることを許されないというのは人間にとって精神崩壊を起こさせるには十分な要因で、ほどなくして彼の声は眠っている時だけではなく昼間にもはっきりと鮮明に聞こえるようになっていた。私が何度も

『もう、許してください・・・』

とお願いしても彼の声にその願いが届く事はなかった。私が殺めてきた命が人間としての最期をどのように迎えたのかを執拗にそして克明に、歯を磨いている時も食事をしている時もお手洗いの最中もお風呂の時間にも脳内に話し続けた。

(なあレイラ、人間が燃えるとどんな匂いがするのか教えてやるよ・・・)

 そして・・・何も感じる事が出来なくなり、私から表情や感情というものは完全に消滅した。


2019年7月7日 最終話

『122番、出房だ!』

 死刑執行が確定すれば刑務官から死刑囚に出房を命じられる。この時大体の死刑囚が大騒ぎして、見苦しく暴れたり大声で叫んだりするのだが、私の場合は

(ああ、やっと・・・)

安堵にも似た、落ち着いた心持ちだったのを覚えている。

『122番、教誨室へ!』

 死刑囚は名前ではなく個々に番号が振られており、点呼の時も食事の時も番号で呼ばれる、私は122番だった。死刑執行を目前に控えた死刑囚が最初に通される部屋が教誨室で、ここでは所持品の処分方法について聞かれた後に受刑者を改心に導く教誨師と話をしたり、遺書を書いたりすることも出来る。そして言い残したい事や思いを伝えたい人が居ないか等も聞かれるのだが、私が残した言葉は

『もし許されるのならば、次は家族みんなに愛される猫になりたい』

だった。なぜ猫だったのかは分からないが、家の中でみんなに愛されて自由気ままな猫が頭に浮かんだのだ。そして懺悔したい事についても聞かれたのだが、

『私の左を返して・・・』

とだけ呟いた。腕もさることながら女にとっては命ともいえる自分の左胸が無くなってしまったのも大きい。そして、私の左側にはいつも優しい人がいてくれた。お母さん、セイヤさん、安藤先生、私が右側にいたということも出来るが、私にとってかけがえのない人たちは常に私の耳が聞こえやすい左側に居てくれたのだ。その後に通されたのは前室といわれる場所で、「死刑執行の控室」みたいなものだ。拘置所署長より正式に死刑執行の旨が伝えられた後、目隠しをされて拘束される事となる。

 その後目隠しをされた状態で7歩ほど前に進み、残った右手は胴体と1つになるように拘束されて両足も縛られた・・・それはまさに絞首刑用の縄を刑務官が私の首に掛けようとしていた時の事だった、突然心臓が握りつぶされたかのような強烈な痛みに襲われ、まだ縄が完全に首にかかっていない状態で私は自重で首を吊るがごとく床に倒れこみそうになった。そして口からは泡を吹き、刑務官に

『おい、122番! 最期くらいしっかりしろ!』

と怒鳴られている様を、私は自分の身体と必死で私を起こそうとしている刑務官たちの上から見おろしている。

 お分かりだろうか。私は「死刑が執行される直前に何らかの心臓トラブルで急死し、それを魂が身体から抜けた状態で見おろしている」という構図である。死刑が執行される直前には激しく暴れる者や泣き叫ぶもの、失禁したり気絶してしまう者もいると聞いた事があるが、恐らく刑務官たちはそれと同様に「私が気絶しているもの」と勘違いしているようだ。死刑囚とは死刑が執行されることで罪を償う制度であり、私がここで見おろしているという事はつまり・・・

(私は罪を償う事なく死亡した)

という事になる。刑務官は私の身体を揺さぶったり、気付け薬を鼻の前に持って行ったり無理やり立たそうとしたりご苦労をされているが、もはや死刑囚としての私は絶命しているのだからそんな事をされても無理なものは無理なのである。異変に気付いた刑務官たちは大騒ぎになり、私が落下して頸椎が粉砕され即死したのを確認する医師を階下から呼び寄せて、呼吸の確認や脈拍など入念に調べさせた。医師から出た言葉は

『絶命しております、詳しい原因は身体を開けてみないと分かりません』

だった。それでも刑務官には死刑を執行しなければならないという使命があり、執行された後に医師から絶命と告げられて初めて私の贖罪となるのだ。そこから刑務官たちは器になった私を淡々と両脇で抱えて立たせ、首にロープを掛けて形式通りの死刑執行を行った。その様子を魂となって上から見ている私は

(ざまあみろ)

である。死後の世界というのは「三途の川を渡る」とか「お花畑が見える」とか「自分が一番綺麗だった頃の姿に戻る」とかいろいろ言われていたが、誰も実際に亡くなった人の話など聞いた経験などあるはずもなく、実際に絶命してみれば無くなったはずの左腕は元に戻っており、胸の醜いケロイドの跡も全くない。もちろん形式的に死刑は執行された事になり、その事実だけが世に伝えられることになるのだが、私は散々殺害してきた人間たちとその遺族に贖罪することなく死んでしまったのだ。涙が出るほど可笑しくて両手でお腹を抱えて大声で笑っても、誰も気づきはしないし目が合う事もない。

(こんなものよ、人間の生き死になんて!)

高笑いをしていた。

 すると何やら見た事の無い真っ黒な形容しがたい渦の様な物体が、霊魂となった私に近づいてくる。その巨大な物体は不気味そのもので、大きく見開かれた目のようなものと、湾曲した口であろうものだけが確認できる。逃げようにもなぜか逃げられず、私は左腕の指先からゆっくりとこの真っ黒な形容しがたいものに喰われていく。

これも実際に経験していないので分からないが、「実際に生きたまま喰われたとしたらこんな想像を絶する痛みなのだろう」という爆破されたような激しい痛みを何カ所も伴った。意識を失う事も許されず悲鳴を上げても誰も助けてはくれず、ただゆっくりと時間をかけて指先から手首、そしてあの時燃え広がって失った胸をも順番に喰われ死んでいくのだが、まるで生前の様な壮絶な痛みと苦しみを追体験しながらじっくりと咀嚼され、飲み込まれていく。


『わ・・・たしの・・・ひだり・・・をかえ・・・し・・・て・・・』


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