うえすぎくんの そういうところ Season.5 それぞれの心編 『第68話 はーん?』
第68話 はーん?
(一応顧問だし、話だけは通しておくか)
テスト期間中は職員室への出入りは禁止されているのだけれど、柔道部顧問は普段から用務員室に居るので関係ない。
(今日もせっせと草むしり、全く呑気なもんだ)
麦わら帽子姿でしゃがんでいる後ろ姿に声を掛ける。
「一応報告しておきますが、肩やっちまったんで春の大会は無理だそうです」
「なんじゃその腕は、脱臼でもしたのか? はーん」
「はい。三か月間固定して、六か月後から復帰しますがスクワットなどできることはやっていきます」
「ほうか、弟は筋力弱いからできることをやるだな。はーん」
自分には『香中たくみ』という名前があるのに何度言っても『弟』としか呼ばず、語尾に必ず『はーん』を付ける名前だけの柔道顧問、甲村先生。毎日ふらっと柔道場に姿を現すものの、何を言うでも指導するでもなくただ見て『はーん』と帰っていく、ヨボヨボとして背中の丸まった爺さんだ。
「しっかし弟、柔道の練習で脱臼しただけではそこまでならんやろ。ワシに何か言うことはないか?はーん」
「いや、特にないっす。失礼します」
「まあ、ヤロウの方は春の大会ボロクソだな。はーん」
(稽古もろくに見ないくせに。なんなんだ、コイツいったい)
今はテスト期間なので姫嶋道場に早い時間から通っているのだが、お父上が未だ入院中ということで姫嶋さんの相手はずっとお母様が受けていらっしゃり、姉ちゃんの相手は西山さんがやってくれている。話を聞いても実際自分の目で見るまでは信じられなかったけれど、正直姉ちゃんでは相手にならないくらいのレベルだ。姫嶋さんとやり合ったって聞いたから興味津々なのだが、オレたちが道場に着いた時にはもう終わっていたっていう悲しい結末。なんでも上の人々の計らいで急遽団体戦に先鋒で出るらしいけれど、今まで姫嶋さん以外でこんなスピード柔道は見たことが無い。
だってこの間まで女子バドミントン部所属で、りゅうせいの妹としてくっついて来てオレの背中に乗ってただけの普通の女の子だぞ? 柔道やるなんて一言も喋ってなかったし、まさかこんな流れになるなんて想像もしなかった。何でこうなっちまったのかとか誰も教えてくれねえし、あいつも
「コハクちゃんが柔道やってたなんて聞いたことないし知らなかった」
って言ってた。ベランダから女の子落っこちてくるわ、西山さんがいきなり無双になってるわ、訳わかんないことだらけだぜ。オレが出来ることといえばお母様に教えて頂いた
「椅子に座った状態で二十キロのバーベルを両脚で持ち上げる」
これだけだ。
(地味っていうか本当にこんなのが役に立つのかねえ)
「邪魔するよ。はーん」
聞き覚えのある声にビックリして扉の方角に目をやると、名前だけの役立たず草むしりジジイが立っていた。
(オレがここに居ると聞いて茶化しに来やがったのか?)
「ここは柔道場だ! ジジイの来るところ……」
後頭部へ容赦ない平手打ちがお母様から叩きこまれ、目から星が飛び出したんじゃないかというくらいチカチカしてその場に蹲った。
「なんや、元気いいのがおるって聞いたから病院帰りに寄ってみた。酸素マスクつけて暇そうにしとったわい。はーん」
「まあ主人の様子を見に行って下さったのですね、ありがとうございます」
姫嶋さんはお母様の後ろで道着を直し正座している。
「お? 誰かと思ったら琥珀じゃねえか。はーん」
「はい、昨日突然娘に『道着貸してくれ』って言い出しまして。しばらく柔道から離れていたみたいですが、真剣に向き合う姿勢は持ち合わせておりましたので私が面倒をみております。コハクをご存知なのですか?」
「ご存知も何も。スジが良いから直々に育てておったのにいきなり顔を出さなくなってしもうたからどうしているのかと思っておったが、こんなところで会えるとは思わなんだわ。はーん」
「げっ、ジジイ! なんでここに居るんだよ」
(姉ちゃんを投げたところでこちらの会話が耳に入ったのだろう、振り向きざまに『ジジイ呼ばわり』とは。それにしてもお母様が平身低頭されるこの用務員の爺様はいったい何者なんだ?)
「琥珀、おまえこそ何でこんなとこにおるんじゃ? ワシの道場にはまだ名札が掛かったままじゃぞ?はーん」
「あ……あんなことがあった後でノコノコと顔出せるかよ」
「はて、なんかあったかなー。はーん」
「お母様、気合一発ありがとうございました。改めましてこちらの方をご紹介頂けないでしょうか?」
「甲村康九段。先生は私たちの師であり、柚子葉が幼い頃からお世話になっている大先生よ。師範で構成される大会審判たちを指導されるお立場にあり、あなた達の学校で用務員を務めていらっしゃるの。お会いしたことくらいはあるでしょう?」
「え、はい。何度か柔道場にもいらしたことはあり、学校柔道部顧問として名前は存じておりますが……ご指導者らしき姿を見た記憶はありません」
「そりゃ弟よ、たかだか一つ上の素人に毛が生えたみたいなのに好き勝手やられて、姫嶋の娘に助けてもらうような根性ナシにワシが何か言う必要があるか?はーん」
(くっ! ぐうの音も出ない)
「もう一回訊くぞ、弟よ。その固め方からして筋断裂じゃろ? 何やってそんな怪我した? 答えに寄っちゃあ破門も考えなきゃならん。はーん」
「甲村先生、違うのです! この子は……」
「わしは弟に訊いておる。姫嶋は遠慮してくれ。はーん」
「はい」
(お母様が一喝されてしまうなんて、どういう状況なのかサッパリわかんねえ! わかんねえけど正直に喋るしか選択肢は無さそうだ)
正座に座りなおして吊っていない片腕をついて一礼し、じっと目を見た。
「なあんじゃ、ちゃんと礼儀を知っとるじゃないか。ええか、頭っていうのは体の中で最も重い部位でのう、だからこそ投げの際には『振り子』みたいに使うことで遠心力や回転力を高めたりするが、これは間違った解釈だ。頭っていうのは守ってやらなくちゃいかん、それが幼子のものであったとしたら尚更じゃ。その左腕で大切な頭を守ってやったんじゃろ?はーん」
(そうだ。あの時は必死だったけれど、確かに『頭と首は守らなきゃ』って体中の関節をフルに使って受け止めたっけ。そしてあの子の頭は確かにオレの左腕にあった)
「お見逸れしました」
「弟にお見逸れされてもなあ。まあ治療の塩梅見ながらきっちり稽古つけてやるから今のうちに下半身をもっと鍛えておけ、来月からは片腕で腕立て伏せ出来るように鍛えること。柚子葉、脇をもっと締めろ。琥珀、左手が遊んでおる。あかね、寝技を磨け。また寄らせてもらうわ。はーん」
頭を下げた状態で吊った左腕の隙間から後ろを見てみると、おつかいに行っているりゅうせい以外全員漏れなくビシッと正座して頭を垂れていた。学校の部活で彼は何も言えなかったのではなく、あまりのレベルの低さに何も言わなかったのだとこのとき知った。
余談だけど、西山さんは初段らしい。
