見出し画像

川の街リュオーレの物語⑦ 第4話 記録士

湿った空気が、建物の中に入り込んでくる。
呼吸に小さな異音が混じっているのは、湿気のせいだろう。
そう思いたかった。
 
雨の時期は、好きじゃないんだよな……
ナナトは、重い足取りで階段を上った。
 
文書館は、リュオーレで数少ない三階建ての建物だ。
ここで働いていることを、羨ましいと言われることがある。
 
たしかに眺めはいい。特に、館主の部屋は。
 
でもナナトはただの記録士だ。
館主のところに行くことはほとんどないし、
呼ばれたときは緊張して窓の外を楽しむどころではない。
特別に厳しい人ではないのだけど。
 
記録士は、街の出来事や変化を書き留める。
 
しかし、この時期は別の仕事が入ってくる。
保管している文書が湿気で傷んでしまわないよう、毎日書庫を見回ることだ。
 
二階と三階の書庫に行き、一冊ずつ書物を広げて空気を通す。
棚の手前と奥の書物を並び替え、湿気がたまらないようにする。
そして、虫食いを防ぐ効果があるという葉を書物に差し込んでいく。
 
記録の仕事をしながらだと、一巡するのに数日かかる。
 
自分の喉の奥も、本と同じように開いて空気を通し、
薬を直接塗ることができれば、どんなにいいことか。
 
そうすれば、毎年のように悩まされる咳の発作も終わらせることが
できるかもしれない……。
 
そんな思いを抱え、ナナトは二階の書庫をゆっくりと歩いた。
 
誰がすべき仕事なのかは、定められていない。
ナナトが働き始めたときは、一番若い者が行うのだと考えていた。
 
そのまま十年以上になる。
より若い記録士が働くようになったが、手伝う素振りは見えない。
ナナトも、「やってくれ」と口にすることができなかった。
 
雨が降り出した。
三階の窓を閉めなくては。
古い書物を広げたままにしている。
 
急いで階段を上がると、喉の奥の異音が大きくなった。
抑えきれず、立ち止まって咳込む。
 
ほかの人にうつるものではないと医師に聞かされてはいても
周りを見回してしまう。幸い、今は誰もいなかった。
 
三階の書庫には、貴重な史料が収められている。
壁は木材で覆われている。湿気を吸い込んでくれるらしい。
 
窓を閉めるとき、広場を囲む建物の向こうに
セナーグ川が見えた。
最近の雨で水量が増している。
 
部屋の中が、今もわずかに残る木の匂いに包まれた。
胸の苦しさが少し収まったように感じる。
 
この香りは好きだ。
でも、ただ古いだけの史料がそんなに大事なのだろうか。
今、動いているものを残していくべきではないのか。
 
そのまま二階に降りる気になれず、
ナナトは書庫の椅子に腰を下ろした。
身体がもっと丈夫だったなら。
 
子どもの頃から数えきれないほど繰り返してきた思いに囚われる。
 
そうすれば、もっと大きな街の文書館で働けたかもしれないのに。
 
雨音が、屋根と窓を細かく叩いていた。
 
ナナトがリュオーレに来たのは、十代のときだ。
それまでは、この地方で一番大きいボッフェンで暮らしていた。
父と離縁した母が、故郷の街にナナトを連れてきた。
 
なぜ離縁したのかは、聞かされていない。
でも、リュオーレに来たのは、ナナトの身体のこともあったのだと思う。
 
たしかに、人も馬車も多く埃っぽいボッフェンよりも
リュオーレの水と空気は自分に合っていたのだろう。
咳の発作は、ずいぶん減った。
 
その代わり、ボッフェンの文書館で働くという夢は
早い段階で手放すことになった。
 
リュオーレが嫌いなわけではない。
でも、街の規模は出来事の多さと比例する。
そして新しいことが多く、早く起きるほど、記録の重要性が増す。
 
ナナトは、リュオーレの新市街のことを熱心に記録している。
どんな建物や店ができ、誰が訪れ、
新しいものがどう流れ込んできたのか。
 
記録すればするほど、ボッフェンとの差を感じてもいた。
 
リュオーレでも、新しいことは起きている。でも文書館の記録では、リュオーレに住む人の数は少しずつ減っているのだ。
 
せめて、一カ月だけでもボッフェンに行かせてもらえれば。
この街に役立つ知らせをいくつも持ち帰れるのに。
 
「ナナトさ~ん!」
呼ぶ声が階下から聞こえてきた。
「書物を見たいという人が来ています」
 
そうだ、今日は僕が受付の担当だった。
一人の閲覧者もいない日が珍しくないのに、
雨の中よく来るものだ。
 
この分だと、なかなか記録の仕事を始められそうにない。
ナナトは舌打ちをこらえて階段を下りた。
 
受付の来訪者は女性だった。
月に数回やってくる人だ。
 
これまでも何度か、応対したことがある。
自分とあまり変わらないぐらいの年齢だろうか。
 
たしか、街はずれの丘に住んでいると誰かが話していた。
文書館とは縁がなさそうにも思えるが、
書庫から出した植物の本や、街の歴史が書かれた史料を
夕方まで読みふけっていることがある。
 
その姿が、なぜか印象に残っていた。
 
文書の目録から顔を上げた女性は、
今日も街の歴史についての史料が読みたいと言った。
書名を確認するために閲覧の申込書を見ると、
ハルナギと名前が書いてあった。
 
ナナトは閲覧室に女性を案内し、
少し待っているように伝えて書庫に向かった。
 
また三階まで行かなければならない。
 
執務室を通るとき、同僚たちが静かに羽ペンを走らせる音が聞こえてきた。
僕は今日、ほとんど記録の仕事ができてないのに。
 
咳がまだ込み上げてきそうになるのを必死で抑えて階段を上った。
 
いや、違う。
この史料は三階じゃない。
 
百年近く前のものだが、住民が書いた何ということもない手記だ。
公的な文書ではなく、重要指定もされていない。
たまたま今まで残っていたという理由で文書館に来たのだろう。
 
そんなものを持ってこいと言われているのか、僕は。今じゃなくてもいいだろうに。
 
指先がわずかに震え、本の背を強く押してしまった。
 
ひとしきり咳込んでから、棚の書物を取り出した。
 
受付でそれを女性に渡すとき、思わず言葉が口をついた。
「リュオーレは、どんどん移り変わっています。
あなたも、昔のことだけでなく今を見た方がいい、と僕は思います」
 
意図していたよりも強い口調になってしまった。
でも、これぐらいは言っておきたかった。
 
女性は、意外そうな面持ちでナナトを見返した。少しの間、何も言わずに。
 
「昔と今は、そんなに切り分けるもの?」
 
「切り分けるとかじゃなくて……
あなたが読もうとしているのは、百年も前のただの日記でしょう。
今と、つながっているようには思えません」
 
喉の奥がヒューヒューと小さく鳴る。
 
手にした書物に視線を落とし、
女性は少ししてから言葉を続けた。
「西の橋の、本当の名前を知ってる?」
 
「えっ?」
思わぬ質問に、ナナトは戸惑った。
そして、答えられないことに気づいた。
 
女性がナナトを見つめる。
「オルネス橋。
でも今、そう呼ぶ人はほとんどいない」
 
オルネス。その名前には聞き覚えがあった。
母に連れられてリュオーレに来た頃のことだ。
街のことをリュオーレと呼ぶ人と、オルネスと呼ぶ人がいた。
 
母は、故郷の街の名が変わってしまったことに困惑しているようだった。
 
女性が言葉を継ぐ。
「私はただ、この街の歳月の積み重ねを
少しだけ知りたいと思っているの」
 
そして書物を手に、閲覧室の奥へ歩いていった。
 
その女性、ハルナギが文書館を去ったのは
空が薄暗くなる頃だった。
 
先刻ナナトとやりとりしたことには何も触れず
ただ「ありがとう」と短く言って
細い雨が降り続く外に出ていった。
 
ナナトは、ハルナギから受け取った史料を持ち、書庫へ向かった。
 
評議館が夕方に鳴らす鐘の音が聞こえてくる。
 
この史料には、はるか昔のことしか書かれていない。
 
そう思いながらパラパラとページをめくった。
何年もかけてセナーグ川に橋をかけようとした人たちの
日々が記されている。
 
石の切り出し、運搬、木で作る仮枠の設置。
揉めごとで石工が引き上げてしまいそうになったこと。
そして、川から上がることを決めた船渡し。
 
もし記録士がいたとしても、目を向けることのないだろう人たちだ。
 
でも。
 
試しに、ちょっと読んでみてもいいかもしれない。
時間のあるときに。
 
ナナトは書物を棚に戻さず、
ゆっくりと最初の一行に目を落とした。
 
さっきまでとは、少し違う呼吸で。



続きを読む



リュオーレの物語は、少しずつ続いていきます。
第1話の最後に、各話への道しるべを置いています。

川の街リュオーレの物語: 第1話 橋守|湖上珊歩