川の街リュオーレの物語⑨ 第5話 七色の虫~丘の子どもたち
森の小道に笑い声が響く。
けれど、リツホはその輪に入るのをためらっていた。
「祠まで競争だ~っ!」
息を切らせて道を上ぼる子どもたちの一番後ろで、少し距離を置いて
木の根元や倒木に目をやりながら走っていた。
あっ、あそこに……
このあたりの地形は知り尽くしている。
後で、採りにこよう。少し立ち止まり、場所を頭の中に刻みつけた。
そして、ずっと前に行ってしまったほかの子たちの後を追った。
最近、この道にイノシシが出たという。
だから今日はジャンゴを連れてきた。
ちょっと頑固だけど、頼れる犬だ。
まだ朝なのに、耳を覆うようにセミが鳴いている。
分かれ道の脇にある祠の前で、弟のディアッキたちは
汗だくでリツホのことを待っていた。
蚊が寄ってこないよう手足を振っている。
ジャンゴも、舌を出して息を荒くしていた。
「ぼくが、トップだったんだよ」
いちばん年下のマッカがリツホの手をつかんで得意げに言った。
葉物の野菜をつくる家の子だ。
丘に暮らす農家の子どもたちは、毎日のように一緒にいる。
家の手伝いの合間に来ているのか、こっそり抜け出して来たのか。
そんなことは誰も聞かない。
あたしも、少し前まではこんなふうに走ってたっけ。
ずいぶんと昔のことのように感じる。
両親と一緒に家の果物づくりをしていた兄が、三か月前にリュオーレの街を出た。
前から、「ほかにやりたいことがあるんだ」と
よく両親と言い合っていた。
農家が嫌なら、ならなければいい。
でも兄は、本当に「やりたいこと」があるのだろうか。
リツホはときどきそう思う。
兄がいなくなり、リツホが果物づくりに加わるようになった。
昔から果樹園を歩くのが好きだったから、まったく嫌ではない。
まわりの子どもたちと遊べなくなる寂しさよりも、
両親と同じことをする誇らしさの方が大きかった。
でも、仕事はやはり、遊ぶのとは違う。
リツホの家では数種類のみかんの木を育てている。
冬に色と形のいいみかんが採れるよう、いまは指先ほどの小さな実を
選んでもぎ取ったり、枝を切り落としたりしている。
どんなに日差しがきつくても、ハチやアブが飛び回っていても、
この時期にやらなくてはいけないことだ。
うちのお金のことが少しわかるようになったのも、最近のことだ。
みかん農家は、収穫のある冬にしかお金が入ってこない。
昨年、秋の嵐でみかんがあまりできなかった。
だからだろう、母さんが難しそうな顔で帳簿を開いている姿をよく目にする。
森を歩くとき、リツホはつい周囲を見回して
市場に持っていけそうなキノコを探してしまう。
それが、最近身についた癖だった。
「リツホ、よろしくな」
兄が家を出る前の夜、二人でいるときにかけてきた言葉が思い浮かぶ。
少しだけ、寂しそうな声だった。
「もう一回上まで競争しよ~っ!」
「もうやだ~!」
セミの鳴き声よりも大きな声が交差した。
弟たちはもつれ合うように丘の道をふたたび上り始めた。
祠のくぼみに乱雑に置かれた花を揃えて、リツホも丘の道を進む。
突然、隣にいたジャンゴが動きを止めた。
耳を立て、体を緊張させて道の右側を見つめている。
ガササッと藪の中で音がした。
束の間、淡く光る何かが見えたように思う。
でも次の瞬間には、何の気配もなくなっていた。
ジャンゴは、藪に飛び込むこともなく
また道を歩き始めた。
「ねえ、カマキリがいた!」
「長~い、鳥の羽根!」
子どもたちが入れ替わり、手に何かを持って知らせにくる。
みかんの木を弱らせるカミキリムシを突き出されたときだけは、
顔がこわばってしまったかもしれない。
道の先で、フクロウの声がした。
いや、ディアックの鳴きまねだろう。
ネズミかリスを驚かせようとしたのか。
ふと、甘酸っぱい香りが漂ってきた。
父さんがたまに飲むお酒のような匂いだ。
こんな樹液を出す木には、虫が集まってくる。
見ると、大きなハチが何匹かとまっていた。
リツホはあわてて先に進んだ。
やかましいほどに響き合っていた子どもたちの声が静かになった。
とたんにセミの鳴き声が耳を覆う。
誰かが道を下ってきたようだ。
……あの人だ。
子どもたちの向こうに、その姿が見える。
この先に住んでいる。
昔、茶畑の作業場だったというところだ。
子どもたちは、お茶小屋と呼んでいる。
この丘は、以前は茶畑が広がっていたと
何度も聞かされてきた。
リツホの家も、以前はお茶を作っていたそうだ。
「こんにちは、ハルナギさん」
弟が挨拶している。
暑いこの時期でも、袖の長い服を着ている。
農家ではなく、街の人とも雰囲気が違う。
どうやって接すればいいかよくわからず、
近くで会うとリツホは少し緊張してしまう。
でも、年少の子どもたちには関係ないようだ。
ハルナギも、しゃがんで目線を合わせ
差し出される鳥の羽根や小さな花を眺めていた。
そして、警戒心が強いジャンゴも、なぜかあの人には吠えかかったことがない。
意外と柔らかい顔つきをする人なんだな。
リツホは思った。
ハルナギがこちらに気づいて立ち上がった。
リツホが声をかけようとしたとき……
「あれ見て~!光ってる!!」
弟のディアッキが、ひときわ大きな叫び声を上げた。
指さす方を見ると、一匹の虫が
木の幹から飛び立つところだった。
広げた羽が、日の光を受けて輝いている。
見たこともない色だった。
ディアッキは、その虫の方に走り出していた。
大きな声を出して手を突き出すが、届かない。
虫は、ハルナギのすぐ脇を通り、道に沿って飛んでいる。
ハルナギは眺めるだけで、手を出そうとはしなかった。
「姉ちゃん、そっち!」
ディアッキがふたたび叫んだ。
リツホの方に飛んできている。
動きはあまり速くない。
何かを察したジャンゴが続けて吠えた。
「静かに!」
それを制して、リツホは素早く
虫が飛ぶ道筋の前方に向かった。
今だ!
思い切り上に伸ばした右手の手のひらが、
固いものに触れる。
手を握り、でも強く握り過ぎないように、体の前へ降ろした。
左手を添え、しっかり両手で覆ってから小さな隙間を作る。
入っている。
手の中で動くのがくすぐったい。
「つかまえた!」
大声が出た。
子どもっぽかったかなと、思わずハルナギの方を見る。ちょっと、恥ずかしい。
「どこ?」「見せて!」
子どもたちが一気に駆け寄ってきた。
リツホの手のひらにいるのは、何とも言えない色をした虫だった。
大きさは、リツホの親指ぐらいだ。
「見つけたのはオレなんだけどなぁ」
ディアッキが悔しそうに言う。
魚も虫も、捕まえた人のものになる。皆、それを知っている。
リツホは虫を指でつまみ、まじまじと見つめた。
緑がかった背中は輝き、赤い縦筋が入っている。
そして、光が当たる部分は紫にも金色にも見えた。
子どもたちが順番に虫を手のひらに乗せていく。みんな、目を丸くしていた。
虫が羽を広げて飛びそうになり、リツホは慌てて自分の手を上にかざした。
「七色虫、って呼ぼうよ」
虫の背中に目を寄せていたマッカが言った。
ほんと、そんな名前がぴったりだ。
ジャンゴは道の端に寝そべってあくびをしている。
自分のもとに戻ってきた虫を改めて眺め、リツホはハルナギのところに行った。
「これ、知ってますか?」
「昔、一度だけ見たことがある」
とハルナギ。
「うちで飼えないかな」
ディアッキが言った。
まるで宝石のような虫だ。市場に持っていけば、売れるかもしれない……
ほんの少しだけ、リツホはそう思った。
でも……
この虫は、森にいてほしい。
滅多に見られない虫ならば、なおさら、この丘の森に。
「七色虫は、何を食べるのかわからないしね。
さよならしよっか」
リツホは子どもたちに向かって言った。
ディアッキは、ちょっと残念そうな表情を浮かべた。
「あいつらに見せたかったけど……。まあ、いいや」
リツホは手のひらを高く上げた。
少しの間じっとしていた七色虫は、指先の方へと歩き、そこでもう一度止まった。
そして、羽を広げてゆっくりと飛んでいった。
日の光を受けて輝く虫を、皆眺めていた。
誰も、しばらく声を出さなかった。
やがて、その姿が見えなくなり……
セミの大合唱が、耳に戻ってきた。

リュオーレの物語は、少しずつ続いていきます。
第1話の最後に、各話への道しるべを置いています。
