【作家の日常】《エッセイ》 #4世知辛いにも、ほどがある。
薄暗い六畳一間。
西日が差し込むこともなく、ただ季節の移ろいだけが、壁の染みの形を変えていくような部屋だ。
ここには、古びた湿布薬の鼻を突くような匂いと、行き場を失った溜息ばかりが淀んでいる。
俺が座る卓上のコップ。
その中では、淹れてから二時間以上が経過したコーヒーが、すでに表面に薄い膜を張り、主である俺の、生気の抜けた顔を淀んだ水面の中に映し出していた。
俺は、その黒い水面をじっと眺めながら、人生というものの底について、とりとめもなく考えていた。
人はよく「どん底」という言葉を使う。
そこは、何か硬質な地面のようなもので、一度叩けばコンコンと虚しい音が響き、そこから反転攻勢に転じることができる場所だと思っていた。
だが、現実はどうだ。
どうやら人生の底というのは、そんな明確な境界線があるものではないらしい。
それはむしろ、踏み込めば踏み込むほど粘り気を持って足首を絡め取り、底なしに沈み込んでいく泥濘のようなものだ。
呼吸をすればするほどに肺の奥まで重苦しさが侵入し、抗えば抗うほどに深く沈む。
俺は今、その泥の深さを、肌の温度で測っていた。
その時だった。
膝の上に、微かな、しかし確かな重みを感じた。
いつからそこに居たのか、古びた毛布のような色をした愛猫のクロが、器用に身体を丸めて収まっていた。この、文明社会から完全に断絶されたかのような孤独な家屋において、唯一、俺の体温を肯定してくれる存在である。
クロの放つ穏やかな熱は、冷え切った俺の膝に、微かな生の実感を灯した。
俺は、去りゆく季節を窓越しに見送るような、静かな慈しみをその背に込めて、ゆっくりと手を伸ばした。「お前だけは、俺を見捨てないでいてくれるのだな……」
その呟きは、湿った空気に吸い込まれ、哀愁を帯びて、この薄暗い部屋を満たしていくかに思えた。
完璧な構図だった。
孤独な男と、それに寄り添う無垢な獣。
この瞬間、俺の人生の底は、少しだけ綺麗な形に収まったような気がした。
だが、俺の指先がその毛並みに触れるか触れないかの刹那。
クロは、あろうことか、極めて事務的な動作でコクリと首を巡らせると、差し出された主の手を、一切の迷いなく、ガブリと力任せに噛んだ。
「……痛っ!」
静寂は、あまりにも卑近で、あまりにも生々しい物理的苦痛によって、あっけなく霧散した。
先ほどまでの叙情的な空気はどこへやら、憂愁に浸っていたはずの男は、今やただの「飼い猫に手を噛まれた男」へと成り下がった。
慌てて手を引き、指先から滲む小さな赤を睨みつける。
クロはといえば、悪びれる様子もなくフイと鼻を鳴らし、主の膝を、まるで不快な足枷でも外すかのように力強く蹴り飛ばして、床へと飛び降りた。
その拍子だった。
クロの細い後足が、卓上の淵に置かれていたコップの縁を絶妙な角度で引っ掛けた。
「ガシャリ」
あまりに無慈悲で、あまりに間抜けな音が部屋に響く。
床に広がっていく冷めたコーヒーの海。
四方八方に飛び散り、光を反射するガラスの破片。
それらを呆然と眺めながら、俺は深い深い溜息をついた。
『メメント・モリ(死を想え)』なんていう言葉があるが、現実はそんな格好のいいものではない。
この状況、この惨状には、あまりにも生活感が溢れすぎている。
俺が噛まれて呻き、床が汚れ、割れたガラスを拾わねばならないという、極めて世俗的で、極めて面倒な問題が、俺の崇高なはずの孤独を完全に台無しにしてしまった。
クロは部屋の隅で、何事もなかったかのように毛繕いを始めている。
あの噛みついた歯の感触だけが、妙にリアルに残っている。
この世知辛さといったらどうだ。
誰かのせいにすることもできず、ただ濡れた床をどう拭き、ガラスの破片をどう処理すべきかという、目の前の現実だけが俺を支配している。
俺は、ぼろ雑巾を手に取り、這いつくばって床を拭き始めた。
コーヒーの匂いと、先ほどの湿布の匂いが混ざり合って、なんとも言えない生活の臭気が鼻をつく。
ああ、本当に世知辛い。
人生の底で溺れているかと思ったが、どうやら俺は、ただの日常という泥の中で、自分の滑稽さに足を取られているだけなのかもしれない。
まあ、いいさ。
クロが明日もまた、何食わぬ顔で膝に乗ってくるのなら、それもまた、この世知辛い人生の、数少ない潤いの一部として数えてやることにしよう。
そう自分を納得させながら、俺は最後の破片を新聞紙に包んだ。
明日になれば、また新しい一日が、まるで何事もなかったかのように平然と始まるのだろう。
それが、この世知辛い世界の、唯一の救いかもしれないのだから。
