600円で送る 銘柄:マールボロ・レッド



過去は動かない。

過去からは、ただ届くだけ。

過去はその空気までをも固定し、情報をそこに残し、こちらが確認したいと思ったものだけを引き出せる。

固定された空気にアクセスするには、一定の解読キーを必要とする。

IDとPASSが一致しないとログインできないのと同じ。
どちらか一方を知っていても、それを読み解くことはできない。

一致しないまま何度も間違えると、アラートが表示され、いずれはその記憶自体がアクセス不可能なものになる。

過去によって固定された空気は、未到達という更なる固定の憂き目にあう。




ダムの底から村が、40年ぶりに姿を現した。
湖底に沈んだその村は、すでに風化し、もう人が住むことはできない。
しかし、かつての風景をありありと示すのには十分な状態で私たちの前に現れた。

記録的な小雨が続く東京では、節水が呼びかけられ、田畑は干上がりかけていた。
街にはそこはかとない、言葉にできない微かな不安が広がり、変わらない日常がわずかにズレるのを感じていた。
通りで手を挙げればタクシーは止まるけど、少し先まで進んでしまったときみたいな。

満員の電車から出てくる人々は、いつもと同じように、朝一番から疲れた顔をしていた。
踏みつけられ、押しつぶされたその顔から読みとけるのは、いつもの日常。
そこに追加された渇水というわずかな不安と、湖底の村への野次馬的な関心だった。

ダムの湖底から現れたのは、村役場や桟橋、それから一時停止を示す道路標識。かつてそこで車の往来を規制したそれは、今、これ以上水位が下がることを規制している、あるいは人々の希望を示しているようだった。

雨はまだ降っていなかった。
まだ渇水は続くだろう。
しかし、雨は、いつか必ず降るものだ。


2月の初めに、友人が死んだ。
約5mの高さから落下した、そうだ。
その日彼は酒に酔い、冷えた手をポケットに突っ込み、低いガードレールがある道の端から、嘔吐しようとしていた、のかもしれない。
嘔吐の反射で勢いがついた体は、そのままガードレールを越えてしまった。

5mだ。

なんとなれば死なずに、確かに大怪我はするだろうけど、死なずに済むかもしれない高さだ。
でも、彼は逝ってしまった。
42年の人生を、軽く飛び越えてしまった。
僕と彼にはまだまだやることがあった。
僕たちの年齢も子供の年齢も、女の子ということも同じ。
同じように、父としてやるべき沢山の大仕事。
たどたどしく歌う姿を喜び、いつまでも続くわがままと闘って、ご飯を食べ、寝て起きて、一緒に育って、いつか僕らの知らない誰かにその手を渡す。
そんな過酷で素敵な日々を共に乗り越えて行ったその先で、またどこかで酒を酌み交わす、はずだった。
その酒は宙に浮いてしまった。
宇宙船の中でこぼれた液体のように、固定され、ふわふわと漂って、さわれば霧散してしまう。

#
神奈川県にある、小さな寺。
寺の名前がそのまま駅名の駅を出るとすぐそこにあった。
通夜と葬儀に参列して、彼を見送るために訪れたその街は、渇いた空気をはらみ、僕たちを迎えた。

寺で行う神式の通夜葬儀。
小さな違和感はそのまま、僕たちが抱える違和感だった。
まだ、そう、まだここに来る日はずっと先にあったはずだったのに。

彼が残した、まだまだ小さな子共の声がする。
拙く歌う、ミッキーマウスマーチ。
彼女もまだそれに気がついていない。
彼女に触れて、彼の無念を知る。
明日が今、始まった。
だけど、彼はもう明日に行くことはできないのだ。

僕たちは、彼が吸っていたマールボロの赤を一緒に吸った。
僕がタバコを止める前はまだ500円とかだったのに、今は600円もする。
電子タバコにはないちゃんとした煙は、100円分の重みを増していた。
火をつける。
弔いの煙が宙に消えていく。
久しぶりに吸う紫煙が肺を揺さぶる。
軽い咳き込みと口に残る苦さ。
友を失う痛み。
それぞれを吸って、はいて、空へと返していく。
その煙がいずれ雲になる。

渇いた関東の空に雨が降り出した。

#
過去はもう固定された。
ダムの底に沈めて、何十年に一度の小雨のときに、チラッと見ることができる程度に。
もうそこに戻ることはできない。
必ずIDとPASSは一致させなくちゃいけない。

日常はずっと続いていく。
新幹線は新大阪駅に到着した。

#この駅がすき
#ekinote

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