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アップデートできなかった四国の足利家:阿波公方・民俗資料館 徳島県阿南市

「都落ち」の語源は、平安末期に京都に押し寄せた源氏方を前に一族で逃亡した平氏から。時代は下って室町時代。
幕府草創期には(将来の)将軍自らが戦うことも珍しくはありません。
ただ室町時代後半になると将軍継承に際してはある意味日常のように。
そして形勢が不利とみるや「都落ち」も選択肢の1つです。
今回は史上最も流浪した将軍の系譜の記録。


阿波の国(徳島県)は関西圏からの四国側の玄関口
その徳島県の面積の約80%を占めるのは山地。
そして四国の東端で県内では貴重な平野部にあるのが徳島県阿南市。
人口は66,000人と徳島市に次ぐ県第2の規模。
江戸時代には尾張出身の蜂須賀家が淡路島と共に阿波一国(25万石)を統治。しかも室町幕府の将軍(しかも2人)の歴史が残るという興味深い土地(蜂須賀家的にはやや迷惑を被った歴史も)。

阿南市立阿波公方・民俗資料館

阿南市立阿波公方・民俗資料館は1988年に設立された資料館をベースに、2006年に開館。阿波公方家は270年にわたり(1534年~)この地を拠点とした足利将軍家の末裔です。資料館は阿波公方のかつての居館跡。

徳島県阿南市那賀川町古津339-1

パンフ 2026年版

展示室はメインの1室と民俗資料室が1室。昭和感あふれる展示室ですが、ココならでは唯一無二なコンテンツが目玉。

阿波公方とは

1467年に勃発した応仁の乱は、管領家の畠山氏と斯波氏それぞれの家督争いと将軍家の後継問題が複雑に絡み合い11年も続きます。その後の明応の政変により将軍家の後継問題はより複雑化し、義稙系と義澄系の対立構造に。

資料館の展示ネタは、室町10代将軍足利義稙よしたねの後継者義冬よしふゆ義維よしつな)を初代とする阿波公方あわ くぼう(平島公方)をコアとした資料類。

足利義稙よしたね義材よしき義尹よしただ:1466-1523)は室町10代将軍。
将軍職には生涯2度就いた唯一の人。父は足利義視よしみ(8代将軍義政よしまさの弟)、母は日野良子(義政正室・富子の妹)で美濃の育ち。

応仁の乱のドタバタの中に生まれ、将軍就任後には管領細川政元ほそかわ まさもとのクーデター(明応の政変)により幽閉。11代将軍は政元が擁立した義澄よしずみに。
幽閉されても自力で脱出し、越中(富山)や周防(山口)と流浪して再起を目指したバイタリティ溢れた人。

細川政元が家中内紛のドタバタで暗殺され義稙のアンチ勢力が衰退すると、11代義澄は京都から逃亡してしまい、義稙は将軍の座に奇跡の復活!
ただ追放された義澄は義稙に対して食事に毒を盛ったり刺客を放つなど、気の抜けない緊張状態は続きます。

2度目の将軍になったものの、義澄派との争いや後ろ盾となっていた大名とのイザコザから京都を出奔。堺、淡路を経て阿波細川家の本拠へと移り、撫養むや(徳島県鳴門市)で波乱万丈の人生にピリオド。

バイタリティの人

義稙のスゴイところは各地を放浪しながら常に再起を目指し、また自身で刺客を撃退あるいは毒を盛った食事を見分けたりとサバイバル技術を身に着けていた点。このあたりは3代将軍義満よしみつ以降公家化が進んだ足利家において、初代尊氏たかうじに通じる状況判断・生存能力です。

続いては阿波公方の祖となる足利義冬よしふゆ義維よしつな:1511-1573)。
阿波守護の細川家で養育され、10代将軍義稙(義澄のライバル)の養子になった人。また12代将軍義晴よしはるとは兄弟。

わずかに運の足りなかった人

管領細川晴元ほそかわ はるもとやその家臣三好元長みよし もとながを後ろ盾に畿内に進出し堺公方と呼ばれますが、細川・三好家の内紛によって堺を退去し、1534年に天龍寺領だった阿波平島(阿南市)へと落ち延びます。
阿波守護の細川氏之うじゆき持隆もちたか)には3000貫で迎えられ、はじめ西光寺のちに平島館を構え1573年その地で没します。
残念ながら将軍には手が届かず、その夢は嫡男義栄に託されます。

託された足利義栄よしひで義親よしちか:1538-1568)は平島生まれ。
阿波三好氏&三好三人衆の後ろ盾とし、上洛することなく摂津富田とんだ普門寺ふもんじで14代将軍に就任した人(三好家に殺された13代将軍義輝よしてるの後継)。
ちなみに普門寺は三好長慶ながよしが主君であり父・元長を欺いた細川晴元を幽閉したという歴史を持つお寺。

父に似て運の足りなかった人

ただライバルだった義昭(後の15代将軍)を擁した織田信長の上洛により、将軍在位はわずか7ヶ月で終幕。義栄は阿波撫養で父に先立ち病没します。

後継は義栄の弟義助よしすけ(1541-1592)。
父や兄同様に上洛の機会を伺いますが、織田勢の前に細川家や三好家は弱体化が進み、後ろ盾を失った阿波公方は平島に逼塞します。
ただ当時四国を統一しつつあった長宗我部ちょうそかべによって阿波公方の所領(3,000貫:約5,000石)は保証され、平島館に定着。

ちなみにここまでの像を見て思い浮かんだのは、京都の足利家菩提寺等持院にズラッと並んだ坐像群。
2019年九州国立博物館(福岡県太宰府市)へ下向しての展示は圧巻でした。

室町将軍 展 図録
編集:九州国立博物館
発行:西日本新聞社・TVQ九州放送・テレビ西日本
2019年 303ページ 

図録で比較してみると、等持院と資料館の坐像は表情がビミョーに異なります(ちなみに14代義栄像は等持院にはありません)。
図録は将軍家ゆかりの宝物群と併せて室町将軍家資料として貴重な1冊です(もちろんの絶版)。

一方、資料館にも京都で活躍した将軍様ゆかりの品々がゴロゴロと。
館の規模もあるので、展示品の複製多数な点には目をつぶっていただければ(ここでは原本が伝来された事実が重要)。

最初は初代将軍足利尊氏たかうじによる軍旗(複製)。

初代 尊氏

県内で個人蔵されている軍旗(尊氏筆とされる)は県の指定文化財。

続いては3代義満よしみつの和歌(複製)。

3代 義満

義満は公家に食い込みつつ将軍家の権勢を確固たるものにした人。
こちらの原本は阿波公方家末裔の所蔵品。

義満の子で4代となる義持よしもちの書(複製)。

4代 義持

こちらも阿波公方末裔の所蔵品。

8代義政よしまさは応仁の乱の当事者。そして日本文化に大きな影響を残した人。
展示品は和歌(複製)と石!の2点。

8代 義政(原本は末裔所蔵)

和歌はやはりの阿波公方末裔の所蔵品。
そして石は阿波公方が阿波の菩提寺に奉納した「濡れがらす石」

8代 義政(西光寺所蔵)

義冬により奉納された濡れがらすは義政秘蔵で、寺の火災時にはこの石が泣いて知らせたと伝わる雨乞いの石です。

ここからは阿波公方歴代の品々が続きます。

阿波公方譜(複製)
9代阿波公方義根よしねのころに作成された系図。スタートは10代将軍義稙から。

自分たちの由緒を確認

公方館(平島館)で使用されていたとされる欄間。

欄間

二つ引両のデザインは、将軍家の血筋をこれでもかと猛烈アピール。

1585年から豊臣政権下で蜂須賀はちすかの阿波支配がはじまると、阿波公方の所領は没収され、与えられた領地はわずかに5,000→100石と激減。
さらにはその権威は低下させようと、名字も足利から平島へと変更させられます(よくあるのは、自ら統治者に憚って変えますパターン)。

一方、阿波の民たちには、都からの貴種として崇敬の対象として見られていた阿波公方さん。ある意味そんな環境が、阿波公方の嗅覚(空気を読む感覚)を狂わせていたのかもしれません。

阿波公方のご威光はヘビにも有効だったそうで、源氏の印を押した「阿洲 足利家」と書かれた札がマムシよけのお守りとして流行ったそうです。

マムシよけ札 床の間用(寄託)

札は徳島県内には広く残っていて、大阪でも見つかっているそうです。
その影響力はかなりのモノだったようで、苦々しく思った藩主・蜂須賀家は禁止令を出すほど。いわば地域に根付いた元将軍家のサイドビジネス。

小松島&阿南 (寄託品)

ちなみに21世紀の入館者には、ラミネートパックされたお守り札を配布中! 
今や都市部でマムシに出会う機会はほぼありませんが、カブトムシ探しではマムシとスズメバチが最大の敵だった子供のころに欲しかったアイテム。

そのご利益は?

阿波公方は娘の嫁ぎ先にも、その血筋に一定の権威があったようです。
こちらは前橋藩主家からの年始礼状(複製:原本は末裔所蔵)。

年始のごあいさつ

書礼に厳しいのが大名家。徳川家康の血を引く松平大和守家からの書状でも、阿波公方を目上として扱っています。
またそういった大名家は、阿波公方の支援者に。

ちなみに阿波公方家8代義宜よしのぶが、従兄弟の大奥上臈の松島に宛てた書状も残っています。内容は「平島家の身分や格式を復旧させるよう幕府に働きかけてね」という依頼書。
阿波藩を飛び越えて幕府の実力者に手を回すほど、蜂須賀家の待遇は元将軍家のプライドを傷つけたようです。阿波藩も面倒だったとは思いますが。

蜂須賀家との関係が悪化した結果、1805年に9代義根よしねは阿波を退去して京都等持院へと移ります。
こちらは退去前に11代蜂須賀治昭はるあきから阿波公方家に出された慰留状追書。

退去慰留状

藩主から義根に対して出された3通!の慰留状の1通(複製)ですが、その内容はやっぱり上から目線だったそうです。
また阿波公方家も、未だに現状を受け入れられなかったともいえます。

義根は船で和歌山を経由して京都に入ったそうで、当時の御座船が模型で再現されています。船の呼び方も公方プライド。

御座船

京都での阿波公方(後に京都足利家)は、紀伊徳川家や足利家ゆかりの寺院の援助を受けて存続しました。
明治維新後は爵位獲得のためにご当主が動きましたが、爵位どころか士分にもなれず平民というドラマのような結末に。
残念ながら義稙のようなバイタリティは継承されなかったようです。

阿波公方退去後の平島館は解体されますが、一部遺構は小松島市内の寺院に移築されています。

受付の脇には、地元の小学生が製作した公方館の想定模型。
周囲を田畑に囲まれた現在からは、とても想像できないその姿。

在りし日の姿

また平島館は徳島南部の漢文学の拠点としても知られました。
展示品にもその歴史を持つ品々が並びましたが、あまりにもローカルネタ過ぎてついていけません(当主自筆の書画もややビミョー)。

ただパネル展示を復習してみると、義根と交流のあった人々の中には京都相国寺や南禅寺で住持を務めた大典顕常だいてん けんじょうや大坂の木村蒹葭堂けんかどうの名も。
このあたりの人間関係は大名クラス。まあ元将軍の血筋ですけど。

資料館のそばには、旧平島館を示す碑と藩主室のお墓がわずかに。
あまり思いを馳せる的な雰囲気ではありませんが。

西光寺:阿波公方の菩提寺

平島まで足を運んだのなら菩提寺もセットで。
室町将軍の中には複数のお墓がある人もいますが、四国ではココが唯一。

西光寺(真言宗)は義冬が平島に来た時の最初に居館とした場所。
後には阿波公方の菩提寺。

本堂はそれほど古くはない建物。境内には、塀と門とで囲まれた一角が。

3人のお墓はきれいに維持されています。

二つ引両

中央に放浪の将軍・義稙
その右が義稙の養子で阿波初代・義冬
一番左が義冬の子で14代将軍・義栄
時代が下るほどお墓が小さく。将軍かどうかはサイズに影響はない模様。

ここまで書いてきて、いまだに正確に将軍を記憶できていません。
すべては暗殺された6代将軍義教や応仁の乱あたりのドロドロから。
そんなドタバタ感をサポートするのがこの1冊。

戎光祥出版の「室町幕府将軍列伝」。15人の将軍だけでなく阿波公方初代の義維も解説されています。どの「足利」だったか迷った時には必携の書。

また応仁の乱以降は管領家も後継者を巡りドロドロが展開します。
細川も斯波も畠山もとまとめて解説したのが星海社新書の
「室町幕府全将軍・管領列伝」。

ほとんどの乱キャストは、状況に応じて手を組む相手も目まぐるしく変わります。ドラマ化されてもすべてを把握するのは困難と思われる時代です。
どの「足利」がどの「細川」あるいは「畠山」と組んでいるのかは時系列も加味する必要があるという室町後期。おまけに「三好」が絡みだすと・・・


ブラっと訪れても、コンテンツの概要さえも掴めないかもしれない阿波公方民俗資料館。義稙のようにあちこちを放浪した結果、ココにたどり着くのが正解なのかもしれません。もちろん京都や大阪を押さえた上で。

ちなみに徳島県の西側に位置する祖谷いやは「都落ち」の本家・平氏の末裔が隠れ住んだという阿波観光スポットの1つ。
平島を見て祖谷へのアプローチは徳島市から国道438&439号線を使えば、中世&近世とダブルで都落ちの苦難が理解できるかも(心は折れるかも)。

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