住むにはちょっとクールすぎる邸宅 鎌倉歴史文化交流館 【お宅訪問9:ノーマン・フォスター】神奈川県鎌倉市
古都鎌倉。奈良や京都と並ぶ文字通りの古き都。
単なるキャッチコピーではなく、古都保存法という法律によって定められています(知りませんでした)。
往時の政治、文化の中心として歴史上重要な地位を有する10市町村(ほかに天理市、橿原市、桜井市、斑鳩町、明日香村、逗子市、大津市)が指定されています。
鎌倉市の人口は170,000人。意外に少ない印象ですが人口密度は高め。
鎌倉駅を中心に鶴岡八幡宮から長谷寺にかけては観光客でごった返し、そのエリアに車やバイクで突入するにはちょっと躊躇します(また限られる駐車場や駐輪場)。
一方、延入込観光客数は2023年の実績で1,200万人。コロナ前には2,000万人級!と京都同様のオーバーツーリズム問題は古都ならではでしょうか。
目当てのミュージアムがあるのは市役所の少し北側にある扇ガ谷の南端、ほぼ住宅街になっているので飲食店も少なく観光客もまばら。
扇ガ谷といえば思い浮かべるのが上杉氏。上杉氏は室町時代に幕府の関東管領職(鎌倉公方の補佐:目付)を世襲した家で、室町幕府を開いた足利尊氏・直義兄弟の母の血筋。いくつかの家に分流し、扇谷上杉氏と山内上杉氏がその有力家(それぞれ鎌倉の扇ガ谷と山之内に屋敷があったことからそう呼ばれました)。

鎌倉では戦火や災害によりかつての遺構はかなり失われていて〇〇跡という表記をよく目にしますが、今回のミュージアム(邸宅?)はそういう歴史のド真ん中に存在しています。

駐車場は身障者専用のみ。ただし駐輪場は設けられ、バイクも利用可

2002年の発掘調査で別館の地下から大量のかわらけと共に発見。
鎌倉の中世庭園としては最古級で、移設保存されています。
鎌倉歴史文化交流館


鎌倉歴史文化交流館(以下交流館)は2017年の開館で、ノーマン・フォスター(1935- )率いるフォスター・アンド・パートナーズの設計。
フォスターさんはナイトの称号を持つイギリスの人。
ロンドン市初代庁舎(2002年:妙な呼ばれ方をされた建物)やアップルの本社(アップル・パーク:2017年)の設計が知られています。
神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-5-1


交流館はもともと個人住宅のKamakura House(2004年:センチュリー文化財団所有)で、2013年に鎌倉市へ寄贈されています。
ミュージアム化によってどの程度オリジナルなのかは不明ですが、外国の著名建築家設計の住宅で公開されている例はあまり聞きません。
ちなみにかつて財団の入っていたセンチュリータワー(東京都文京区:1991年、現順天堂大学)もフォスターさんの設計。
センチュリー文化財団は、赤尾家(旺文社の創業一族)のコレクション(文字:書に関するモノを中心)を所蔵・管理していました。
以前はセンチュリータワーから移転したセンチュリーミュージアム(新宿区早稲田鶴巻)で公開されていましたが、2021年に閉館。

外観はフツーの建物で気付きにくい
所蔵品は慶応義塾大学へと寄贈され、慶應義塾ミュージアム・コモンズで展示・公開されています。そして財団は日本生涯学習総合研究所と合併。
それでは旧邸宅とは思えない館内へ。




本館も別館も各部屋が広くゆったりしているため、展示室としての構成には最適だったのでは。
室内からの眺めは枯山水を通り越して石化した独特な光景が広がります。





鎌倉時代には九州や東北には見るべき焼きものはなかったようです。
九州各地に優れた窯が作られたのは鎌倉時代からずいぶん経ったころ、江戸幕府への献上品や大名間の贈答品の定番となった平和な時代。

この鎧のオーナーは畠山重忠(1164-1205)。一ノ谷の戦い鵯越の逆落としでは、馬を背負って斜面を駆け下りたという冗談のような人。ちなみに血筋は平氏。
この鎧の質感は新しすぎて、まさに豪邸のインテリア的なたたずまい。


なぜか寝殿造り風の建物が(入れません)。
オリジナルらしいのですが施主によるオーダー?

こじんまりと展示された資料類。鎌倉海浜ホテルは1887年ごろ由比ガ浜に建てられた療養所海浜院がベース。
のちにJ・コンドル設計による改修が加えられ外国人にも人気のホテルに。
太平洋戦争後に米軍に接収され、その後火災で焼失。

本館をぐるっと回って別館へ。別館はゲストハウスの設定でしょうか。
現在は企画展示スペースのようです。


幕府発祥の地:鎌倉


2024年9月-11月 @交流館
2022年にも今回同様のその名も北条氏展(後北条氏ファンが二度見する紛らわしい表記)が開催されています。
残された資料では源氏三代系の展示はムズカしいのかも。
ここでは交流館の展示品に加え、参考として他ミュージアムからの資料で補強しておきます。
源頼朝(1147-1199)は、源義朝の3男。
平治の乱で父・義朝は敗れましたが頼朝は助命され、京都から伊豆へ配流されています。

京都の平家に不満を持つ勢力を伊豆で結集し挙兵、平家を滅ぼして武家政権の鎌倉幕府を樹立した人。
参考その1:年代が明確な貴重な書状、かつ頼朝さんの直筆。
文末には花押がハッキリ。

参考その2:下野の小山朝政に対する地頭職の任命書。

御家人たちは政所(幕府の機関)発給の下文(オフィシャルな指示書)より頼朝自身の下文を求めたそうです。
袖判は文書の右側にサインや花押が書かれたもの。
吾妻鏡は鎌倉幕府のオフィシャル・ヒストリーブック。

幕府を執権として掌握した北条得宗家による勝者側の記録。
参考その3:吾妻鏡の原本。

表紙にペタペタ貼られていますが、豊臣秀吉の小田原攻めでの和議において、黒田官兵衛(孝高:1546-1604)が後北条家から贈られたもの(のちに黒田家から徳川将軍家へと献上)。
御成敗式目式目(貞永式目)は、3代執権北条泰時(1183-1242)を中心とした鎌倉幕府により制定された51箇条の武家による法令。

室町幕府以降の為政者に対しても大きな影響を与えています。
参考その4:御成敗式目。室町時代の巻物形式の写本。

北条氏150年展の展示品は、室町時代までカバーしています。

4代鎌倉公方だった足利持氏(1398-1439)が鶴岡八幡宮別当(責任者)を任命した書状。

持氏は室町幕府に盾突き、6代将軍足利義教(1394-1441)に攻められ鎌倉で自害しています。源氏の血筋はエグい。
庭園というより遺跡

やぐらは鎌倉地域に見られる横穴の供養堂(墳墓)。
鎌倉期から室町期にかけて掘られたモノだそうです。

実は右側の三連穴は明治以降に作られたモノらしく、左端にわずかに見えているモノがやぐらだそうです(庭にあるのもどうかとは思いますけど)。
別館側には屋外にベンチが設けられています。

庭側もオリジナルかどうかは不明ですが、石が敷き詰められややクセのある空間が広がります。素材の石のチョイスは切通しのイメージでしょうか?
本館側へは立ち入り禁止になっていました。

ちょっと階段で上がったこの位置からは、海がかろうじて見えます。
邸宅の2階部分からは海が望めそう。安全面からか2階部分を開放するのはムリなのかも。

別邸が立地するこの場所は、閑静な住宅街の最深部かつ背後は天然の崖という富裕層には最適なロケーション。
元オーナー家は祖業の出版業からメディア業へと進出し、かなりの財力をお持ちだったようです。ただその流れの中で形成された財団のコレクションそしてこの邸宅は、現在では手放されています。

ラッキーな寄贈を受けたのは鎌倉市。歴史研究や施設の利用推進を通して、この器にふさわしい鎌倉の深堀りを期待してしまいます。
そもそもキャストの名前を覚えるだけでも一苦労なのが鎌倉時代。

