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本能寺の変以降の織田家 楽山園:小幡陣屋跡【織田家のトビラ4】 群馬県甘楽町

江戸時代にはかなりスケールダウンしてしまいましたが、戦国時代の主役を務めた一族の痕跡が関東・群馬県に残っています。
よくよく調べてみると、加賀百万石・前田家の別家(七日市藩)や、将軍家との関係をベースに公家の最高位・五摂家から武家へと華麗な?転身を遂げた家(吉井藩)など、小粒ながら興味深い大名が見られる特殊なエリア。
今回は将軍家も一目置き、戦国時代の風雲児の系譜が築いた城下町の記録。


かつての上野こうづけの国・群馬県の南西部にある甘楽かんら町。上信越道が走っているので交通の便はそれほど悪くもなく、人口は12,000人と小さな町です。

徳川家康の関東転封時には、信頼度の高い四天王から榊原康政さかきばら やすまさを館林10万石(館林市)、井伊直政いい なおまさを箕輪12万石(高崎市)に配置した上野。そして江戸時代も安定期に入ると、中小大名による分割統治へと移行しています。
譜代・親藩大名が入れ替わり統治した地域は、継続的な藩政は望みにくく、規模的な問題も重なって特定の大名家による文化醸成(家中のカラーのようなもの)にはやや不利だったと思われます。
そうなると現代の統治者たる自治体は、歴史の観点から観光の目玉となるコンテンツを模索します。

まずは観光コンテンツの導入部といえる、風雲児の系譜のお墓へ。

織田家7代の墓

最も右側が初代信雄

織田家7代の墓には、小幡藩初代織田信雄のぶかつ(1558-1630)から7代信富のぶとみまで、御霊屋が整然と並んでいます。

群馬県甘楽郡甘楽町小幡1423

菩提寺が火災に見舞われたりと紆余曲折はあったようですが、現在は観光スポットとして奇麗に整備されています。墓所は2020年度に整備完了。

墓前の広場は、焼失したかつての崇福寺跡。

歴代藩主たちが眠っているのは、遠く榛名山が望めるビューポイント。

織田信雄という人

織田家7代の初代となる信雄は、覇王織田信長の次男。信長の拡大戦略の一環で、公家から守護大名化した伊勢北畠きたばたけへ養子に入っています。
本能寺の変後の信雄の所領は、尾張を中心に100万石! 居城は清州城。
織田家中で豊臣秀吉の権力が増大してくると、三河の徳川家康と連携して秀吉に対抗しますが、小牧・長久手の戦い以降は人たらし秀吉に臣従。

信雄像 @甘楽町歴史民俗資料館(寄託)

そして秀吉の統一事業の最終章となる小田原の役後に、秀吉からの加増転封の話(命令)を断ると改易されてしまいます。
紆余曲折を経て秀吉の御伽衆に加わりますが、1615年の豊臣家滅亡後に徳川家から大和松山(奈良県大宇陀町)と小幡合わせて5万石を拝領。
武将としては目立った功績は少ない信雄ですが、能の名手だったそうです。
偉大な父の功績と印象に隠れ、ちょっぴり同情してしまう人。
ちなみに肖像画は幕府御用絵師神田要信(1854年)によるもの。

信雄 五輪塔

信雄は京都で亡くなると、父と同じく大徳寺総見院に葬られます。
そして所領だった小幡宝積寺(後の崇福寺)と大和室生寺に分骨。

2万石とは思えないデカさ
位牌堂

位牌堂は墓所南側にあり、1986年と新しめの建立。
安置されるのは藩主と後見役(信雄の子)を含め10柱。上段右端が信雄。

ただし織田家は1767年に出羽高畠へと移封され、関東を離れています。
以降の小幡は松平家(奥平系:2万石)の所領に。

伝説の柊

本能寺の変後に信長の首は秘かに静岡県富士宮市に埋葬されたとされ、首塚が現存しています。その場所に祀られたひいらぎは樹齢400~500年といわれ、埋葬されたとされる時期とほぼ一致。
その柊が第27回織田信長サミットの記念に、この地に分けられています。

続いて織田家が小幡に存在した証、藩邸跡と大名庭園へ。

楽山園

楽山園は織田信雄の命により築庭された、群馬県唯一の現存大名庭園。
信雄が狩猟でこの地を訪れた際に、井戸(熊井戸)に映った山影の美しさから庭園地として選定。

庭園は前田、池田、浅野といった国主クラスとなっていたかつての家臣筋から、数万両というあやしい寄付を集め、京都から藪中剣仲やぶなか けんちゅうらの名匠を招き、庭園完成までに掛かった歳月は7年という意欲作。

群馬県甘楽郡甘楽町小幡648-2

庭園名は論語の故事から採用。将軍家となった徳川家に対して謀反の意がない事を示すためとも。平和な時代の到来を意味する元和偃武げんな えんぶを大義に。
庭園の完成は1628年、隣接した陣屋は1642年に移転完了と気の長いお話。

藩邸は土塁、空堀、石垣、板塀等に守られ、陣屋というよりは城郭の様相。
2万石の小藩でしたが、外郭、内郭、庭園から構成されています。
これも織田宗家という格式の高さゆえの仕様。
徳川家も織田家に対しては、相応に気を遣っていたいたようです。

御殿部分の表示は、江戸末期の絵図がベース。

建物はありませんが、陣屋の規模を目視&体感

陣屋の西側を流れる雄川おがわ(当時は大きく蛇行し20mの断崖を形成)を守りと用水の確保のために利用。

パンフ 2025年版

ちなみに庭園復元の完了は2012年とこちらも割と最近。手入れが良すぎるからでしょうか、自然な庭園というよりやや人工的な庭園の印象。

昆明池

中心となるのは昆明池、その眺めを楽しむための梅の茶屋(清友亭)、腰掛茶屋(五角形が特徴)を築山に配置。

凌雲亭

凌雲亭(松の御茶屋)はお茶席を兼ねた休憩コーナー。
その左側に楽山園の原点となった熊井戸がチラリと。

泉水

昆明池の水源あたりには、立ち入り禁止エリアが設定されています。
ホタルを生育していて、夜間鑑賞会も開催されている模様。
周囲に灯りが少ないので幻想的でしょう。

水路には沢ガニやカワニナらしき貝類も見えます。

梅の茶屋 シンプルな造作

庭園の周囲は借景天国な環境。豊かな自然に囲まれているのが、逆に人工的な庭園感に繋がっているのかも。
樹木の成長にはもう少し時間が必要ですが、日差しが強い時期には木陰がちょっと少ないような。

2016年10月
2016年10月

庭園側に張り出した御殿部分は、藩主の居間&書院跡。

井戸(金明水)
北裏門 長岡今朝吉記念ギャラリー
空堀&土塁

拾九間長屋は藩邸使用人の再現住居棟。現在は資料の展示スペースに。

2万石なので藩邸は相応にコンパクト。松平時代の家臣団は総勢279名。
庭園は眺めるにも散歩するのにもジャストサイズ。

館内の展示資料を

信雄 直筆書状

小牧・長久手の戦い時に、秀吉が大垣(岐阜県)まで進出している事を知らせてきた家臣を気遣う信雄からの書状(直筆)。
この書状を書いた4か月後に、信雄は秀吉と講和。


細川|重賢 書状 織田信富宛

7代織田信富のぶよしの将軍お目見えと所領への就封を喜ぶ細川家からのお手紙。
細川家(肥後54万石)から織田家(2万石)への書状とはいえ、織田家は細川家のかつての主君。また細川忠興ただおきは熊本に供養塔を建立するほどの信長リスペクトだった人。江戸中期でも織田宗家の格式は絶大だったようです。
ちなみに細川重賢しげかた肥後の鳳凰と呼ばれた名君の1人。

なにげなく貴重な文書が展示されています。

小幡藩の関連資料は、近くの甘楽町歴史民俗資料館にも展示されています。

甘楽町歴史民俗資料館

甘楽は武田氏の勢力圏だった事もあり、武田家麾下の小幡信貞(信真)系の赤備え具足の展示(山県昌景隊ではない方)は見どころの1つ。
ほかには富岡製糸場へとつながる蚕関係。
また資料館が建つのは、かつての大手門のすぐそば。
城下町の町割りは、大手門から南が武家屋敷、北が町屋という区分け。

大手門跡 向こう側が町屋エリア

大手門は四脚門というここでも格式の高いスタイルだったそうです。
町の観光コンテンツは、完全に織田家へフォーカスしています。

信長自刃後の織田家は、それまでの勢いをほぼ失ってしまいました。
信雄は信長の子とはいえ、歴史に詳しくない方々にはビミョーな知名度。
ただし信長を直接知る大名家には結構なご威光が残っていたコトを、甘楽町に残された足跡から読み取る事ができます。

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