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唯一の茶会は一番槍の武家茶道【上田流和風堂】 広島県広島市

日本の伝統文化として認知度は高い茶道。普段何かしらお茶を飲む人は多いと思われますが、茶の湯を嗜む人々は少数派(茶道人口は年々減少)。
ただその世界に踏み入るには、ハードルの高さを感じます。

庭の奇麗なお寺や茶道具系のミュージアムで用意されるお茶(ほぼ抹茶)は、気分も落ち着いて景色も相まって美味しくいただけますが、素人が茶会に出席となると緊張度のボルテージはMAX。
そういう時は、開き直って腹をくくるのみ。


広島市の人口は117万人、中国地方最大(唯一の100万都市)の街。
最近はインバウンド客も増加中で、平和公園には外国人の姿が溢れます。
広島城にもその波は及んでいて、チケット売り場の方に話を伺うと、
うれしそうに「ほとんどフランス人!」とのリアクション。
なぜ国籍が分かるのかは不明。

そんな広島で、軽い気持ちから茶会へと参加するコトになったのは2019年。

冠木門 @上田流和風堂

上田流和風堂

@上田流和風堂

上田流和風堂は広島にある武家茶道・上田流の家元。
再現された数寄屋造りのかつてのお屋敷で現代人に伝えられるのは、ご先祖様の教え。

広島県広島市西区古江東町2-10

通常は一般非公開ですが(入門すれば見学可能?)、過去には2009年から3年連続で特別公開されたそう。

2019年は浅野家広島入城400年記念事業の一環により、8年ぶりに公開されています(限定予約制)。

特別公開チケット 2019年3月
@上田流和風堂

web上の予約状況を眺めていると、けっこうなペースでワクが埋まっていたのですぐに予約。こういう時は、考えるより先に動く方が後悔は少ない。「数寄屋、御成書院の観覧に濃茶・薄茶席に点心と図録」に¥15,000はちょっと高いかなと思いつつ。

数日後チケットとお手紙が郵送されてきました。
大阪出発で場合によってはバイクでの日帰りも想定していましたが、お手紙に記された1行に固まります。

洋装でも構いませんが、カジュアルな格好や裸足での来堂はご遠慮ください

さすがにTシャツに短パンはありませんが、そんなにカッチリした催しなのかと頭の中でグルグル。カジュアルのビミョーな線引きも分かりません。

サクッと見学してお茶飲んで帰るつもりが、これはフツーに茶会だと理解。
そもそも和装なんか持っていません。
茶の湯を嗜む方々には常識なのかもしれませんが。

実は岸田総理時代に開かれた2023年広島サミットでは、岸田裕子総理夫人と各国首脳のパートナープログラムの一環でのランチ会場。
ちなみにフランスの方は不参加だった模様。

上田流和風堂ランチ会場のページへ → 外務省HP


上田宗箇という人

和風堂の祖上田宗箇そうこ重安しげやす、主水正:1563-1650)はバリバリの戦国武将。正室は杉原家次の娘(秀吉の正室ねねとは従姉妹)。
武将としては一番槍志向の武闘派。茶の湯は千利休の影響を受け古田織部を師匠とし、作庭家としても名を残す風流人。

武家茶道では織田有楽斎おだ うらくさい小堀遠州こぼり えんしゅう片桐石州かたぎり せきしゅう等が知られていますが、戦国時代ど真ん中のリアル武闘派で現代まで継承されている流派は、宗箇流と三斎流(細川忠興ただおきぐらいでしょうか。

宗箇のスタートは丹羽長秀にわ ながひで(織田信長の重臣)の家臣から。
本能寺の変後のドタバタでは、明智方と見られた織田信澄のぶずみ(信長の甥)を討ち取るという大手柄。
長秀没後に豊臣秀吉の家臣へ(後に五奉行に数えられる長束正家なつか まさいえらと)。

作庭の技術やセンスは、秀吉の家臣時代に築城された大坂城、京都聚楽第、伏見城、肥前名護屋城を、側近として目の当たり(実務も?)にして養われたと考えられています。

関ヶ原の戦いでは西軍方(旧主・丹羽家)となり、結果浪人に。
戦後は蜂須賀家政はちすか いえまさの招きによる客将時代に、徳島城表御殿庭園を作庭。

(参考)徳島城表御殿庭園(徳島県徳島市)
(参考)徳島城表御殿庭園(徳島県徳島市)

続いて縁戚関係にあった紀州藩主浅野幸長よしながの家老に(宗箇の正室は幸長の母とも従姉妹)。紀州時代には和歌山城西の丸庭園を作庭。
1619年に浅野家の転封に従って広島へ。
現在の大竹市あたりに12,000石とその処遇は大名クラス。

広島では藩主家別邸の縮景園を作庭。
他には尾張徳川家の名古屋城二の丸庭園も宗箇作。

(参考)縮景園(広島県広島市)

縮景園は1620年(長晟入国の翌年)から築成された浅野家別邸の回遊式庭園。大正期には浅野家の宝物を展示する観古館も建てられています。

庭園は1939年に浅野家から広島県へ寄贈。1945年の原爆投下によって吹っ飛びましたが、1949年から地元の方々の強い意志と努力により復旧開始。
原爆犠牲者の遺骨の発掘(慰霊碑も建立)も行われ、1951年に再オープン。
以後も園内の建築物の復元が進んでいます。

(参考)縮景園(広島県広島市)

宗箇と上田流和風堂については、こちらの図録が参考になります。

上田宗箇 武将茶人の世界展 図録
発行:2011年 221ページ NHKプロモーション
企画委員:伊藤嘉章 竹内順一
名児耶明 村上勇

所蔵品や豊富な建物の写真が掲載されています。
絶版ですが、安価な古本でも入手可能。

ここからは和風堂へ

1979年から広島西区の現和風堂(5200㎡)の地に、かつて広島城内の上田家上屋敷にあった数寄屋造りの建物(和風堂)が再現されています。
お手本は18世紀前期の上屋敷絵図から。
茶室遠鐘は1982年、書院屋敷は2008年に復活。

師匠織部の様式を踏襲した茶室は、藩主浅野長晟ながあきらからの「狭い!」の一声で1畳分追加。
その一声により宗箇の創造性が刺激されたとも。
ちなみに先述の蜂須賀家政や長晟は共に国持の大大名ですが、茶の湯では宗箇さんの門下生。

室内は撮影禁止。お庭や外観は撮影OK。
団体行動(25人程度)かつ広い邸内の室内移動(長い廊橋で接続)も多かったため現地写真は少なめ。

@上田流和風堂

所々のポイントでスタッフによる説明を受けましたが、イベント初日だったせいかちょっとグダグダ(参加者もフォロー)。
説明役の方はそこそこのキャリアとお見受けしましたが、トークのスキルや平常心も茶の湯修行には必要なのでは。

ちなみに流祖・宗箇さんは大坂の陣では敵を待ち伏せている時に、近くの竹やぶで調達した竹から茶杓を2本制作しています。
その名も「敵がくれ」
恐るべき胆力です。しかもその樫井の戦いでは豊臣方の有力武将塙団右衛門ばん だんえもんを討ち取っています。展示にはなかったのが残念。

茶室遠鐘 @上田流和風堂

宗箇さんの茶の湯は名物の唐物にとらわれることなく、師匠の織部さん同様に進取で創造性に満ちた道具類を積極的に取り入れたそうです。
また自ら制作した茶器には、ワイルドに削られたり歪められた品々が。
薩摩、上野あがの、高取といった九州産から美濃、伊賀、備前と和物はバラエティに富んでいます。
戦国時代の人間関係や足跡がオーバーラップします。

やっぱりの織部灯籠 @上田流和風堂

極めつけはさてもと名付けられた御庭焼茶碗(現地では未展示)。
楽茶碗の胴部分をヘラで大胆に削ったスクエアなフォルムは、光悦茶碗のようという解説がよく見られます。
イメージに近いのは15代楽吉左衛門(直入)のシャープな楽茶碗か。
HPには「さても」の画像が

庭に並べられたポータブルティーセット(現存最古のにない茶屋)。
風流な雰囲気を演出(あくまで見学用)。

@上田流和風堂

そして懸案のお茶。
薄茶はフツーに飲むだけだったので問題なしでしたが、濃茶は5人ぐらいで回すスタイル。
腹をくくってお隣のセレブ感漂うご婦人に作法を尋ねると、
「少し飲む場所をズラして飲めばいいですよ」と。
「だよねー」と思いつつ、美味しくいただきました。

場所を移しての点心会場では、当たり障りのない世間話をしつつも「流派はどちらですか?」などと困った質問をされたり。
またサイドを刈り上げたちょんまげスタイル(当時)の若宗匠のトーク等々、非日常を満喫。

会記 図録
発行:2019年 45ページ
公益財団法人 上田流和風堂

今回の邸内は、宗箇とゆかりのあったリアル戦国武将吉川広家きっかわ ひろいえとのコラボ展示。
広家さんは関ヶ原での戦いでは、毛利家中でビミョーな立場。
その役回りから演じたのは空弁当の人。
吉川家は長州毛利家の一族(支藩)で、岩国(山口県の東)が所領。
広島の西端で所領が接した宗箇さんとは、お隣同士の間柄(フツーはトラブル多し)。

室内での展示品は撮影不可だったので、参考写真を交えながらその一部を。

目を引いたのは宗箇さんの陣羽織(チケットにチラっと)。
広島カープファンなら常識かもしれませんが、宗箇さんが大坂の陣で着用した具足&陣羽織は、当時のスペシャルユニフォームのモチーフに。
当日書院に飾られた陣羽織は別仕様でしたが、宗箇さんは赤(緋色)が好みだったようです。

そして図録を見ていて気が付いたのが龍虎図(チケットの床の間に)。

(参考)狩野安信 龍虎図 @周南市美術博物館

上の写真は山口で見た龍虎図ですが、長州藩主毛利敬親から一門の吉敷毛利家に与えられたもの。
絵師は狩野安信かのう やすのぶ(探幽の弟:中橋狩野家)。
和風堂で展示されていた龍虎図は、7代藩主浅野重晟から上田家への拝領品でしたが、同じく狩野安信作で龍の構図はほぼ同じ。量産品でしょうか?

広家とのエピソードで最も印象に残るのは手水鉢。
広家さんから枝垂桜を贈られた返礼に、宗箇さんはミミズクの手水鉢を贈っています。
ただ手水鉢が岩国へ届いた時には、広家さんは亡くなった後。

(参考) 吉川広家の墓 @吉川家墓所(山口県岩国市)

江戸時代の手水鉢はお寺に置かれていたそうですが、明治期になって広家さんの墓所に。

(参考)ミミズクの手水鉢 @吉川家墓所

上田宗箇は武闘派としても風流人としても一流だった人。
そして大名ではなく陪臣だった彼と絡んだ数々の歴戦武将たち。

師である利休や織部の知名度は圧倒的に高いけれども、彼らの美意識は自らの人生を散らせるような生き方のようにも。
宗箇は自らの主義は貫いても、自らを頂点に位置づけようとしなかったスタンスが魅力でしょうか。

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