異文化が交差した島の殿様【平戸城:松浦家】長崎県平戸市
かつての肥前の国は、明治以降に東の佐賀県と西の長崎県に分かれました。
多くの島々から構成される長崎県には、対馬や壱岐そして五島列島も含まれています。多くの島々には船あるいは飛行機でしか行けませんが、現在は長大な橋で渡れる島もいくつか。
中でも針尾瀬戸(佐世保市と西海市の境)に架かる西海橋(全長316m:1955年)は、いかにも長崎らしい観光アイテム。1955年の竣工ながら眼鏡橋(長崎市:1634年!)と同じく重要文化財に指定されています。
九州で歩いて行ける最西端、平戸市の人口は対馬と同規模の27,000人。
複数の島々からなる五島市(33,000人)よりも少ないのは、ちょっと意外。
市の面積の大半を占めるのは、九州本土と平戸大橋(全長665m:1977年)でつながる平戸島。そして2番目の大きさの生月島はこれまた生月大橋(全長960m:1991年)で平戸島と接続されています。
また九州本土側にも平戸市域があるのは面白いポイント。
今回はそんな平戸の殿様の記録。九州は古くからアジアとの交流拠点を持つ地域ですが、平戸の殿様は思いのほかインターナショナル。

平戸城
初代平戸藩主は、松浦鎮信(法印:1549-1614)。
所領は壱岐を含めた63,000石。平戸松浦家としては26代目!
「まつうら」ではなく、「まつら」です。

平戸城(日の岳城)は1599年に鎮信(法印)によって築城されています。
しかし1613年にそのほとんどを焼失(徳川幕府対策による焼失説もあり)。

1707年には5代藩主棟(松浦30代:1646-1713)によって再び築城。
その後の明治維新を迎えると、建物のほとんどは破却されてしまい、北虎口門と狸櫓のみが現存建築。
現在の天守や他の櫓は、昭和期1962年の復元。
松浦氏とは
松浦氏の祖先は光源氏のモデルになった源融(嵯峨源氏)と伝わります。
その血筋で源氏の重宝髭切で鬼の腕を切り落としたという渡辺綱の系譜が、肥前に土着して松浦を名乗ります(諸説あり)。
その名前には融や綱のように、1文字の当主が多いのが特徴。

松浦氏初代は松浦久。1069年に肥前松浦へと下向。
以降48あるいは52家に分かれて、一族は松浦党と呼ばれました。
松浦党は朝鮮半島や大陸との交易で富をたくわえ、そして武力では有力な水軍勢力として伸長・拡大していきます。
1225年に小値賀から平戸へやって来たのが持。


松浦氏の異文化交流
九州における有名なキリシタン大名は豊後守護だった大友宗麟。
肥前の国では、福江の五島氏、大村の大村氏、日野江(島原)の有馬氏。
平戸周辺にはキリシタン大名が珍しくありませんでしたが、松浦氏自身がキリシタンに改宗する事はなし。
ここで平戸と西洋の歴史を簡単に
1550年 ポルトガル船が平戸に初入港
1561年 トラブルによりポルトガル人は大村領・横瀬浦へ
1584年 スペイン人が平戸入港
1609年 オランダ人入港、後に商館設置
1613年 イギリス人入港、後に商館設置
1641年 幕府の政策により、外国との貿易は長崎出島に限定
ポルトガルやスペインは、貿易の条件として布教や藩主の改宗を要求しました。松浦氏は布教は認めましたが、あくまで大本命は彼らとの交易。
しかしトラブルから最終的に貿易船はライバルの大村領へと去る事に。
一方、オランダやイギリスは、交易だけというビジネスライクな関係でOK。
後に徳川家康がオランダとの交易を認めたのは、宗教抜きのドライな外交条件が理由と思われます(必要なのは情報と物資の独占)。
平戸には倭寇の頭目王直のような人物もいました。
また鄭成功のように、平戸から大陸・台湾へと渡った人物も。
こうした海外の情報チャンネルを、複数持っていた事も松浦家の強み。

長崎県平戸市岩の上町1458


歴代藩主の足跡
松浦家伝来の品々をいくつか。天守展示物以外の資料もあります。
松浦家の歴史をモノ語る文書は、まずは後醍醐天皇からの綸旨。

松浦家の一族(相知氏)に対する、足利尊氏&直義兄弟討伐の命令書。
鎌倉時代から江戸時代まで生き延びた大名家ならではの資料。
続いて1587年に豊臣秀吉が発したのがバテレン追放令。

あくまで布教を禁止(宣教師は退去)するだけで、往来や通商はOK。
このあたりのサジ加減は、柔軟な思考を持つ秀吉ならでは。
松浦家にも秀吉や後の家康と同様に、そういった本質を見抜く眼が。
これも中国や朝鮮半島との交易で培った長い歴史を持つ家ゆえでしょうか。
次なる天下人・徳川家康の朱印状。

関ヶ原の戦いでの肥前の大名(長崎系)は、下関から自領に引き返した事によって家康から賞されています。
ここからは松浦の殿様。松浦鎮信(天祥)肖像画。

4代藩主は重信(平戸松浦29代:1622-1703)。隠居後に鎮信に改名したので2番目の鎮信。また片桐石州の流れを汲む武家茶道鎮信流を確立した人。
肖像画のイスは、インドかインドネシア製と伝わるのが平戸らしさ。
茶道具からは、鎮信自作の花入。
時代が安定してくると、武家らしいワイルドさよりも端正なデザインが増えてくるような気がします。

鎮信流の系譜はざっくり、千利休→道安・古田織部→桑山宗仙→片桐石州。
裏面には花押が墨書されているそうですが、確認できず(少し正面をズラして展示してくれれば)。当然のごとく松浦家には自作の茶杓も伝来。
茶入れはズバリの銘「松浦」。

箱の墨書は独特な書体。これまたレジェンド小堀遠州によるもの。

押さえておくべき殿様は、9代藩主の清(静山:1760-1841)。
松浦家では34代目。
隠居後に江戸のエッセー集甲子夜話(1821-41年)を執筆した人。

展示品では南蛮鍔について図解入りで記述。
甲子夜話は20年に渡る大作。全278巻は「こち亀」をはるかに凌ぎます。

甲子夜話のネタ元でしょうか。歳旦はその資料の1つ(たぶん)。

歳旦は絵暦のスクラップブック。年月日が絵の中に含まれ、当時の日常や習慣が伝わります。今風に言えば、静山は江戸期のトレンドウォッチャー。
博識で藩内の人材育成や藩政改革でも成果を上げた静山は、交流のあった大名らとの肖像画が残されています。

右側が静山。中央は松代藩主真田幸貫、左は黒羽藩主大関増業。
描かせたのは水戸藩主徳川斉昭。静山像の右上には斉昭の賛が。
画は水戸藩士内藤業昌筆で、上部の賛は儒学者佐藤一斎。
学問好きのオフ会的な一場面を切り取った作品。
10代藩主は熈(静山の子で松浦家35代:1791-1867)。
甲冑が近代具足ではないのが松浦家スタイルのようです。復古調?

肖像画は寿像。晩年は江戸ではなく平戸で隠居。
天守では熈所用と伝わる具足が展示。やっぱり復古調。

模擬天守の最上階は当然のように展望台。城下町が一望できるのも必然。
遠くにはかつての領国・壱岐まで望めるそうです。
ただ島が多すぎる上に写真を拡大するとうっすら見える島もあり、どれが壱岐なのか判別不能。ガイドさん必須。

城下側に見えるのは、今は博物館になっているかつての松浦家の邸宅。
ちょうど写真の真ん中あたり。写真左側には教会が見えるのも平戸の風情。


東南側にはなぜかの市営相撲場(下写真手前)と懐柔櫓。
そのはるか向こうに見えるのが、赤い平戸大橋。

実は懐柔櫓は改修された宿泊施設。
平戸市が試験的に2017年1組限定無料で宿泊者を募ると、7,500件もの応募(6割は海外から)があったそうです。
後に事業化され、その名もキャッスルステイに。
平戸でフレンチっぽい食事・・・ あくまでインバウンド向けでしょうか?
2名での1棟貸し(食事なし)でけっこうなプライス!
個人的には割高に感じるオプションも、内容はやや魅力を欠くような印象。
ごめんね平戸市。ただ市は賃料収入で天守の維持費を賄っているだけかも。

お城を後にして市の中心部へ。
現在の政庁・市役所のそばにあるのが幸橋。
城と城下町の往来は舟だったので、1669年に利便性のため29代鎮信が架橋。
平戸城の模型にもその姿は再現されています。

当初は木造でしたが、1702年に30代棟が石橋へとバージョンアップ(重要文化財)。眼鏡橋に遅れること70年。
織豊大名の石積み技術ではなく、オランダ仕込みゆえに別称はオランダ橋。
現在も普通に渡れます。

市役所への門は、復元された幸橋御門。


平戸大橋からも、小さく平戸城が見えます。
そのずーっと右側にはオランダ商館。長崎らしい風景です。

平戸までは自動車道路が完全に繋がってはいません。
長崎市あるいは佐賀・伊万里方面から平戸へのアプローチは、海岸線をうねうね走る事になります。距離もそこそこあるので不便といえば不便。
ただそれぞれの浦々に松浦党が割拠してきた歴史は濃厚です。
ちなみに平戸市中心部は、あくまで平戸島の入口エリア。
島の南端までは40kmほどの距離(と言いつつまだ行った事はない)。
時間をかけて回ることで、見えてくるモノがまだまだありそう。

