最強の大名家ミュージアム【徳川美術館:御三家筆頭 尾張徳川家3】 愛知県名古屋市東区
旧大名家には大名道具と呼ばれる伝来のお宝があり、現在もその品々を目にするコトができます。ただ明治維新後には世の中の流れや相続での対応で、そのお宝たちを手放してしまったケースも。
いち早く財団を設立したり、地元自治体に一括寄付したりとそのコレクションを維持する方法は様々ですが、維持するには相応のコストが求められ江戸時代のようにはいかないようです(近年はクラウドファンディングも)。
日本を東西に移動する時には通過する機会が多い交通の要衝・名古屋。
自走派には都市高速の環状線も整備されているので、地理をある程度把握していれば動きやすい街です。
名古屋市の人口は233万人と中部地方最大の都市。
愛知県(名古屋圏)の産業は商業・工業・農業と全方位ですが、突出しているのは製造業(全国出荷額ランキングで44年間1位!)。
今回はそんな名古屋の文化面での核心で、かつてのこの地域のお殿様が運営しているミュージアム。
徳川美術館
徳川美術館は1935年に尾張徳川家19代徳川義親(1886-1976)が名古屋の大曽根邸に開館したのがはじまり。
徳川家康の莫大な遺産駿府御分物をベースに、歴代藩主が蒐集したモノを加えた約10,000件の品々を所蔵・公開(国宝9件、重要文化財59件を含む)。

愛知県名古屋市東区徳川町1017
義親は財団の設立にあたり、不要なコレクションの一部を整理して資金を作り、他家から売立に出ていた重要アイテムを新しく加えて所蔵品をブラッシュアップしています。私立美術館では先駆け的な存在です。
1935年に完成した本館(特別展の展示室)デザインは公募によるもので、東京国立博物館本館と同じく帝冠様式。
一等入選の佐野時平案をベースに渡辺仁、大江新太郎らが外観設計。実施設計は吉本与志雄(渡辺仁はトーハク本館の設計者)。
1987年に増築された新館はテーマ展示(常設展的)エリア。
館内に茶室や名古屋城二之丸御殿、能舞台の一部が復元され、展示スペースとして利用しているのが特徴。
武具から茶道具、書院飾りに能装束・能面、そして初音の調度(国宝)等々の大名道具が所狭しと並びます。

小牧山を1930年に町へ寄付した人
太平洋戦争の空襲を生き残った尾張徳川邸の黒門を入って行くと、右手に蓬左文庫、左手に徳川園(庭園)が見えてきます。
美術館は門から真っすぐ進んで、突き当りの位置に。





2024年から写真撮影が解禁になりました。スマホによる検索OKという点も加味されてのようです。記念写真や大型カメラは禁止なので、ある程度他の見学者の邪魔にならないような配慮はされています(多人数での撮影やデカいカメラでの連写はハタから見ていてコワい)。
尾張徳川家とは
尾張徳川家の初代徳川義直(1600-1650)は、徳川家康(1543-1616)の9男。関ヶ原の戦い直後の生まれ。母は石清水八幡社家志水宗清の娘。
義直は関ヶ原の戦いの負傷が元で若くして亡くなった兄・松平忠吉の遺領尾張を継ぎます。後に尾張を中心に62万石を拝領。
学問や儒教に熱心で家康の形見駿河御譲本に自らのコレクションを加え、現在に至る蓬左文庫を設立。

義直は大坂の陣(冬・夏)にも出陣していますが、家康本陣の後備えを務め戦況にはほぼ関与していません(たぶん)。
パックス・トクガワーナへ向けて、御曹司の箔付けでしょうか。
義直の母お亀の方(相応院:1573-1642)は徳川家康の側室。

義直の異父兄(お亀の方の連れ子):竹腰正信、石川光忠らは家康に召し出され、正信は尾張藩の家老となっています。
義直は武家だけでなく文化人とのネットワークを構築しています。
主要メンバーを以下に
本阿弥光悦(1558-1637)
寛永の三筆。琳派の祖の1人。マルチアーティスト兼プロデューサー。
小堀遠州(政一:1579-1647)
才能豊かな幕府官僚、後に大名。尾張藩(竹腰正信や成瀬正成の両家老)とは幕府の鉄砲輸送も手掛けている。
茶道でもその才を発揮し武家茶道の祖となっています。建築や作庭家、書家としても名高い。
松花堂昭乗(1582-1639)
能書家、寛永の三筆。茶道は小堀遠州に師事。石清水八幡宮で出家。近衛信伊に仕え、義直と近衛信尋との対面を取り持つ
近衛信伊(1565-1614)
近衛家18代。寛永の三筆。後陽成天皇の勘気を蒙り薩摩に配流(後に復帰)。後陽成天皇の皇子(信尋)を19代に迎える。
角倉素庵(与一:1571-1632)
京都の豪商で土木事業家。京都では保津川や高瀬川を父と開削。
義直の手習手本帖は本阿弥光悦と松花堂昭乗の手によるもの。
また光悦に書を学んだ角倉素庵は、尾張領の木曽山林の経営にも携わり、義直の学問の先生でもありました。
義直と昭乗を結んだキーパーソンがお亀の方とされています。





左奥に見える掛軸は4代将軍家綱の書。花入は千利休所持と伝わるもの。
さりげなくビッグネームゆかりの品が展示されています。


釜、水指、茶碗、茶入、茶杓らを組み合わせての展示。

黒楽茶碗一楽は渡辺規綱(1792-1871)の作。
渡辺家は尾張藩家老の家で、槍半蔵・守綱(1542-1620)の系譜。
また規綱の弟は裏千家11代玄々斎(1810-1877)。
曜変天目(油滴天目:大名物)は堺の町衆だった樋口屋から油屋そして家康へと伝来。名前の由来は昔の文書からでしょうか、

現在でもカッコ付きですが曜変天目の名乗りです。
見たカンジはやっぱり油滴。
苫屋は豊後府内藩主竹中重義所蔵の茶入を小堀遠州が藤原定家の歌から名付けたモノ。蓋と仕覆も遠州が制作。
茶入れは重義から加藤正方(風庵:1580-1648)に伝来。
正方は肥後藩主加藤清正の家臣で、内牧城代や八代城代を務めています。

文琳はリンゴを意味します。よく見かけるのはもう少し丸っこいフォルムですが、これはやや肩が張った印象。
関連して書状もあります。

正方からの依頼を受けて、遠州が茶入の蓋と仕覆を送りましたという内容。
遠州ゆかりの茶杓も。

茶杓 窓竹、共筒には遠州自筆の銘と和歌が記されています。
1999年に高松家からの寄贈品。
床の間には、近衛家から尾張徳川家へ贈られた御宸翰。

後水尾天皇は能書家として知られ、寛永文化サロンの中心人物の1人。
また近衛信尋は後水尾天皇の弟。
ちなみに後水尾天皇(108代:1596-1680)の中宮は、2代将軍徳川秀忠の娘・和子(東福門院、義直の姪:1607-1678)。
2人の間に生まれた内親王は、109代明正天皇に。
初音の調度は、3代将軍家光の娘千代姫(霊仙院:1637-1699)が、義直の嫡男光友(1625-1700)に嫁いだ時に持参した嫁入り道具で全47件。名前は源氏物語からの由来。

徳川美術館で調度一式が展示されるのはレアケース。
よく見かけるのは1,2点を選抜しての展示。
楊枝入れにしては豪華すぎ!な逸品です。


企画展は一風変わった切り口で。

2024年11月9日-12月15日 徳川美術館

キャプションにはとんがっている人とある神農像(義直コレクション)。

こちらのキャプションにはナイスガイな拵。
初公開の18代義礼コレクション。

ちいさな渦巻き模様はすべて貝の蓋で構成。
職人技もスゴイけれど、その卓越したデザインセンスが素晴らしい。
おまけの学芸員のダジャレも。

家康・千代姫コレクションの花入れ。
恐ろしく繊細な装飾、よく見ると鳥類や虫が。

キャプションによると実はインポート品。家康・光友コレクション。
熱帯の竹から制作され、茎を残したデザインが面白い。
「本当に利休が作ったのかは未詳だけど、信じてみたくなる」とありますが、利休さんの美意識に合うのかな。
最近は各地のミュージアムでくだけたキャプションを目にするようになりましたが、見る側としては読んでいて理解しやすい。
どこかのミュージアムで、書状のやり取りをLINE風に解説していましたが、意味がスーッと入ってきやすく、目からウロコでした。
今回クセがすごくて最もとんがっていたのは学芸員かもしれません。
蓬左文庫
徳川美術館と一体化しているのが蓬左文庫。こちらは市の管轄。
文庫では保管室の一部と複製品の一部を見学できます。
江戸時代の保管スタイルが屋根裏?部分にチラリと

続日本紀(複製:原本は重要文化財)、現存最古の写本で鎌倉時代のモノ。
金沢文庫(神奈川県)所蔵品が流出し、伊豆山神社の僧から家康へと献上。

献上時に全40巻のうち10巻分が欠落していたので、家康は京都五山の禅僧へ命じて補写させています。
家康から義直への御譲本の1巻で、巻頭に義直蔵書印(御本)と金沢文庫の蔵書印が確認できます。


源氏物語 河内本(複製:原本は重要文化財)は、現存最古の完本。

金沢文庫蔵書から、足利将軍家、豊臣秀次を経て家康。そして義直へ。
原本は梨地金蒔絵の豪華な箪笥に収納されています。

ゆめのうきはしの巻末には北条実時による「書写が終わったよ」と奥書。
本館の特別展示スペースが閉館していても、かなりのボリュームを誇る徳川美術館の所蔵品群。足を運ぶのは年1ペースでしたが、頻度が増えそうな予感。文書類を記憶するためには、とってもありがたい撮影OK。
他の都道府県には見られない地域の歴史・文化展示を誇る名古屋。
ただ尾張徳川家の居城・名古屋城天守は、木造再建の行方が不明瞭な点が気になります(御殿は大部分が復元済み。ただ復元に前向きだった名古屋弁丸出しの市長さんは衆議院議員に転職)。
徳川美術館はお城以上にその中核を担っているミュージアムです。
