《注意》本邸は長門ではなく周防です!【毛利邸:庭園&毛利博物館】【お宅訪問12】山口県防府市
明治になり日本各地の大名は東京(江戸改め)に召集されましたが、江戸時代の大名屋敷と同様に東京に本邸を、地元にも別邸を構えました。
東京都内に残る旧大名邸はそれほど多くはありませんが、加賀百万石前田邸(日本建築と洋風建築をペアにした欲張りスタイル)や明治維新の主要キャストを務めた薩摩島津邸(イギリス人のJ・コンドルによる洋式住宅)と、時代の最先端エッセンスも取り入れています。
一方で比較的生存率の高い地元の別邸は、圧倒的に日本建築です(洋風は鳥取池田家の仁風閣や柳川立花家の御花ぐらいでしょうか)。
山口県防府市の人口は113,000人。山口県は瀬戸内海側に工業都市がズラリと並びますが、防府市は県庁所在地山口市の外港のようにも。
毛利邸といえば防府市だけではなく下関市にもあります。紛らわしい事に長府毛利家は、長門国主だった毛利家(長州毛利家)の分家。防府の毛利邸に対し、親切な表記では長府毛利邸(ビミョーに紛らわしい)と。
大藩だった毛利家に分家が多いのは仕方がありません(ほかにも徳山、清末、右田、吉敷等があり、ルーツは毛利元就の子や孫)。
今回は明治維新のもう一方の主要キャスト、宗家の毛利邸を。
毛利氏
毛利氏は大江広元(1148-1225:鎌倉幕府の文系の人)の子季光(1202-1247)を祖とし、相模毛利庄が本貫の地。
博物館発行の図録では、始祖は天穂日命で、毛利邸敷地内にある祖霊社には歴代と祀られ、春と秋年2回の例祭が執り行われているそうです。ちなみに現当主元敬さんで71代目!

(模本:原本は島根・鰐淵寺蔵)@トーハク
戦国時代には中国地方の一国人だった毛利家を戦国大名化したのが元就(1497-1571)。当時は安芸国高田郡山を拠点にしていましたが、大勢力だった西の大内氏と北の尼子氏をその智謀で滅ぼして中国地方を勢力下に置き、九州や四国にも影響を及ぼしました。
豊臣政権下では第3世代の輝元(1553-1625)が交通の要衝に広島城を築城し、本拠地を移動しています。
しかし関ヶ原の戦い後に改易され、所領は中国地方120万石から周防・長門の30万石へと大幅ダウン。
本拠地も長門・萩へと移転して、徳川幕府に臣従する事に。
幕末に幕府の支配力が弱まると、萩から周防・山口へと本拠を移動。

萩藩主13代に元就・隆元・輝元の3名を加えた16名の一覧(密集しすぎ)。
一番上が元就で13代藩主敬親を一番下に配置。雪舟の流れをくむ雲谷派の作品というのが毛利家らしい。
毛利邸


周防国衙跡を望む多々良山(225m)の南麓に建てられた毛利公爵邸。施主は長州藩最後の藩主で公爵の毛利家28代毛利元徳(1839-1896)。敷地の選定は明治の元老の1人、井上馨(聞多、世外:1836-1915)。
晴れた日には遠く九州・国東半島(大分県)が望めるそうで、借景が瀬戸内海という面白いスタイル。毛利邸背後にはゴルフ場が広がっていますが、その下を山陽新幹線や山陽道に国道2号線がトンネルで貫通。
山口県防府市多々良1-15-1


1892年の計画から日清・日露戦争の影響を受けて、完成はなんと1916年。本邸は重要文化財指定。
本邸は御寝殿造の様式を取り入れた近代和風建築で、木曽檜、屋久杉、台湾欅の良材を使用(チケット裏には書院造様式の総ヒノキ製と)。

庭園は約84,000㎡、本邸約4,000㎡(1,200坪)。庭園は入口の中雀門をくぐり、瓢箪池をぐるりと廻る池泉回遊式庭園。
梛邸は明治天皇の、本邸は大正、昭和天皇の宿泊所にもなっています。
表門の薬医門はコンクリート製をケヤキでカバー。本邸にも一部鉄筋コンクリートが採用されています。



いまいち落ち着かない床の間に絨毯、そしてイスのスタイル。
なんとなくお殿様の会見場的な。

床の間には狩野探幽(守信:1602-1674)の掛け軸。もちろんの重要文化財は毛利博物館蔵。

衣装は大名道具かと思いきや、防府商工高校生の作品。なんだかいい。

床の間の掛け軸には、元就さんのお墓近くの碑にも刻まれた百万一心。
みんなで力と心を合わせよとのありがたーいお言葉。


天井は格式の高い折上格天井。
ちなみに照明の数も部屋の格式を表しているそうです。
窓の外の景色が屏風のようにも。

大正天皇や昭和天皇が宿泊されたお部屋(立ち入り禁止)。
壁のセンスはけっこうモダン。



手水鉢にはお花が添えられていますが、過度にSNS的映えを意識しないセンスには武家らしい落ち着きが。今やお寺や神社の手水鉢は煩悩まみれかもしれません。やり過ぎはむしろ野暮でしょう。


2階へ


中庭のソテツは上級武家の必須アイテム。

トラディショナルでシンプルなデザイン。

作者の狩野栄川(典信:1730-1790)は木挽町狩野の5代目。こちらも原本は毛利博物館蔵。


南側には広めの畳敷の廊下が。

2階からは防府市街を一望。眺めが工業地帯というのはビミョーですが、今や世界遺産となった萩反射炉を見ていたかもしれない元徳さんなら、この景色は格別なのかもしれません。


現在では市街地が拡大している沿岸部は、かつては藩財政を支えた塩田。

写真の中央やや右側には藩の公館も見えます(2階からは見えません)。
毛利邸とのセットが間違いなく必須。奥が深いぞ毛利家。
少し毛利邸から逸れます。
三田尻御茶屋(英雲荘)は1654年に建てられた長州藩の公館(規模や間取りは変遷しています)。こちらは毛利家から防府市へと寄贈。

三田尻は1611年に下松から移された長州藩の軍港&商業港。
三田尻御舟倉跡は萩往還の終点に位置し、瀬戸内海側に設けられた長州水軍の拠点。

現在は江戸時代からの干拓により周囲の陸地化がすすみ、明治維新後の堀の埋め立てによって往時の姿は限定的(現在では釣り堀的な景色)。
毛利邸に戻ります





博物館エリアへと向かいます。

展示室へと続く通路から見えるのは洗濯場(ほぼ家ですが)。大名邸で生活の場が現存しているのは珍しいそうです。
火熨斗場(アイロン部屋)、洗い場、物干し場(雨天用)、貯蔵場(薪や炭、なぜか漬物)から構成。
1991年に台風で被災しましたが解体修理され復活。
毛利博物館
博物館は1966年に財団法人化され、毛利家が伝来の家宝と基金を一括寄贈。
美術工芸品や古文書類の約20,000点(国宝4件、重要文化財10件)を所蔵する博物館は、1967年に毛利邸の子供部屋!を改造しての開設。
のちに収蔵庫と展示室を増築。展示室内は撮影禁止です。
足を運んだ時には国宝展と銘打った特別展が。

2024年11月-12月 毛利博物館
博物館所蔵の国宝の白眉は四季山水図(山水長巻、雪舟:全長約16m)でしょうか。図録等の解説を読む限りでは、史記呂后紀第九(大江家国が書写)が毛利家にとっては重要なのかも。
重要文化財には元就自筆の三子教訓状や日本国王之印&通信符(大内家伝来:明や朝鮮との交易用のハンコ)が。
展示では国宝4件が揃い踏みの豪華な構成。
四季山水図は、2つある展示室の手前側(旧子供部屋)にも複製が並ぶという二段構えの展示。
スタッフの方のお話では複製は明治時代のモノで、原本とは色合いが明らかに違いますがけっこう貴重な一品だと。
参考に伝雪舟ですが雰囲気だけでも

ちなみに国宝カルテットは10年ほど前に揃って東京へと姿を見せています。

発行:2012年 165ページ
サントリー美術館
会場は江戸時代には毛利家の屋敷があったというサントリー美術館でした。
四季山水図の長さが記憶には残っていますが、図録を見ていると錚々たるメンバーが出張していました。
長州藩下屋敷(東京都港区赤坂)はかつて麻布にあり、檜屋敷と呼ばれました。跡地は防衛庁から現在では六本木ミッドタウンとなり、檜町公園としてその名前が残っています。
コンパクトながら見応えのある博物館を後にします。





見学できないエリア(北側の女中部屋等)もかなりありますが、それでも博物館が併設され見所満載の毛利邸。

続いてお庭へとぶらぶら
庭園







小さな滝もあり大きな岩が豪快な景色を演出。



実は写真には滝をスケッチするオバちゃんの姿が。
ちょうど雪舟の水墨画に見える後姿のように。


かつての国衙があった土地をわざわざ選定したのは、主君だった毛利家の地位をいにしえの国司に重ねたのかもしれません。
始祖・天穂日命から71代を重ね、かつての邸宅と代々守ってきた大名道具類を今も目にできる稀有な土地です。

