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尾張平野を見渡す徳川家御連枝の菩提寺【行基寺:高須松平家2:尾張徳川家4】岐阜県海津市

関東と近畿の中間に独自の文化経済圏を形成している中京。その地域が広がるのは広大な濃尾平野。お城好きの方なら平野部の北端岐阜城、やや東南の犬山城小牧山城からの眺望は、濃尾平野を体感できるポイント。
一方、平野部の西端にあるのは、お城のようでもあり御殿のようでもある不思議なお寺。違った角度の濃尾平野が一望できます。
交通の便の悪さに加え、お寺のスタンスというか歴史からなのか、あまり観光地化されていない展望ポイントを。


海津かいづの人口は31,200人。10ヶ月前の海津市歴史民俗資料館(現木曽三川輪中ミュージアム)の記事からは、600人の減少。
日本の現在地を認識させられる、なんともリアルな数字です。

今回はグーグルマップだけではスムースにたどり着けなかった、眺めの良いお寺の記録。またお寺には珍しく建物や展示品の解説が少ないという、やや玄人向けの物件です。

河口方向には伊勢湾岸道の構造物が

目的地はけっこうな高さの立地の上に、フツーには見えない石垣で武装。

臥龍山 行基寺

山門

行基寺の源流は、奈良時代の僧行基ぎょうき(668-749)創建という伝説を持つ臥龍山菩提寺。1705年その場所に当時の領主だった松平義行が、松平家の菩提寺として再建し、臥龍山行基寺と命名。
三河の松平&徳川家菩提寺の大樹寺だいじゅじ、江戸の徳川将軍家菩提寺の増上寺ぞうじょうじと同じく、宗派は浄土宗。

三つ葉葵

開基とされる行基は、日本全国にお寺を建てまくった人(伝承も多数)。
また日本最古の溜池プロジェクト・狭山池(大阪狭山市)や、東大寺大仏造営の勧進(スポンサー探し)のキーパーソンとして知られています。

岐阜県海津市南濃町上野河戸1024-1

そんな歴史を踏まえた上で(たぶん)お寺を再興したのが高須松平家です。

高須松平家とは

家祖は松平義行よしゆき(1656-1715)。
父は尾張2代藩主徳川光友みつとも(徳川家康の孫:1625-1700)、母は3代将軍徳川家光の娘千代姫(家康の曾孫:1637-1699)。
将軍家との血縁の近さもあり、家光から3万石を与えられ別家を設立。
後に美濃高須を本拠地としたので高須松平家と呼ばれるようになります。
その家格の高さもあって江戸常府(参勤交代の義務なし)とされ、江戸藩邸は四谷にあったことから四谷松平家とも。
ちなみに兄は尾張3代藩主徳川綱誠つななり(1652-1699)。
光友は義行以外の息子2人も別家とし、尾張藩の御三家を創設しています(高須家以外はのちに絶家)。

本堂
パンフ 2024年版
菩提院?

1705年の再建後以降から明治期に至るまで、一般庶民の参拝は禁止されていたそうです(江戸時代の大名家墓所を、一般人が出入りできないのはフツーのような気もしますが)。

ピカピカに磨き上げられた廊下のドン付きにあるのが対面の間。

お寺からの眺望は「南は知多半島、北は日本アルプス連峰」とパンフにはあります。ただあまりにもザックリし過ぎて特定不可能。
お城の展望室であれば、東西南北方向に目標物の説明付きというありがたいパネルがありますが、ココで頼れるのは自身の知識と視力のみ。

名古屋市中心部方面

名古屋方面で目立つのは、名古屋駅前のランドマークを大名古屋ビルヂングから奪取したミッドランドスクエア(247m)を中心とした高層ビル群。
そのボリューム感は中心地の栄よりも突き抜けています。
またそれらしいのは見えますが、スマホの能力では134mの東山タワーでも判別はビミョー(そもそも後ろ側の山並みはどこ?)。
ちなみに現在の大名古屋ビルヂングは、東京の丸ビルのようなスタイルで高層化され2015年に復活(175m)。

海津市中心部方面

お寺から北東側に見えるのが日本アルプスなのでしょうか?
写真中央部に見える赤い橋は、木曽川と長良川を一気にパスする東海大橋(全長約1,200m)。手前に見える川が木曽三川の揖斐川。
揖斐川と東海大橋の間にはお城型の海津市歴史民俗資料館(現木曽三川輪中ミュージアム)があるはず(これまた解像度が足りない)。
つまり揖斐川の向こう側が輪中エリア。

対面の間 三つ葉葵がうるさ過ぎ

パンフによると回廊式庭園は松平家の菩提寺となった際に、縁山和尚により作庭されたもの。南北に広がる雄大な濃尾平野を借景にした庭園と108個の飛び石を配置。書院裏側には自然の岩肌をいかした枯山水の庭園も完備。

これを飛び石と呼ぶのか?

高須四兄弟の父の足跡

高須藩といえば高須4兄弟(実際の兄弟はもっと多い)。
幕末という困難な時期にそれぞれが幕府でも主要な家を継承し、維新という転換点を乗り越えたドラマのような4人。

藩主の間

1:徳川慶勝よしかつ義恕よしくみ:1824-1883)
尾張徳川家14代、後に17代目も襲封。
14代将軍家茂いえもちを支え、長州征伐では総督を務めた人。
王政復古の大号令以降は新政府側として旧幕府勢力を取り込みつつ、新政府軍から目の仇にされた兄弟の助命運動を展開。

2:徳川茂徳もちなが(1831-1884)
高須家11代(義比よしちか)→尾張徳川家15代→一橋徳川家10代(茂栄もちはる)。
兄同様に将軍家茂を支え、徳川宗家に近い家へと移っていった人。
彼もまた徳川宗家や弟たちの助命運動を展開。
なぜか家茂の肖像画を残しています。

3:松平容保かたもり(1831-1884)
会津松平家9代。幕末に火中の栗を拾うように京都守護職を務めた人。
孝明天皇からの絶大な信頼の証は、御宸翰として現存。
戊辰戦争では15代将軍慶喜よしのぶ同様に新政府軍のターゲットに。会津に籠城して徹底抗戦後に降伏。蟄居が解かれると、日光東照宮の宮司を務めています。

4:松平定敬さだあき(1847-1908)
久松松平家(桑名)13代。容保を助けるかのように幕末の京都所司代を務めた人。戊辰戦争では大坂から江戸、さらに越後、会津、函館へと渡った末に新政府軍に降伏。容保没後は、彼もまた日光東照宮の宮司に。

年季の入った屏風 ヒストリーは不明

ただしこのお寺には、四兄弟の足跡はありません。。
アチコチに残っているのは彼らの父高須家10代松平義建よしたつ(1800-1862)。
父は水戸徳川家の生まれで、水戸家9代徳川斉昭なりあきとは従兄弟の間柄。かつ義建の正室は斉昭の姉。幕末に形成されたのは水戸徳川軍団。

義建は書や詩歌を好んだ殿様で、天袋の和歌や床の間の掛け軸も義建の直筆(少将義建とサインがあるのでたぶん)

枯山水とされている庭園には、イイ感じの苔庭の奥に小さな滝があります。
これは枯山水の範疇なのか?

室内からの眺めは禅寺
時計?

スッキリしつつも緊張感のある空間。床の間の書や生け花。そして三つ葉葵の襖。柱の能面は意味不明ですが、暗くなるとホラー。

伝説を証明するには至りませんが、行基さん入寂の地アピールをサラッと。

ぐるっと回って再び本堂に。
その色彩は東照宮テイスト、かつ修復直後なのか鮮やか。
そしてあちこちに三つ葉葵。実は高須家の家紋は、三つ葉葵を菊輪で囲った一味違うスペシャリティ。

本堂から一段上にも何かあります。

上層段への入口は、山門を入ってすぐ左に。
重厚な石垣が廻らされているこの上のエリアが高須家歴代の墓域。
ただし見学は不可。
お寺の方のお話では、ガケ崩れ等で危ないというコトでしたが・・・

まあ聖域というコトで外から参拝。
ちなみに高須四兄弟はココには一人もいません。
義建を含む初代からの歴代9名が永眠。

山門そばの真影堂もよく見てみると・・・
揮毫はあの方によるもの。

2024年の訪問時には、お寺に至る市道がガケ崩れで通行不能でした。
(お寺の人も「市道だから待つしかありません」とボヤきが)
市道と言っても車1台なんとか通れるレベルの道で、途中に貼られていた案内によって迂回路を指示されました。

ところがこの迂回路もなかなかの難路。そして最後に待ち構える急坂。
それも舗装路というよりコンクリートで固めたというレベルの道で、登っていくごとに増幅する不安と傾斜。

昔はどうやって登っていたのか不思議に思いましたが、そういう意味ではお城なのかもしれません。徒歩ならリアル城攻め。

そもそも海津市までの交通事情もややビミョー、加えて麓からの道路事情も考えると、現代ではバズる可能性は非常に薄いと思われる行基寺。

ただこの辺りの地理や歴史にある程度の理解があれば、モヤがかかったかのような歴史を持つお寺には何となく可能性も感じます。

与えられる情報が断片的で少ないほど、得られる楽しみが大きくなるという典型的な場所。

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