見出し画像

伝承するだけでは充分ではない戦災の記憶【平和祈念像:平和公園】長崎県長崎市

日本国内で平和公園と問われ頭に浮かぶのは広島、長崎、沖縄の3ヶ所。
いずれも太平洋戦争で甚大な被害を被った地域にあります。
もちろん日本全国ほとんどの都市では、空襲や艦砲射撃によって被災した歴史が大なり小なりあって、各地域のミュージアムでは伝えられています。
ただ沖縄は国内唯一の地上戦、広島と長崎は核爆弾による大きすぎる被害という点によって、他の地域とは異なる文脈で語られます。
今回は1945年8月9日から始まり、今もまだ続いている歴史の記録。


長崎県長崎市の人口は379,000人。県内最大の中心都市です。
戦国末期ごろから海外交易の港が開かれ、江戸時代には数少ない外国との窓口として栄えた歴史を持っています。
また肥前の国はキリシタン布教の拠点だった事もあり、明治維新後にはカトリック教会が数多く建てられています。ちなみに長崎市の市章は五芒星。

太平洋戦争末期に原子爆弾が投下され、町は壊滅的被害に見舞われました。
死者は約74,000人、重軽傷者が約75,000人。
爆心地から1km以内にいた人はほぼ即死という状況だったそうです。
(1945年当時の長崎市の人口は240,000人)。
そんな悲惨な状況から復興を成し遂げたのが、現在の長崎市です。

平和公園

1950年に開設された平和公園があるのは、長崎湾の最深部から北へ3kmほどの小高い場所。「平和の歩道」と名付けられたエスカレーターあり。

エスカレーター完備

公園の南側には、原爆の爆心地(祈りのゾーン)に長崎原爆資料館や国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(学びのゾーン)が隣接し、遠くその先には稲佐山が望めます。

長崎県長崎市松山町9

いわゆる平和公園と呼ばれ、平和記念像があるのは「願いのゾーン」です。平和の歩道を上り、まず最初に目に入ってくるのが平和の泉。

平和の泉

爆発後の長崎では喉の渇きを癒すため、水を求めた人があふれたそうです。
公園の西側を流れている浦上川にも。
泉の前にはある少女が残した手記からの一節が、碑として建立。

泉の背後には戦後になり世界各国から贈られた、平和を祈念するモニュメントが集められています。

モニュメント各種

見ていて興味深いのは、戦争から80年が経過した世界を取り巻く状況。
モニュメントを贈呈した国の中には、ソビエト連邦やチェコスロバキアのように分裂した国や、東西に分離していたものの現在は統合されたドイツもあります(ドイツは当時の東西両国から贈呈)。

戦災復興記念
平和のマント
長崎の鐘

原爆投下時にこの公園に建っていたのは刑務所。
一部ですが、その痕跡も保存されています。

刑務所を囲んでいた高さ4mの鉄筋コンクリート塀は、爆風でほぼ倒壊。
当時いた職員や関係者、そして受刑者に刑事被告人という134名全員がここで亡くなっています。

刑務所跡

平和祈念像は、平和の泉と稲佐山を結ぶように配置されています。

平和祈念像

平和祈念像は原爆投下から10年後に、世界恒久平和を訴えるために建立。
早朝にもかかわらず、散歩というより観光客的な人の姿がパラパラと。
じっと立ち止まる外国人もそれなりに。

像は長崎出身の彫刻家北村西望きたむら せいぼう(1884-1987)の手によるもの。
西望は南島原の人で、各地でその作品を目にすることができます。

天を指した右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平安を。
折り曲げた右足は「静」、立てた左足は「動」を表現。
個人的には、長崎と言えばこの像のイメージ。

平和像の試作段階では、立像案もあったようです。

(参考)島原城
(参考)@島原城

平和像の頭にはハトが休息する様子は、平和の象徴かも。

平和像の西側には長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の建物があります。
被災協は、2024年にノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会(被団協)を構成する組織(都府県によって名称が異なります)。

被災協

被災協は被爆者の救済と核兵器廃絶をミッションとして設立されています。
救済については1957年に原爆医療法が制定されましたが、被爆者援護法にいたっては1994年と長い闘いの歴史が。
一方の核兵器廃絶には、今も出口が見えない状況。

被災協のとなりには、小さな祈念堂も設置されています。
1954年にはインドのネール首相から、犠牲者の慰霊と恒久平和を祈念して贈られたのが仏舎利。建物はその安置所および無縁死没者追悼の祈念堂。

祈念堂

首脳が代替わりしてゆく流れの中で、現在のインドは核保有国に。

被団協は2026年6月の総会において、1年後をメドに今後の活動継続に関して結論(解散を含む)を出す意向を示しました。
被爆者の減少や高齢化が大きな理由ですが、解散・休止となった地方組織も徐々に増えている事に加え、その活動に無関心な層の増加も要因の1つ。
活動目的が「被爆者の権利と生活を守ること」である以上、将来的な被爆者の不在は協会の存在意義に直結します。
そのために協議を1年かけて行うとの事。

原爆被害が語られる時に、決まって使われるのが「唯一の戦争被爆国」。
また近年では「被爆〇世として語り継ぎたい」というフレーズ。
もっともな表現かつ語られる言葉も正論なのですが、語る側の感情が前面に出過ぎている印象で、相手から共感が集まらない現状にモヤモヤします。
複雑な国際関係の中では、超少数派となる被害国側の視点ゆえでしょうか。
そもそも目的には1歩も近づいていないようにも。

毎年8月の平和記念式典では、市長による政治パフォーマンス的なあいさつがなされます。当時悲惨な状況となった長崎から核兵器廃絶を訴えかける事は理解できますが、相手からの共感を得られている感触は・・・

なぜアメリカを筆頭とする核保有国が核兵器を手放さないのか?
また分裂したソ連の中には核兵器を放棄した国が、隣国から侵攻を受けている事実も現在進行形です(核使用もチラつかされつつ)。
保有国側の正義や核兵器を破棄する事に対する不安と折り合いをつけられるよう語りかけなければ、話し合いの糸口も見つけられません。

世界から悲惨な争いがなくならないのは、歴史が証明しています。
争いを厭わない人々がいつの時代にも存在するという事実を踏まえつつ、核の傘のない日本の未来をどのように描けるのか。
「願い」や「学び」のゾーンを入口に歴史的事実を学びつつ、多くの人々とのバランス感覚を養う場所としての平和公園には可能性を感じます。
現代的な状況分析や利害関係の調整能力もアップデートしつつ。

いいなと思ったら応援しよう!