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千町歩地主の豪邸にお邪魔します!【越後編:市島邸】 新潟県新発田市

豪農からイメージするのは、江戸時代の庄屋さん。それは地域の有力者そしてまとめ役。半分お殿様側で半分農民側という立ち位置は、状況によっては板挟みになってしまい、現在では嫌われがちな中間管理職なのかも。また相応の教養も必須科目です。

その中でも千町歩せんちょうぶ地主と呼ばれた、農家と商家が融合したような超富裕層が存在していました。
千町とは広さの単位で、約1,000haつまりは約10k㎡!
よくあるたとえでは、東京ドーム約210個分(逆に分かりにくい)。
まったくピンとこないので調べてみると、東京都千代田区が11.6k㎡とザックリ同じ広さ。イメージは江戸城外堀の内側エリア(皇居はスッポリ)。


新潟市の東側に隣接する新潟県の中堅の市、新発田しばた市の人口は89,000人。
広大な蒲原平野(越後平野)には日本海へと流れ込む信濃川、阿賀野川の2つの大河がありますが、その川よりもやや東に位置する平野部の東端。

千町歩地主は1924年時の調査では全国に9名(北海道を除く)。
そのうち新潟県には5名。今回の邸宅の主はその新潟の筆頭。
商業で得た資本を長い年月をかけて干拓等の新田開発(公共事業)に投入し、千町歩まで拡大した一族の記録です。

市島邸

地図を見ると一目瞭然、現在も広大な田畑に囲まれている市島邸。
森のような回遊式庭園に囲まれた邸宅の敷地は8,000坪、建坪は600坪。
ちなみに市島家の所有していた田畑は1924年時で1,830町歩、プラス山林が3,000町歩。

新潟県新発田市天王1563


パンフ2025年版

邸宅は1876年に7代徳次郎(静月)により建築。数寄屋造りの水月庵、仏間を中心とした居室部、そして広大な回遊式庭園から構成されています。
現在は市島家の手を離れ、新発田市が管理。

表門

表門は総檜製の四脚門で、1907年に銅板葺に(タイトル画像)。
ただし邸内へは表門からではなく、長屋門の受付から。

受付
正面玄関

正面玄関から入れないのは豪邸あるある(だいたい当主専用)。
見学者はグルーっと廻った入口(下足室)から。

豪邸の必須アイテムの1つ土蔵。

この米蔵には3,000俵が収納可能。
かつての市島家は米蔵を20ヶ所ほど所有していたそうです。

資料館(旧米蔵)

市島家とは

ルーツは丹波氷上郡市島村(兵庫県丹波市市島町)。
永禄年間(1565-1568)ごろには、若狭高浜(福井県大飯郡高浜町)にベースを移していたようです。

その頃の高浜領主だった溝口氏に従い、若狭高浜から加賀大聖寺と移動したのが遠祖とされる市島治兵衛
そして1598年に溝口氏に従って、越後新発田の地に。

紛らわしいのですが、遠祖治兵衛の孫だった治兵衛が市島家の初代。系図では3世初代と説明されています。
最初の拠点五十公野いじみのから次いで水原すいばらへと移って薬種業を始めたのが、4世2代の喜右衛門(治兵衛の子)。

薬のレシピ

家業は京・大坂まで広がり、宗家7世4代徳次郎(金華)は運送業でも成功。
それらの事業で得た財産を資本に金華の晩年には7,000石もの地主となり、豪農の基礎を築きました(もはや大名に一歩手前の規模)。

水原代官から徳次郎(金華)への名字使用を許す免状は、飢饉での住民救済の功績によるもの。
その後も干拓での上納金等により、永代帯刀等も認められています。

免状

新田開発に加え、大正期以降にはスタッフ(使用人や小作人)子弟への学費援助も含み、地域振興にも力を入れたのが市島方式。
明治から昭和にかけて豊かな地方に見られる、地元の名士のお手本です。

戊辰戦争で水原の邸宅が焼失したのを機に、現在の天王の地に自邸を建設したのが10世7代徳次郎静月せいげつ:1824-1892)。
邸宅は江戸以降約300年間、新発田の地で豪農を続けた一族の最終形態。

江戸時代の市島一族は、新発田藩や幕府を経済的にも支援していましたが、複数ある分家は、幕末の混乱期に大打撃を受けたそうです。
一方本家は戊辰戦争時に新政府支持へとうまく方向転換し、明治期以降もその家勢を維持・成長させました。情報にも通じていたのでしょう。

8代市島徳次郎像(大理石製)

本家11世8代徳次郎湖月こげつ:1847-1917)は天王村の初代村長を務め、貴族議員にも選出。歴代当主に倣い、公共事業や文化行政にも注力。
また邸宅の増築・拡張では、自ら湖月閣や庭園の設計を手掛けています(東京や神奈川の別邸設計にも参画)。
ちなみに湖月閣とは合計約100畳もの大広間を備えた市島家の迎賓館で、1995年の新潟県北部地震によって全壊しています。残念!

ここで展示には、分家のキーパーソンが加わってきます。
越国世家えっこく せいかは、市島謙吉春城、筆頭分家の角市6代目:1860-1944)の書。

越国世家

「越後の国のなくてはならない家」という意味で、春城が家史の題字にチョイス。強烈な自負が伝わります。この石碑は資料館の入口に鎮座。
ジャーナリストそして政治家として活躍した春城は、大隈重信おおくま しげのぶの懐刀に。
早稲田大学の設立にも参画し、多大な功績から早稲田四尊の1人にも。
ちなみに本家12世9代徳厚のりあつ(1893-1959)は、なぜか慶應義塾大学の出身。

歌人會津八一あいづ やいち(1881-1956)の父は、分家葛塚市島家の出身。

會津八一の書

八一は早稲田大学では教員を務め、大学内に自身の名を冠した記念博物館が残っています。

代官所から福島潟の開発を命じられたのは、徳次郎(金華)を筆頭とした13人衆(なんかカッコイイ。後に福島潟は市島家の所有になっています)。

福島潟検地絵図(写し)

戦後の農地改革によって福島潟は国有地になりますが、現在は鳥獣保護区に指定され、日本初の1級野鳥観測ステーションが置かれています。

展示にさりげなくお宝をちりばめるのが、超富裕層の証か。
これ見よがし感がないので、油断しているとスルーします。

草花図短冊貼込屏風は、江戸琳派の筆頭酒井抱一さかい ほういつ(1761-1829)の画。

草花図短冊貼込屏風

(徳厚夫人)の所蔵品。信は晩年の徳厚を支え後妻になった人。

最も衝撃を受けたのが、高橋由一の鮭(重要文化財)を思わせる抱一の画。

干鮭図 酒井抱画賛

歴史の流れ的には、由一の鮭のモチーフが抱一の鮭なのかも。

ちなみに鮭の寒風干しは越後の名物。
画のキャプションによると池田孤村(抱一の弟子:1801-1866)が越後の出身だったので、孤村から贈られた鮭を抱一が描いたのではと推測。
市島家への詳しい伝来は不明。

(参考)イヨボヤ @若林家住宅(新潟県村上市)
村上では頭を下に吊るすそうです。

本家9代徳厚ゆかりの趣味の品々。

蓄音機は日本ビクターの前身ビクター・トーキング・マシン・カンパニー製、レコードは日本コロムビアの前身ニッポノホン製。社名が面白い。
ちなみに徳厚は東京別邸には私塾を構え、また学生を奨学金で援助したりと次世代の育成にも努めた人。

徳厚没後に信の管理していた東京別邸は、早稲田大学に託されたようですが、残念ながら2020年に解体されています。
下の写真に写っている扉は、東京別邸の生き残り。

8代徳次郎(湖月)は明治の大転換期に事業組織の近代化を進め、各部門、本邸、別邸すべての管理を自身に報告させていたそうです。

スタッフの給料一覧

こうした帳簿が残っているのは、事業家としての側面。

謙吉像は生誕150周年を記念して早稲田大学による制作(2010年)。

市島謙吉像(資料館前)

邸宅見学は予習編のように蔵の中を見て回り、続いて手入れの行き届いた邸宅内と野趣あふれる庭園をのんびり回るスタイルで構成されています。
資料類多めなので、メモリー(脳みそ)に収まりきれないのが泣き所。

豪農の邸宅

案内図右下の下足室(米蔵のそばに位置)から渡り廊下を通って邸内へと入っていきます。

建物はゆったりとしたレイアウト

そして左上の南山亭から庭園へ抜けていく不思議なコース設定ですが・・・

この渡り廊下こそが、かつての湖月閣へのアプローチでした。

渡り廊下を進むと茶室らしき建物が見えてきます。

水月庵
池の向こうに見えるのも茶室(南山亭の離れ)

南山亭側から水月庵を見ると、茶室は池の上に。

水月庵(北側)

点在するいくつかの建物を、長い渡り廊下でつないでいるのが市島邸の特徴。広大な敷地オーナーならではのレイアウトデザイン。

正面玄関はご当主夫妻と賓客専用。

正面玄関の間

一般人がココに至るまでには長い道のりを経る必要が。

玄関の隣には邸内唯一の洋間。蔵書の一部がインテリアに。

洋間

面白いのは、後ろ脚のみパイプという変わった折り畳み椅子。

洋間の隣は帳場(なぜかラップ風)。
奥のコルクボードに貼られているのは、明治期の多額納税者ランキング(豪商や豪農の邸宅で時々見かけます)。

帳場

新潟県では徳次郎さんを筆頭に、田巻、伊藤、齋藤と蒲原平野に現存する豪農邸宅の当時の所有者が。
都道府県別での徳次郎さんは、全国第2位にランク。

長持ちは隆子(9代徳厚夫人)が婚礼道具として持ち込まれたモノ。

長持ち


ちなみに隆子さんは津山松平家(越前松平系)の方。よって三つ葉葵。

ようやく主屋へ

南山亭 離座敷
南山亭 居間エリア
南山亭 書院エリア
南山亭 仏間エリア

順路は南山亭から庭園エリアのぶらぶら散歩へ。

離れが2棟。庭園というより、もはや森。唯一足りないのは高低差。

そういえば数年前の「市島邸に熊出没」のニュースには驚かされました。
けっこう山から離れていると思いますが、田んぼを超えて来たのかあるいは水路を辿ってきたのか。

松籟庵

水原邸から移築されたという茶室が松籟しょうらい

屋根には藤森建築のごとく植物が。

そしてもう1棟。
信仰心に篤かった歴代当主がお坊さんを招き、村民に説教を聞かせた建物。

説教所

祀られているのは、明治期に神奈川県の漁師が海から網で引き上げたというご本尊。湖月さんが神奈川に赴いた時に譲り受け、説教所に安置。

説教所
卍亭

卍亭まんじていは新潟県北部地震での倒壊から復活した東屋。
京都桂離宮にある卍亭のレプリカ。

市島家は質素倹約を旨としていたそうです(これも超富裕層あるある)。
建物は相応に価値の高い部材を使用していると思われますが、デザインは奇抜さや派手さを感じさせないシンプルなテイストで統一されています。

築150年ほどの建物ながら、とてもクリーンに保たれた空間。代々使われてきた方々や、今も管理に携わられている方々の愛情が見て取れます。
これらも代々の当主が手掛けてきた投資や人材教育の賜物でしょうか。

残念ながら本家自体は断絶してしまったようです。
ただこうして彼らの紡いできた哲学や、現代では薄れつつある公共に対するスタンスを体感できる場所こそが貴重。


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