関ヶ原の戦いからの復活劇:東北編【白河小峰城:丹羽長重】 福島県白河市
「人生山あり谷あり」と言われます。自身の人生を振り返ってみても(まだ先は長そうですが)、それなりに起伏はあったものの「山」とか「谷」と表現できる程のドラマはなかったような。
中世の日本(鎌倉時代から戦国時代)では、文字通り真っ逆さまという「谷」の歴史は少なくありません。存亡に命を掛けていた時代では一文無しならまだ良い方で、最悪は一族滅亡に至るケースも。
前回は九州の復活劇(現在も続く一族)を記録しましたが、今回は東北から。主役の一族は他所に移ってしまいましたが、築いたお城は今も残ります。しかもそのお城は、戦災や自然災害を乗り越えつつ復元中。
福島県は東の太平洋側から、浜通り、中通り、会津と地域分けされます。
中通りの南端にある白河市の人口は55,000人。
ちなみに中通りには郡山市や県庁所在地の福島市がありますが、明治以降に発展した郡山市が人口314,000人と県内ほぼ最多(いわき市とほぼ同じ)。

白河は東北の玄関口と呼ばれます。
かつての関東下野と陸奥の国境に位置し、白河の関が置かれたのが所以。
今回の記録はその城跡と資料館の記録。
白河小峰城とは

白河小峰城は関東と東北を結ぶ大動脈、国道4号線のすぐそばにあります。
事前情報なしで立ち寄ってみると、何やら工事中。

遠くから見ると人が上り下りしていたので、お城に入れるのは間違いありません。以前は下写真の通り。けっこう強引な設置方法です。

階段は二ノ丸茶屋前の石垣に造られています。
まあこれはこれで希少な体験。ズンズン進みます。
天守に相当する三階櫓は、入場無料という太っ腹。
白河小峰城:福島県白河市郭内


石垣の先もまた石垣。
ただ周囲の見晴らしがいい!というほどの高低差はありません。

白河小峰城は丘陵に築城された平山城。
ベースを築いたのは南北朝期の結城親朝。江戸期に織豊大名の丹羽長重が入封し大改造。阿武隈川を北へと付け替えて外堀として利用しています。

本丸が最も高い位置にあり、二之丸、三之丸と三層で構成されています。
石垣は重層をなし、お堀も巧みに設定。典型的な織豊大名の仕事。
最盛期には、18ヶ所の門と11ヶ所の櫓がそびえ立っていたそうです。
丹羽家以降は7家の徳川譜代・親藩大名の居城に。

実は東日本大震災(2011年)では、石垣が広範囲に被災。
2019年に5年の歳月をかけて復旧し、地域の復興シンボルに。
三重櫓に入る前に本丸周辺をぐるっと。

かつての本丸跡には本丸御殿が。現在は芝生と小さな説明版。
西方向に見えるのは、わずかに雪が残る那須連山。いかにも今話題のクマが出没しそうな雰囲気ですが、市街地には姿を現していないようです。


小峰城のシンボルは三層三階の三重櫓。
1868年の戊辰戦争で焼失しましたが、1991年に伝統工法で復活。
1994年には前御門も復元。復元資料となる松平定信時代の絵図が残っていた事が重要なカギ。

三重櫓の脇にあるのがおとめ桜。
築城時に何度も崩れた石垣があり、そのために人柱にされたのが藩士の娘おとめ。江戸初期の悲しい記憶です。

桜も三重櫓と同じく戊辰戦争で焼失したそうで、現在は2代目。
なお現在の小峰城は桜の名所に。


三重櫓内はとてもシンプル。
復元には地元産の材木が使用され、戊辰戦争激戦地の稲荷山から調達した柱材には当時の弾痕がそのままに。偶然の痕跡ですが上手に利用。

現存天守と同様ですが、階段はほぼはしご状態の傾斜です。

石落としも設定されています。
ただここまで攻め込まれて、石を落としてまであがく意味は?


2Fから3Fの階段も急勾配。
梁に確認できるのは、手斧で削った痕跡。

最上階は極小スペース。ただ最上階の開口部もまた極狭で、2Fエリアの方がまだ周囲を見渡せます。

コンクリート造ではなく、木造で復元された小峰城三重櫓。
実は木造復元ではパイオニアとなっていて、以降の東北では白石城三階櫓(1995年:宮城県白石市)も木造復元で続きます。

そして現在復元工事中なのが清水門。
完成予定は2027年3月いっぱいらしいのですが、通常であれば三重櫓へは清水門を通って竹之丸跡経由で御前門に至ります。

現在その姿はまったく窺えませんが、完成予想図はチラシから。

ちなみに以前の姿はというと・・・ 楽勝でクリアできるレベルの門。

そびえ立つ石垣とお堀も、もう少しのガマン。

小峰城は会津若松城や盛岡城と並び、東北三名城と呼ばれるそうです。
立派な石垣からのチョイスのようですが、盛岡は地元大名による築城かつ重厚なその姿に納得感があります。
ただ会津と白河は、戊辰戦争で落城しているので「名城」というのは・・・

丹羽長重という人
ここで小峰城を築城した丹羽長重(1571-1637)について。
父は織田信長の重臣丹羽長秀、母は織田信長の姪、そして正室は信長の娘というかなり織田家な人。

父の遺領123万石(若狭、越前、加賀&近江の一部)を継承しますが、豊臣秀吉にイチャモンつけられて若狭12万石(後に加賀松任4.3万石)と所領を削られ、家臣団も取り上げられてしまいます(最初の谷)。
一時は加賀小松12万石に復活しますが(最初の山)、関ヶ原の戦い(北陸版)での行動が原因で一旦所領ゼロに(2番目の谷)。
その後2代将軍徳川秀忠の御伽衆に取り立てられ徐々に加増。
会津の蒲生家が無嗣断絶すると白河10万石を拝領します(2番目の山)。

ちなみに長重の前任地は陸奥棚倉(しかも長重が築城中)。
これは九州柳川に復帰した立花宗茂による関ヶ原復活パターンの踏襲。
ただこの復活劇には長重の築城技術や軍略が認められていた事、また織田信長との血筋の近さ(秀忠の正室もまた信長の姪)も影響していたといわれています。今も昔も必要なのは、スキルとコネとわずかな運。
その流れから幕府の命により築城したのが白河小峰城。
さらには長重の子光重は転封先の二本松城(福島県二本松市)を大改修。
丹羽家三代の技術は伝承され、幕末まで存続しています(尾張にルーツを持つ大名で、東北に根付いた希少種)。
最初の肖像画は大隣寺蔵(二本松市)の模写で、白河市歴史民俗資料館所蔵のモノ。2番目は同じく大隣寺蔵の別バージョン。
白河版はよく見る具足姿ですが、二本松版の方がシュッとしてます。
長重の父についても触れておきます。
丹羽長秀(五郎左:1535-1585)は武辺一辺倒ではなく、また織田信長からの信頼が抜群に厚かった人。

原本は大隣寺蔵
その有能さから米五郎左と(お米のように欠かせない存在)呼ばれましたが、全方位の活躍にはあの安土築城の総奉行も含まれています。
お城や白河藩に関する情報や資料は、小峰城歴史館にザクザクと。

白河集古苑から小峰城歴史館に

小峰城歴史館は2019年にリニューアルオープンした市立ミュージアム。
前身となる白河集古苑(結城家古文書館&阿部家名品館)をベースに新たな建物が追加され、シアターと3つの展示室から構成されています。
市内には1979年開館の白河市歴史民俗資料館もあります。なにげに贅沢。

歴史館前には発掘調査で発見された旧大手門の礎石が移設されています。
旧大手門はお城の南側、線路の向こう側に位置していたようです。

歴史館の天井を見ると「あの人か?」と想像しましたが・・・
調べてもネット上では拾えず。


小峰城については模型とともに、震災後の復活行程について細かに解説。
模型では三の丸にある巨大な池(湖?)を持つお屋敷が気になります。
模型の左上部分が現在の城跡エリア。

現在の歴史館は、かつて内堀に囲まれていました。

展示品で重要なのが白河城御櫓絵図(白河市歴史民俗資料館蔵)。
かつての多くの櫓や門が細かに記録されています。
松平定信時代のこの絵図をベースに三重櫓と前御門は復活。
本丸御殿も描かれていますが、まさかのまさか・・・?

加えて三重御櫓建絵図(複製:原本は歴史民俗資料館蔵)も展示。
縮尺は1/30。白河城御櫓絵図は上下2巻で各巻全長10mを超えるそうです。

こちらは歴代藩主家の展示室。

最初は最も知名度高めな久松松平家から。
徳川家康の異父弟から始まる家が久松家。
白河藩主の名君として知られる松平定信(1758-1829)は、徳川御三卿の田安徳川家からの養子。後に老中首座となり寛政の改革を主導した人。

狩野養信筆 福島県立博物館蔵
定信自身は8代将軍吉宗の孫にあたり、場合によっては将軍になり得る血筋でしたが、色々あって久松松平家を継承しています。
政治以外にも博物大名的な一面を持ち、集古十種を刊行しています。

松平定信が編集した集古十種は、日本の文化財カタログ。
展示のページは安芸厳島神社所蔵の源義家の兜と読めますが・・・
一応定信のご先祖様とされる方です。今も厳島にあるのか?
続いて谷文晁(1763-1841)の桜・紅葉図。
桜図の賛は有栖川宮韶仁親王、紅葉図は近衛忠熙 。

定信の家臣だった谷文晁も、集古十種制作に従事しています。
文晁の交友関係は幅広く、江戸では酒井抱一や大田南畝らと交流。
また門弟には渡辺崋山や椿椿山と絵師軍団を形成。
藩の資料としては重要かつ鉄板ネタなのが徳川家慶領地判物(複製)。

幕末の藩主阿部家(正備)に対して12代将軍が発給。領地高は10万石。
ここで展示室を移動。展示室との間には集古苑時代のエントランスが。
かつての門も今は閉じられ、集古館の石板プレートは門外側から移動。

白眉は白河結城家
歴史館で重要なのは、江戸時代以前の白河歴史コーナー。
こちらは鎌倉以来の書状(重要文化財)を中心に展示。

結城家は鎌倉時代に遡る名門武家で、その祖は鎌倉御家人の小山政光。
政光の子朝光(1168-1254)が結城氏を名乗り、後に下総家(茨城県結城市)と白川家に分流。
白河の地には約300年間君臨しましたが、豊臣秀吉の奥州仕置によって改易されてしまいます(一族最大の谷)。
徳川家康の2男秀康(1574-1607)が本家の下総結城氏へ養子に入っていた事から、そのコネクションを通じて復活を図りましたが不発。
白河結城氏の血筋は秋田藩士や仙台藩士として存続し、秋田系の結城家に伝来した文書類が白河へと帰還したのが白河結城家文書(重要文化財)。
こちらは結城氏系図(複製)。

続いて後醍醐天皇綸旨(複製:結城神社蔵)。

綸旨は天皇による鎌倉幕府討伐のため、結城親朝に宛てられた召集令状。
白河結城氏は一族で鎌倉へと出陣し、倒幕に貢献しています。
室町期の重要書状が続きます。
吉良貞家書下は、結城親朝に対する奥州管領からの指示書。

実はこの頃の室町幕府は、足利尊氏・直義兄弟の二頭政治期。
吉良貞家は直義派で、この書状が届く前に尊氏派の畠山国氏から届いていた書状とは領地の保証エリアが異なっていたそうです。
上からの命令系統は1本にしてほしいものです。
こちらは原本展示の足利氏満御内書
鎌倉公方足利氏満が小峰満政(白河結城家一族)に宛てた書状。

鎌倉公方は関東より東側(もちろん東北も)エリアを、将軍に代わって統治する機関。書状の内容は、お褒めの言葉のようです。
歴史は続きます。足利満貞御教書(複製)。

満貞は氏満の子。花押が父と似ています。
奥州(福島県須賀川市)に下向した満貞は稲村公方と呼ばれました。
御教書は同じく小峰満政に宛てられた反乱鎮圧の命令書。
興味深いのは反乱を起こしたのが伊達政宗と蘆名満盛。書状に記された政宗は17代の独眼竜ではなく、その先祖で9代目(1353-1405)の事。
東北の室町時代は登場人物が多くしかも名前も似ています。
さらに〇〇公方もいくつか存在するので、把握するのがやや困難。
戦いだけではないのが名門の証か。こちらは結城家連歌会の記録書。
武家の雅な一面、あるいは貴重な息抜きなのかも。

原本での展示品は白河結城家の最盛期のモノ(1481年:最大の山)。
一族家臣で1日1万句!とはそれはそれで苦行なのでは。
展示は近世以降よりも中世の方が、人間の欲望がよりリアルです。
特に室町期は南朝方・北朝方と目まぐるしく立場を入れ替える家も多く、家中で割れるケースも日常茶飯事。
東北は近世までその延長線上にある地域が多いエリア。

城郭建築と言えば、2026年3月には広島城天守閣が閉城しています。
天守閣はコンクリート造でしたが老朽化のための措置です。
木造での復元という可能性はありますが、小峰城のような充実した資料が必要条件。また右肩上がりの建築費も必要とされます。
小峰城のような復活パターンには時流や地元民の協力も必要でしょう。
地域の歴史を継承し時間をかけて往年の姿を取り戻しつつある白河小峰城。丹羽長重の築城術は、現代においても山あり谷ありで継続中。

