米の歴史を俯瞰する米どころのミュージアム【秋田県立博物館:安井建築設計事務所】 秋田県秋田市
ここ数年、現れるとニュースになるのはクマ。九州を除く日本全国の山間地に生息とされていますが、今や市街地に現れる事もしばしば。
ニュースでは民家に侵入とか籠城とか言われ放題のクマですが、環境や行動の変化によって増加する人的被害には、コチラ側も上手に適応するしかありません。
クマの出没が多発する東北地方で「クマ出没注意!」看板を初めて見たのは、岩手から秋田へと向かう秋田道の錦秋湖SA(岩手県)。
続いては、秋田市の中心部から直線距離でわずか2kmほどの一つ森公園。
以降も妙にクマの影をがチラついている秋田県(出没情報多すぎ)。
その県内最大かつ県庁所在地・秋田市の人口は293,000人。
今回のミュージアムはクマ目当てではなく、唯一無二の人物を展示の目玉としている博物館。
ところが本当の目玉は、展示全体に巧妙に張り巡らされた日本の主食。

博物館は市内中心部から北へと10数kmの距離。
クルーズ船やフェリー乗り場がある秋田港(展望塔や風力発電が林立)を横目にしつつ、超巨大な干拓地八郎潟の手前あたり。
ちなみにこの1ヶ月後、秋田港(土崎)そばのスーパーに、クマが2日ほど籠城したというニュースを目にします。
地図で見ると分かりますが秋田港の周囲は住宅地。はるばる高速道とJR線を越えてきたそクマの行動力は驚異的。相変わらず遭遇してはいませんが。
秋田県立博物館

秋田県立博物館は1975年の開館で、設計は安井建築設計事務所。
近代化したトーハク各館の改修や正門プラザ(2014年)を手掛けています。
男潟と女潟の中間に位置するミュージアムから女潟を眺めているのは、元県知事小畑勇二郎(24年間君臨)、博物館を設立した人。

秋田県秋田市金足鳰崎後山52



展示は博物館スタンダード。デザインは現代的にリニューアルされており、県立にはよく見られる複製品を多用。


九州発祥土器の伝播が展示・解説されていましたが、古すぎてイマイチピンとくることもなく・・・
大和朝廷が東日本へと拡大し蝦夷の征服をスタート、出羽柵を設けて北方への足固めを進めていくあたりが、ココでは個人的興味の導入部。
非常に奥深い民の一生というパネル。
秋田に土地が与えられたのは穴太部さん。
古い木簡や文書に記載があるという人物は、地方出身の若者という設定。

穴太部さんは22才に住民登録します。
そして27才で役所から稲5束を貸し付けられますがうれしくはないと。
なぜなら秋には利息を付けて稲7束を返さないといけないから。
年利40%とはけっこうな高利貸し。ブラックな朝廷。
49才の時に流行した疫病で寝込み、しかも天候不良で米は不作。
解説にあった朝廷の対応は、陰陽師によるお払い儀式のみ。
そして50歳で穴太部さんは亡くなり、家族は雄物川の見える丘に埋葬。
役人は死亡届を確認してこの物語はおしまい。
内容もイラストも分かり易いのですが、内容はややヘヴィー。
そんな民衆による収穫物の行方を、物資流通ルートで解説(中世編)。

秋田は蝦夷(北海道)交易とのハブも担っています。
主要な物資はやはり米。ピクトグラムと色分けでシンプルに表現。
三津七湊は海外からのメインルートは瀬戸内海、国内の流通ルートは日本海側に並んでいた事を示しています。秋田は七湊の1つ。
続いて武士の記録を歴史順に。

橘公員の父は、奥州藤原氏滅亡後に秋田郡の地頭になっていた人。
書状は公員への所領相続を鎌倉幕府が認めたもの。
秋田だけでなく九州肥前(佐賀県武雄市)の所領も含まれているのが驚きのポイント。秋田からどうやって現地を管理していたのでしょうか?

時代は少し飛んで、織田信長から太刀を贈られた安倍愛季(1539-1587)の礼状控え(1577年)。愛季は信長へお返しに鷹を贈ったようです。
愛季は朝廷側の源頼義・義家親子らに討伐された安倍貞任(1019-1062)の末裔。後に安東氏と名を変えた一族を統一し、秋田氏の祖となった人。
信長は奥州・伊達家ともやりとりをしていましたが、羽州への目配りも当然のように。このあたりの政治・経済感覚が信長!

続く書状は豊臣秀吉が出羽の国人戸沢光盛(1576-1592)に与えた朱印状(1591年)。奥州仕置によって仙北44,350石の支配を認めた安堵状。

ちなみに安堵状は同時期に、周辺の大名にも発給されています。
秋田氏は領地の約1/3が太閤蔵入地となり、52,440石と減少。
続いて徳川家康から秋田実季(愛季の子:1576-1660)へ宛てた黒印状は、重要な出陣命令書(1600年)。
家康からの上洛命令を無視して会津から動かなかったのが上杉景勝。
その上杉攻略のための招集状は、天下分け目関ヶ原へのプレリュード。

ところが関ヶ原後の論功行賞では、常陸の国へと転封となった秋田家。
そして秋田にやって来たのが、常陸の名門佐竹家。
安倍氏を討伐した源頼義の末裔というのも何かの因縁。
佐竹氏

安土桃山期の当主は佐竹義重(1547-1612)。異名は鬼義重。
東北では伊達政宗、関東では北条氏政とバチバチにやり合った猛将。
上の具足は、義重の代名詞的な毛虫前立の具足。
下は徳川家の猛将本多忠勝的な鹿角をデザイン。

秋田入封時の当主は佐竹義宣(鬼の子:1570-1633)。
豊臣政権下では常陸54万石を領有した有力大名でした。
父の義重は仙北郡六郷(美郷町)を拠点に義宣を補佐。

義宣は菩提寺・天徳寺の普請では、家臣に細々とした指示を出しています。

その指示書の上に展示されているのは、あっぱれ的な家紋が美しい書状箱。前秋田県知事で佐竹北家当主(角館の殿様)の所蔵品。

入封時は石高不明だった佐竹家ですが、後に確定した表高は出羽20万石。
そして藩主として領内の新田開発を積極的に推進していきます。

ただし秋田の産業は農業だけではありません。
主要産品として木材(秋田杉)が挙がるように、豊富な森林資源に加えて鉱物資源も久保田藩の強みでした。
鉱山開発では江戸からマルチな才能の人平賀源内(1728-1780)を招聘。
この源内との関わりから小田野直武(1750-1780)が発掘されて解体新書につながり、アート面では秋田蘭画が花開いています。

解説によると農民は田畑だけでなく山や川の管理も担当。
江戸時代の民も、なにかとブラックな環境。
秋田藩について詳しいのがこちらの書籍。
秋田大学で教鞭をとられた著者による、秋田の歴史(江戸時代中心)。
移封の苦労から幕末の奥羽列藩同盟離脱まで、名門のドラマティックな歴史が綴られています。中でも期待していたのは秋田蘭画についての記述。
残念ながらそのボリュームは、5ページほどの刺身のつまレベル。
基本は歴史です。
産業の話に戻ります。

こちらは釣り竿ではなく、仙北地方で使われた検地竿。
そして検地の作業方法を図解している、当時のハウツー巻物。

ここで江戸期の秋田米の評価を。
秋田米は江戸後期の格付けでは、残念ながら最下位に沈んでいます。
全国294銘柄で293位が能代米、294位が秋田次米(次米の意味は不明)。

解説によれば1675年の相場で越後米を100とすると、秋田米は75。
そして1856年には越後米93に対し、秋田米86(加賀米が100)。
改善はされていますが、庄内米94や津軽米97と比べてもまだ低評価。
そうはいっても江戸後期には生産した7割を他国へと出荷して、藩の台所事情を支えていたのがお米。
さらに明治期の地域別主食率という面白いデータでは、岩手や鹿児島の米主食率35%ほどに対し、秋田・山形では90%ほど(神奈川が45%)と圧倒。
秋田の暮らしの根幹にあったのはお米です。
ここからは近代化をスッ飛ばして、いきなり現代の展示へ。
これが最も衝撃・・・
博物館で触れる最先端

秋田での農業展示はいたって自然な流れ。ただ注目すべきはその内容。
大規模農家では今やドローンによる種まきや農薬散布はマスト。
そして上空からの映像はAI診断によってエリアごとの生育状況が確認され、最適な収穫時期つまりは収穫の順番までサポートされます。
メガ農地では衛星画像も使っているとか。

下写真の右側は、センサーで田んぼの水位を把握して給水する文明の利器。
農家にとって大規模化するほど手間がかかるのが、広域に散らばった田んぼの管理。水門の開け閉めによって水位を管理していますが、移動を含めてこの作業はとても大変(場合によっては日に何度も)。

確認や操作は当然のスマホ。水位についてはその労力を激減させ、生産性を向上させるアイテム。何よりそのノウハウをデータ化できるのがキモ。
水位セットの左側はズバリのアイガモロボ。ルンバのごとく田んぼ内を周回します。農薬を使わない有機農法では雑草が頭痛の種のようです。
合鴨農法といえばカモが雑草を食べ、フンも肥料にという認識でした。
ロボットの狙いは雑草の直接除去ではなく、主に雑草発生の抑制。
スクリューで泥を巻き上げることによって水を濁らせ、雑草を発芽させにくくするというロジック(実は合鴨の水掻きにもその効果が)。
電源はソーラーパネルの自己完結型で、設定したコースをぐるぐる。
解説ではドローンによる近赤外線の画像も使っての雑草分布のデータ解析やら、もはや素人には全く分からない領域も。

そして米作の主役。トラクターではなく、クボタのアグリロボ。
重層化された苗をのせたトレーは、武装強化のフルパッケージ化されたガンダムのよう。もちろんGPSは装備、モニターの映像では自動運転の姿も。
もはや空を飛ぶのもそう遠くない未来でしょう。クボタなら。
細かな手入れや工夫の積み重ねをお米の高品質につなげてきた日本。
少ない人数でいかに大きな田んぼに対応できるかが今後の重要課題。
21世紀の出羽の国で目の当たりにした最先端テクノロジー。
菅江真澄

県立美術館での白眉は、別室となっている菅江真澄資料センター。
ただし展示室内は撮影不可(涙)


菅江真澄(1754-1829)は旅する絵描き兼本草学者、三河の人。
例えるならば司馬遼太郎と須田剋太と安野光雅が合体したような人。
つまりはワンオペ街道をゆく。
現代には写真がありますが、当時は絵心(技術とセンス)が大きな武器。
そして観察力に文章力も兼ね備えた真澄さん。
真澄さんが旅したのは故郷三河から、信濃、越後、出羽、陸奥、蝦夷。
そして多くの著作を残しています。
再訪した秋田では殿様から許可を得て、領内の風俗や景色を調査。
その成果は菅江真澄遊覧記として献上しています。
真澄さん終焉の地は角館。
県立博物館には遊覧記89冊(重要文化財)が寄託されています。

街道をゆくシリーズの秋田県散歩では、司馬さんは実際に真澄の足跡を辿っています。自身を重ね合わせていたのでしょうか?
最後に分館を。
分館:旧奈良家住宅

そこには真澄さんも司馬さんも訪れた旧奈良家住宅(実は分館)。
本館からは徒歩10分ほどの距離、男潟の北側にあります。
現存するのは宝暦年間(1760年頃)に9代奈良喜兵衛が建てた、秋田の典型的農家建築(重要文化財)。


土間に囲炉裏がある建物を見るのは初めてかも。隣には馬屋。
冬は寒そうですが、囲炉裏の上部には奉公人の寝床をレイアウト。合理的!

家族用の囲炉裏があるのは「おえ」。いわゆるLDか?

上座敷は今も一般人の入室不可エリア、VIP用。
座敷の外側には室内化した縁側空間があります。おそらく防寒対策。
また敷地内には秋田行幸時の明治天皇休憩所(ほぼ書院のような建物)が移築されています。
博物館の周辺はクマが出没しても不思議のない雰囲気がぷんぷんでしたが、何のトラブルもなく終了した秋田県散歩龍造寺編。
そしてコメの都・秋田で開眼したのは最先端の米作り。
古いモノを収集して研究する県立博物館が、最先端テクノロジーのデモ会場になれば画期的かも。しかも対応できる自治体は自ずと米どころに限定。

