前田行徳会創立百周年、加賀百万石の現在地!【加賀前田家:東京国立博物館】東京都台東区
尾張の土豪からはじまり江戸時代には徳川将軍家に次ぐ大名(オフィシャル石高ランク)となったのが加賀前田家。幕末こそ存在感は低目な印象ですが、元国持大名の経済力は昭和期でも有数の存在でした。
また織田信長麾下の武力によって成り上がった前田家は、文化力についても時代に合わせ重層化したトップランカーに。
大名家特別展といえば、かつての領国で定期的に開催されるのが定番。
今回の記録は江戸・トーハクでの特別展です。

会場はトーハクの平成館。
東京都台東区上野公園13-9
幕末の加賀藩は大藩ゆえか動きが鈍く、時流にうまく乗れていません。
西国の雄藩(薩長土肥)と比較すると、対応がどっち付かずな印象。
しかし没落していく士族が少なくなかった明治維新後の日本。
前田家当主は潤沢な経済力と磨き上げた美意識を生かして、積極的に伝来の道具類や美術品を保護するスタンスを主張し始めます。

百万石!加賀前田家展

2026年4月-6月 @トーハク
撮影は最後の展示室のみOKという今時な設定。まあこの規模で撮影可能エリアが広ければ、収拾つかなくなる状況は容易に想像できます。
その最後に設定された展示室は、明治以降の当主によるコレクション展示。
16代当主利為の収集品や文庫設立関連の資料類が並びます。
ただしどちらかと言えば、国立西洋美術館の方がしっくりとくる品々が。

前田利為(1885-1942)は、公益法人育徳財団(現在の前田育徳会)を設立した人。契機となったのは貴重な資料が多く失われた関東大震災。
利為は資金(コレクションの一部を売立)を基にした財団によって、後世に前田家の宝物群を伝えようとします。

展示される西洋画はヨーロッパ滞在中の利為が買い付けた作品や、明治天皇の前田邸行幸に備えて国内で購入されたもの。
展示品にはルイ14世の書状というより書簡が。
ロンドンの古書店での入手品。

ルイ14世(1638-1715年)はフランスの王様で、太陽王と呼ばれた人。
特別展のキーマン前田綱紀(1643-1724)と同じころの人。
シロクマは、フランソワ・ポンポン(フランス:1855-1933)の代表作。

ポンポンはロダンの助手から独立した彫刻家。シロクマは生涯13体を制作。
パリの美術館でシロクマを見かけた利為。シロクマとバン(鷭)は、ポンポンのアトリエを訪れて直接オーダーしています。駒場邸洋館のインテリア。
こちらがバン(1930年)。

実は前田利為関連の展示は、2021年に目黒区美術館で開催されています。
企画展自体は記憶がありませんが、後になって図録だけ入手しています。

発行・編集:目黒区美術館
2021年 63ページ
まだ在庫があるようなので、美術館では入手可能の模様。
では撮影不可エリアの展示はというと・・・
冒頭は初代の前田利家から歴代藩主の具足類に陣羽織がズラズラっと。
圧倒的物量による威嚇的な展示からスタート。
ただ冷静に考えると戦場に臨んだのは、前田家ではせいぜい3代目まで。
ある意味それ以降はファッションアイテム化した工芸品です。
続いては前田家伝来の書跡や絵画、さらにこちらも美術品あるいは贈答品と化した刀剣類や名物茶道具といった豪華な面々。
そして現代へと続く前田家の「文」の核心となる工芸品が、これでもかと並びます。国宝と表示される展示品も尋常な数ではありません。
ただふと所蔵先を見ていると、「トーハク所蔵品」も多く確認できます。
という事で、過去に常設展示でピックアップしてきた写真を中心に、前田家と展示品をコンパクトに再現します。
前田家の人々
まずは前田家草創期の人々。初代前田利家(1539-1599)の肖像画から。
通常本館での武将の肖像画は、第15室が定位置。
大体がゆかりの書状とのセットで展示されます。
この肖像画は特別展に先行して2月の展示。実は前振りだったか?

特別展でも異なる利家像が展示されていましたが、こちらも比較的よく見かける肖像画。1929年頃の模本ですが、晩年の姿が描かれています。
続いて展示室の入口に鎮座していた黄金色の兜(利家所用)。

傾奇者として知られる利家自慢のアイテムです。
槍使いとしてブイブイ言わせていた若い頃の初代の雄姿は、金沢から。

モチーフは織田信長(1534-1582)の母衣衆時代と思われます。
まさに「槍の又左」の頃。若い頃から豊臣秀吉(1537-1598)とは懇意。
続いては利家の長男で2代目の利長(初代藩主:1562-1614)像。
秀吉、続いて父が没すると、タヌキ親爺(徳川家康)のせいで前田家の舵取りに苦心した人。

利長の正室は信長の娘永姫(玉泉院:1574-1623)。
利長も写真のように利家と似たデザインの兜を使用していましたが、彼はシブ目の銀をチョイス。特別展にも現本が出展。
特別展ではなく本館展示だったのは菊姫像(模本:原本は西教寺蔵)。
利家肖像画の展示替えで、15室に出現。

菊姫(1578-84)は利家の6女(利長妹)。
西教寺(滋賀県大津市)は信長の比叡山焼き討ちで焼失したお寺。
明智光秀が再興を手助けしたと言われ、境内には光秀の供養塔も。
どういう経緯か利家の娘は本能寺の変後に西教寺に葬られています。
そして利長、菊姫の弟が3代目となる前田利常(1594-1658)。
兄・利長の跡を継ぎ、兄以上の困難な状況に対応して前田家の基礎を固めた人。鼻毛の殿様として知られています。

利常の正室は珠姫(2代将軍徳川秀忠の娘:1599-1622)。姉は豊臣秀頼正室、弟は3代将軍、末妹は後水尾天皇中宮という超強力な血筋です。
利常夫婦は子沢山で仲が良かったそうですが、珠姫は若くして亡くなっています。加えて後継となった4代光高はその血筋から将軍家との良好な関係・役割を期待されましたが、彼は父の利常より早く亡くなってしまいます。
隠居していた利常は、この大ピンチの状況下で幼い5代綱紀(1643-1724)を後見する事に。
この利常の書状は、隠居先だった石川県小松市に伝来するモノ。

光高の急逝により、幕府の許可を得て家督を無事継承した3歳の綱紀。
後見として藩政に復帰した利常から、その事を娘の富姫(光高の同母妹)へ伝えたと思われる書状です(形式は富姫家老宛)。まずは親子で一安心。
前田家ゆかりの物件情報も。
加賀、能登、越中を領有した前田家歴代の居城といえば金沢城。

お城は現在も復元工事が進行中。
豊臣カラーではなく白壁&なまこ壁の建築物が増殖中。
続いて成巽閣(重要文化財)。
12代藩主前田斉泰が母のために兼六園そばに建てた豪華すぎる隠居所。

建築としても見所は豊富、ブルーが強烈な群青の間が著名。
また前田育徳会の寄託品を展示する博物館的な機能も併せ持ちます。
加えて成尊閣のそばにある石川県立美術館には、前田家伝来品を展示する尊経閣文庫分館が設置されています。見学するならセットがお得。
江戸に戻って、御存じ東京大学の赤門は江戸期の前田家上屋敷の門の1つ。

赤門は1827年に溶姫(11代将軍徳川家斉の娘)が12代藩主斉泰への嫁入り時に建てられた朱塗りの御守殿門。
前田家歴代のコレクション
特別展の刀剣部門で展示されていたのは、短刀相州行光(国宝)。

行光は相州鍛冶でその代表作。
本阿弥光忠が1,500貫と代付した折紙が付属しています。
もう一振、短刀左安吉(名物一柳安吉:重要文化財)。

安吉は筑前の名工左文字の子とされる刀工。
名前の由来は豊臣秀吉の家臣だった一柳直盛が所持した事から。
正直、刀剣類はキャプションがないと見分けがつきません。
近年人気が上昇しているカテゴリー。
続いて、文の力の展示品たち。
賢愚経残巻(大聖武)は、前田家所蔵の大聖武とともに、前田家旧蔵のトーハク所蔵品も展示。

賢愚経は聖武天皇が写経し、東大寺戒檀院にあった伝わる経典(16 or 17巻)。分割された断簡もいくつか伝わり、解説には手鏡(書の名品カタログ)の冒頭を飾る書跡と。手鏡をいくつか調べてみましたが、確かに最初のページに貼付けてあります。
またトーハクは、大聖武断簡もいくつかお持ちのようです。

法隆寺館での展示も

続いては古今和歌集(元永本)上帖(国宝)。
前田家の名品土佐日記と同じく、その第一印象は「小さい!」
特別展には前田家の古今和歌集 清輔本(国宝)と揃い踏み。

元永本は日本最初の勅撰和歌集を書写した調度手本(贈答用の本)。
藤原定実が筆者とされる仮名序と和歌20巻が揃った日本最古の写本です。
元永本の由来は元永3年(1120年)の奥書から。
尾張徳川家、前田家、三井高安と伝来。

元永本は本館国宝室にポツンとただ1冊展示されていた事もありました。
あの展示室にただ1冊という、印象的かつ贅沢な空間の使い方。
写真は2024年と2025年時の展示。トーハクでは年1回はおでましか?
平安時代が続きます。
特別展での万葉集展示は、当然の金沢本(国宝)。
トーハク所蔵品からのその代打は、
元暦校本万葉集 巻一&巻十(古河本)そして巻十九(高松宮本)

万葉集は現存する日本最古の歌集。元暦校本は五大万葉集の1つ。
その呼び名は、1184年(元暦元年)に他の本と異同を照らし合わせ(校合)した事から。古河家旧蔵の14冊と高松宮家旧蔵の6冊からなり、平安時代の書の巧みな人10名により書写。
ちなみに五大万葉集は他に、
・桂宮本
・藍紙本
・天治本
があります。トーハクにはいくつかの断簡も所蔵されています。
その1:万葉集切 藍紙本。藍の繊維を全体に漉き込でいるのが特徴。

藤原伊房筆の巻九断簡で、京都国立博物館蔵の巻九残巻は国宝指定。
その2:万葉集切 天治本からは2首。
名前の由来は1124年(天治元年)の奥書から。
こちらは藤原忠家(1033-1091)筆と伝わる断簡。

もう1首は藤原基俊(1060-1142)筆と伝わる断簡。

トーハク各所では、けっこうな数のミニ企画展が静かに行われています。
今回の特別展のような機会は、トーハク収蔵品が線でつながる事にも。
ただ和歌の道はかなり険しそう。書いてある内容がメモリーできません。
最後の和歌は、日本橋の美術館から出品されていたもの。
小倉色紙「うかりける」は、藤原定家筆で歌は源俊頼。
所蔵は三井記念美術館。

前田利家や伊達政宗所持のヒストリーを持ち、三井北家に伝来。
武野紹鴎(1502-1555)が茶会で床に掛けたのを機に、小倉色紙は茶席の花形になったそうです。
前田家が北陸に残した文化
さて現在の工芸王国・金沢の種をまいたのは藩主だった前田家。
歴代藩主の中には、そんな珠玉の工芸品をアーカイブした人も。
それが祖父利常の後見を受けつつ4代藩主(前田家5代)となった、先ほどの綱紀。特別展では下村観山による肖像画を展示。
彼の工芸コレクションは「百工比照」として知られています。
ちなみに百工比照の図録は、1993年に石川県立美術館(金沢市)から発行されています。

発行・編集:石川県立美術館
2021年 121ページ
現在は再発行版(2021年)が美術館で販売中。図録な図録です。
また綱紀は工芸だけではなく、書物も数多く収集、編纂。その成果を新井白石(幕府朱子学者)は「加賀藩は天下の書府」と絶賛。
特別展では第4章エリアでの展示です。
そして最終・第5章が、冒頭に紹介した明治以降の前田家の記録。
また特別展に連動して、特別会場では能や狂言も催されています。

2026年4月-6月 @トーハク本館
重要文化財の能面を使用し、人間国宝も演じるという本格派イベントは、展示とリンクした体験型で興味深い(料金設定もパンチあり)。

ちなみに2023年の本館では、加賀藩の支藩大聖寺藩に伝わった能面コレクションがミニ企画展で展示されていた事も。
今考えると、これも特別展の壮大な前振り。

平成館休憩エリアと能舞台入口には、ここ数年よく見かける刀剣乱舞とのコラボ企画(パネル設置)もわずかに。展示室内にパネル類を持ち込まないのは、フィクションに対するトーハク学芸員の矜持か?
近代前田家が残している文化
明治維新後に残された前田家を体感できる場所はというと・・・
尾山神社は明治期に卯辰山麓から金沢市中心部に遷座(改名)された神社。
祀神は初代利家とその正室まつ。

神門は和漢洋のミックスデザイン(重要文化財)。夜間のステンドグラス部は点灯し、かつては船からの目印に。また避雷針は日本最古。
実は東京にもそのエッセンスがあります(平成期の設置)。
板橋区は加賀藩江戸下屋敷があった縁から、金沢市とは友好交流都市に。

その藩邸跡にある加賀公園には、尾山神社神門のステンドグラスをモチーフとしたモニュメントが地味に鎮座しています。
最後に忘れてはいけないのが、旧上屋敷のあった本郷から駒場に引っ越し、16代利為が築いた前田邸。

洋館は高橋貞太郎の設計により1929年完成(重要文化財)。
太平洋戦争後にはGHQに接収されましたが、現在は駒場公園で無料公開されています。


壁には特別展にも出品されていた菊子肖像画(たぶんレプリカ)。
肖像画は利為が夫人のために、パリでM・バッシェにオーダーしたもの。

特別展では利為による手鑑や武家手鑑に加え、ヨーロッパの著名人による書簡が種々並んでいました。
こうして考えてみると、あれは利為流の欧州手鑑だった気がします。

旧公爵邸は部屋によって壁紙がカラフルに変化。


和館は主に外国からの賓客用。1930年の完成(重要文化財)。



洋館・和館ともに見学無料ですが、利用状況によって見学できないケースもあるようです。別料金で貸出利用も可能。
駒場公園の門そばにあるのが前田育徳会本部(尊経閣文庫)。

一般人は立ち入りできないようになっていますが、研究者には門戸が開いているようです。
特別展では「育徳財団 設立許可書」も展示。
1926年文部省により許可・発行された書類です。
発行年の1926年のほとんどは大正15年ですが、わずか7日間は昭和元年!

全ての展示品や前田家関連場所まで網羅・紹介しているのがこの図録。

発行:NHK、NHKプロモーション、読売新聞社
編集:上記3社、トーハク、前田育徳会
2026年 467ページ!
コラムも充実している前田ファン(歴史系&美術系)必携の1冊です。
ただし持って帰るには躊躇するのが、そのサイズとボリューム。
持って帰りましたけど。
先に触れましたが、金沢城では二の丸御殿の復元工事(第1期:御殿本体工事)を2026年4月に着手しています。完成予定は2033年予定。
その規模や残された資料類からすると、名古屋城や熊本城の復元御殿よりもかなりヤバいレベルでの出現が予想されます。
その頃の前田家や金沢の町が、歴史研究の進歩とともにどう変貌あるいは不易を貫くのか興味は尽きません。

