碧い目の太郎冠者と渡辺崋山:田原市博物館 愛知県田原市
世界的自動車メーカートヨタとその関連メーカーが林立する三河地方。
日本を牽引する工業地帯ですが、その中にあって農業生産額では日本のトップランカーという稀有な存在が田原市。野菜や花卉栽培で知られています。
小田原(神奈川)でもなく、大田原(栃木)でもありません。
人口は愛知県内ではやや規模小さめの58,000人。
市域は愛知県の防波堤のような渥美半島の大半。
そして渥美半島と中部国際空港のある知多半島とで囲まれるのが三河湾。
ちなみに田原にもトヨタの工場はあります(レクサス担当で埠頭あり)。
広大な田畑が広がる渥美半島ですが、季節によっては臭いがスゴイことになっていた事も(たぶん堆肥のせい)。
地理的に田原市は、大動脈の国道1号や23号線、JR東海道本線より南西側に位置しています。つまり観光等で偶然立ち寄る可能性は非常に少ないと思われる市。なぜならその先にあるのは伊良湖岬のどんつき。
ただ渥美半島の太平洋側を走る42号線は、伊良湖岬から海を越えて三重志摩に至り、和歌山まで繋がる壮大な国道。

田原市博物館

田原市博物館は、田原城二ノ丸跡に1993年開館した公立ミュージアム。
渡辺崋山や椿椿山の企画展を目玉とし、所蔵する崋山関係の資料類は一括して重要文化財に指定されています。おそらく地域の誇り。

田原城は1480年ごろに戸田宗光よって築かれたお城。
当時豊橋周辺を勢力下に置き、三河湾の海運を掌握していた国人衆。
戦国期には今川氏や松平氏と争いましたが、徳川家康に臣従した系統は大名として幕末まで存続しています。
ちなみにかつての戸田氏には、幼かった家康(竹千代時代)を織田家に売り払った悪党エピソードもありましたが、研究が進んだ現在では諸説ありのレベルになっています。

江戸初期に田原城に入ったのが三宅氏。田原藩は12,000石という大名ギリギリの小藩ですが、なぜかの城持ち大名格という希少な存在です。
また江戸屋敷は名字が由来となる三宅坂(現最高裁判所)にありました。
田原藩を深堀りしたい方にはこちら。
殿様より家老を前面に押し出しているレアな藩です。

お城には立派な濠や石垣が残っていますが、建物は明治期に破却。
桜門(1992年)や二の丸櫓(1957年:現在は展示施設)は復興建築です。




博物館は完全にお城の一部と化しています。
ただし展示される所蔵品は、歴史系にとどまらず多くの美術系も。
愛知県田原市田原町巴江11-1

訪問時の企画展はもちろんの渡辺崋山。
ただドナルド・キーンとの関係は知らないまま展示室へ。

展示室内は撮影不可だったので、参考写真をあちこちからチョイス。
一部展示されていた作品も含まれますが、写真は別の場所での撮影。

2023年10月-12月 @田原市立博物館
ドナルド・キーンという人
ドナルド・キーン(1922-2019)はアメリカ生まれの日本文学作家。
アメリカ海軍日本語学校に学び、太平洋戦争中は日本人捕虜の尋問や日本語文書の翻訳作業に従事(当時、来日経験あり)。
終戦後にはコロンビア大学、ハーバード大学で日本文学を研究。またヨーロッパに渡ってのケンブリッジ大学院でも。
1953年には京都大学大学院に留学のため、再び日本へ。
研究のかたわら、茂山千之丞による狂言指導を受け、来日外国人の寺院ガイド役も務めたそうです。
また三島由紀夫や谷崎潤一郎、川端康成といった著名作家とも交流。
キーンさんは実際に狂言の演者経験もあり、そこから「青い目のサムライ」ならぬ「碧い目の太郎冠者」と称されたそうです(同名の著作あり)。
文学には疎く、キーンさんの著作を読んだのは「足利義政と銀閣寺」(中公文庫)の1冊のみ。中央公論に連載されたのは2001年と随分古い話で、文庫本の発刊も2008年。かつ読んだのはリアルタイムではありません。
その1冊は外国人による足利義政と彼の築き上げた文化についての考察。
主人公足利義政(1436-1490)は応仁の乱の主要キャストの1人。
ダメダメ将軍として知られていますが、文化面での功績は間違いなく室町期のトップランカー。
その序文には、若きキーンさんが度々訪れた等持院が記されています。
当時は荒れ果てたボロ寺で、静寂を求めての事だそうで。
等持院は足利将軍家の菩提所であり、開山は夢窓疎石。
お寺に関わった人々は有名人なのですが、数年前でもキーンさんが訪れた頃と変わらない参拝客の少なさが印象的でした(現在どうなのかは不明)。


足利歴代将軍の13体の木像(プラス徳川家康)が安置された霊光殿のくだりを読んだ時には、似たような印象を受けていた事もあり、頭の片隅に残っていたのが著者のドナルド・キーン。
外国人にこういう形で日本の歴史を教えられた経験は、そうありません。

2012年には日本国籍を取得し、キーン ドナルドになります。
また漢字表記では鬼・怒鳴門。フツーにヤンキー的な当て字。
ちなみにキーンさんはリアルヤンキー(ニューヨーク生まれ)。
「夜露死苦」を理解できたかどうかは定かではありません。
展示ではキーンさんの著作や幅広い交友関係をうかがわせるスナップ写真が多数。その著作の中には渡辺崋山の伝記もあり、その縁で2017年に田原市博物館の名誉館長に就任していたという事実を知ります。
渡辺崋山という人
一方、田原での主役はやはり 渡辺崋山(登:1793-1841)。
田原藩の家老を務め蘭学にも通じ、学問は昌平坂学問所で佐藤一斎に、絵画は幕府お抱え絵師の谷文晁に学んだ才能豊かな人。
また苦しかった家計を助けるため画業を副業とした苦労人。
代表作は古河藩家老を描いた鷹見泉石の肖像画(国宝:トーハク蔵)。
ちなみに谷文晁(1763-1841)の弟子には
高久靄厓(1796-1843)
田能村竹田(1777-1835)
田崎草雲(1815-1898)
鍬形蕙斎(北尾政美:1764-1824)
といった錚々たるミュージアムの常連メンバーが(ほかにも多数)。
田原における崋山の功績の1つは、義倉の備え(報民倉)による天明の大飢饉時の藩内の餓死者ゼロ。
蘭学とは海防研究で出会い、内容に鎖国批判が含まれる「慎機論」を執筆したことから蛮社の獄で幕府に捕らえられ、田原に蟄居。
幽閉先で藩主に咎が及ぶのを避けるため自刃。
明維維新後には蛮社の獄での罪科は釈免されています。
それでは崋山作品を何点か。
図譜的な游魚図(重要文化財:1840年)は、自刃前年の作品。

蟄居中の作品は幕府を憚り制作年次を遡って記しているそうです。
企画展でも展示されていたこの作品は、静嘉堂文庫から。
続いて、佐藤一斎像画稿(下絵:第3から第7まで)。
企画展では第2と第11が展示されていました。

佐藤一斎(1772-1859)は、3,000人の門人を抱えていたという幕府の儒学者で、崋山の師匠の1人。
下絵スケッチは少なくとも11点あるとされ、確認されている現存品は7点。
その完成形となるのが佐藤一斎像(重要文化財:1821年)。

国宝の鷹見泉石象と同じくトーハクの所蔵品。
写実的な表現は崋山による技巧の到達点。
こちらの芸妓図(1838年)は、崋山から弟子へのプレゼント。

游魚図と同じく岩崎コレクション。企画展でも展示。
栃木・足利周辺で目にする機会の多いのが、崋山や兄弟弟子たちの作品群。
崋山の妹が群馬・桐生に嫁いでいる事や、高久や田崎はこの辺りに所縁があるのがその理由でしょうか。また鷹見泉石を擁した古河藩も至近。
捕えられた崋山の釈免を求めて彼らのネットワークが残した文書類も多数。
風竹図(1838年)は栃木佐野の酒造家吉澤松堂のために描いた大作。

松堂はこの風竹図を手本にして、画(賛は高久靄厓)を描いています。
月下鳴機図(1841年)は蟄居中最晩年と考えられる作品。
再びの岩崎コレクションですが、こちらは企画展では未展示。

静嘉堂文庫に所蔵されている崋山作品は「未来の国宝展」からチョイス。
曜変天目と同じ展示室にズラリと掛けられていましたが、月下鳴機図は岩崎小彌太の写しと並べての展示でした。お気に入りの絵師か?
最後の十友双雀図(1826年)は、リアルな描写で図譜的な作品。

職業画家ではなく文人画家でこのクオリティ。
生活の足しにするにはスゴ技過ぎます。
ちなみにトーハクでは、書も含めて目にする機会の多い崋山。
展示の図録は博物館で販売中(今のところ)。

発行:2023年 71ページ
田原市博物館
展示されていた崋山の弟子椿椿山(1801-1854)による渡辺崋山像(重要文化財:田原市博物館蔵)も図録にはもちろん掲載。
佐藤一斎像同様に数種の画稿やほぼ完成品も。
ちなみに画稿やほぼ完成品でも重要文化財指定されています。
崋山&椿山関係の図録は、売切&絶版のケースが目立つので興味のある方はお早めに(通販OK)。
最期の地と菩提寺
市内には崋山ゆかりの場所も残されています。
博物館からはそれほど遠くはないので併せて。

崋山が蟄居した池之原は、お城の西側にあります。現在は公園の一角。
建物は1955年に復元され、銅像も建立されています。
椿椿山筆の肖像画よりも、やや若い印象の崋山先生。

田原の子供たちは崋山の功績を学ぶのが必須だそうです。
また崋山関係の解説板には、「崋山先生」と記されるのが基本。
崋山の全国的な知名度は分かりませんが、お殿様ではないけれども地域特有の歴史・思想・芸術の面で語り継がれる人は希少コンテンツ。
最後は菩提寺。

城宝寺はお城の南側、豊鉄渥美線の三河田原駅のすぐそばに。


崋山を中心に母と室、そして小崋夫妻が眠っています。
小崋は崋山の子で、彼もまた藩の家老となり書画に秀でた人。師は椿山。
伝統的な日本文化をバックボーンにしつつ西洋の思想や技術を自らに取り入れようとした崋山。一方、西洋文化をバックボーンに日本文化を表層ではなく精神レベルまで探求したキーン。
江戸や昭和期と比較すれば世界とのアクセスは格段に容易になりましたが、多様な視点や知見を我がモノにできるかどうかは本人次第。
崋山とキーンの展示は良い刺激に。
浜松(以東を含む)と伊勢志摩間を自走するなら、王道の経路は東名高速と伊勢湾岸道・伊勢道でしょう。寄道スポットも豊富です。
ただ旅程のオプションとしては、伊勢志摩と渥美半島をフェリーで結ぶ経路も悪くはありません。この時田原に立ち寄ったのはその途中。
そのフェリーにはアジア系20名ほどの観光グループも乗船していましたが、外国人がそういう使い方をしていたのも目からウロコ。
意外と時間・コストの両面で有効なのかも。

