京都の町を静かに見下ろす太閤さん!【豊国神社&豊国廟】 京都府京都市
日本各地の町にはそれぞれの歴史があり、知名度の差こそあっても何かしら見るべきものが残っています。
中でも都だった歴史を持つ京都は、見所が重層的なうえに密集具合が突出。
インバウンド問題のピークアウトもいつになるのか分かりませんが、「京都の鉄板観光地を回避する日本人観光客」という興味深い報道もあります。
個人的にはそれはそれで良い傾向かと。
重層的な歴史の軸は、やはり寺社関係でしょう。なんだかんだで宗教は文化を集積し、栄枯盛衰を経験しつつ現代に至っています。
以前に京都国立博物館を記録しましたが、今回もその周辺。
車で移動すれば、交差点での左折時には歩行者が途切れず少しウンザリする事もありますが、不思議と駐車にはそれほど困った記憶のないエリア。

豊国神社
豊国神社は京都国立博物館の北側に位置しています。
境内は一部エリアが有料。

旧方広寺大仏殿跡地にあり、地元の人からは「ほうこくさん」と。
源流は、現在の豊国神社からずーっと東にある阿弥陀ヶ峯。
そこは豊臣秀吉(1537-1598)が1598年に葬られた場所。
元々の社殿はその中腹太閤坦にありましたが、大坂落城後に次代の天下人となった徳川家康の手によって非情にも破却されています。

しかし260年後に徳川幕府から政権が返上されると、明治天皇により神社復活の命が下ります。現在地に別格官幣社として復興されたのは1880年。
歴史としては400年ほどですが、その半分はスリープ状態という珍しさ。
豊国神社は京都が本社、大阪が別社の位置付け。
京都府京都市東山区茶屋町530
復活しても祭神は当然の豊臣秀吉。
織田信長の覇業を継いで戦国時代をとりあえず終息、日ノ本を統一した人。
また関白にも就任して、朝廷も掌握しています。

京都の都市計画にも大きな影響を残し、その遺構は市内にあちこち。

唐門(国宝)は伏見城の遺構で、豪壮な桃山時代の王道建築。
豊国大明神の扁額は旧豊国社の伝来で、後陽成天皇による御宸翰。

後陽成天皇は秀吉による聚楽第行幸時の天皇で、朝鮮出兵に対してはネガティブな考えだった方。
また関ヶ原の戦いでは和歌の古今伝授が絶える事を避けるために、丹後田辺に籠城していた細川幽斎を勅命をもって助けています。

秀吉さんへのご参拝は唐門から。

神社の北側には、豊臣家が滅亡する要因となったあの鐘があります。
方広寺の鐘
方広寺は、豊臣秀吉により建立された巨大な大仏殿のあったお寺。
大仏は日本最大約48mもの高さを誇りました。
慶長の大地震や昭和期の火災によって焼失しています。

こちらが問題の鐘楼。
秀吉の後継者秀頼(1593-1615)が大仏殿再建時に奉納したモノですが、今も健在。

天井にも華やかな絵画が。

鐘には銘文が刻まれていますが、白くマーキングされた「国家安康」と「君臣豊楽」がトラブルの発火点。

「家康の名前を分断することで徳川家への呪詛の意味を持たせ、豊臣家を持ち上げるという意図の隠れ構文なのでは?」
と嫁の父親から思いっきりな難癖をつけられた豊臣秀頼。
結果、大坂城は炎上するハメにというのが教科書にも記される歴史。
豊国神社には長い間荒れ果てていた割には、けっこうなお宝が再び集まっています。
豊国神社宝物館

そのお宝たちを見学できるのは、かなり年季の入った1925年開館の宝物館。
唐門には青龍がいましたが、宝物館前には白虎。

キョーハクのトラりんより、キリッと精悍な表情。
首の瓢箪は、ややベタなチョイスのアクセサリー。

館内には鉄板の具足や刀剣類がいくつか。
刀剣の白眉は、明治維新後に奉納された骨喰藤四郎(重要文化財)。

書状もいくつか。
ただし解説がザックリしすぎで、内容が不明なもの多し。
秀吉から政所宛ての書状。

「秀吉」と「まんどころ」しか読めません。
おね(高台院:秀吉正室)から八条宮に宛てられた礼状。

八条宮とは、後陽成天皇の弟智仁親王(1579-1629)。
和歌では細川幽斎の弟子の1人で、田辺籠城時には使者を遣わせています。
後に幽斎から古今伝授を受けている人。また当時の文化サロン桂離宮の基礎を築いています。
秀吉の猶子となり、将来は関白のはずが・・・
宝物館内で一際目立つのが、狩野内膳筆の豊国祭礼図屏風(1606年)。

内膳は肥前名護屋城の障壁画制作にも参加した狩野派の人。
屏風は1604年に行われた秀吉七回忌の祭礼を描いたモノで、展示は左隻。
秀頼が片桐且元に命じて製作させた逸品(重要文化財)。
祭礼では大仮装パーティーが繰り広げられています。
パンフには屏風図から竹の子の着ぐるみを探せというウォーリー風な指令。
続いて秀吉を描いた作品を2点。描いたのは富岡鉄斎、文人画の人。
1点目は茶を点てる秀吉。薄く千利休らしき人が。

もう1点は、秀吉とおねの三々九度の儀を描いた作品。
やはり字が読めず。

神社周辺には強力な観光スポットが群雄割拠しています。
一部観光客も流れてきますが、それほど混み合うほどでもない豊国神社。
ただし目玉となるのは、やはり豊国廟。

豊国神社から廟までは、東へ約1.5km(直線距離で)。
それ程遠くはありませんが、求められるのはあなたのフィットネス。
廟の入口まではゆるやかな上り坂です。

豊国廟

豊国廟には阿弥陀ヶ峯に復活した秀吉の墓となる五輪の石塔があります。
徳川家康に破却され荒れ果てたままだったかつての墓所は、1898年の秀吉300年忌に再整備されました。

途中、京都女子大学の脇を通りますが、その先に廟所駐車場も完備。
入口のスタッフに目的地を告げると、駐車場の場所を教えてくれます。
大学職員の駐車場(たぶん)が隣接していて惑わされますが、参拝者用は参道の脇エリア。
そして拝殿で登拝料を納めたら、「猿に注意」の看板を横目に自分のペースで登ります。

約500段の階段をただひたすら。朝一番だったので、他に人の姿はなし。
真に試される自身の脚力と持久力。

約300段を駆け上がると平地になり、なにやら見えてきます。

唐破風の中門です。かすかに頂上も視界に入ってきています。

ちなみにここまでの道のりは木に囲まれていて、景色は単調な森の中。
一気にゴール地点へと出ると、それらしき五輪塔が鎮座。

非常に立派な五輪塔。
設計はまさかの伊東忠太(1867-1954)。
武田や上杉の神社、そして東京では西本願寺と秀吉のかつてのライバルたちゆかりの建物を手掛けた建築家。

ぐるりと見渡すと、北側に京都市内を望めるエリアが。
見分けられるのは、特徴的な縣造りの舞台をもつ清水寺。

拡大可能ですが、スマホ写真ではこれが限界。
一休みして下りもテンポよく。
と思ったら、やや不規則なリズムが刻まれた階段。

おまけに結構な急勾配。
怯む事なく一定のテンポでスタスタ下ります。

拝殿まで戻ると駐車場のおじさんが、いろいろと小ネタを。
「清水寺は見えた?」と聞かれ、
「はい」と答えると、
「あそこの木を切って見えるように整備しているのは自分!」と。
ただの駐車場係ではありません。
また「こちらから清水寺を見えるようにしているのではなく、おねさんが豊国廟を見えるようにしてるんだよ」とも。
地図で確認すると、清水寺のさらに向こうには高台寺。
実際、高台院の御霊屋は豊国廟に向かって建てられています。
グッジョブ駐車場係!

授与所(兼おじさんの待機所)には、インバウンドにも分かり易いハンドメイドなインフォメーションがさりげなく。
階段の段数に加え、英語での案内とプチ情報が。
清水寺・高台寺方面の説明には「The view is good」、「amazing」と。
「外国人観光客もここに来ます?」と聞くと、
「下の富裕層が泊まるホテルから結構散歩しに来る!」そうです。
おそらくハイアット・リージェンシーやフォーシーズンズあたりか。
思いのほか京都を堪能している彼ら。
ちなみに階段は、近所の高校生が上り下りするトレーニング利用も。
猛者は3往復程こなすらしい。
おじさん曰く「3往復はヒザいわすからイカン」。
膝は大丈夫でしたが、スタスタ下りたせいか翌日ふくらはぎにはダメージ。
最後に押さえておきたい別のお墓を。拝殿のそばにあります。

大きな方は松丸殿(京極龍子:?-1634:秀吉の側室)。
小さな方は秀頼の庶子国松(1608-1615:秀吉の孫)。
共にもともと埋葬されていた誓願寺から移されたお墓。

国松は大坂落城後に徳川家に捕らえられ、京都六条河原で斬首された人。
享年8才という年齢でしたが、戦国時代の終焉には必要だった戦後処理。
またそういう決断においては非情になりきれるのが家康。
そして国松の遺骸を引き取って、誓願寺に埋葬したのが松丸殿。
急速に成長した組織は、急速に衰退すると言われます。
残念ながらその道筋をたどってしまった豊臣家。
日本全国を転戦した秀吉の最終的なホームタウンは京都。
安土・桃山文化という独特な美意識も作り出し、京都での人気は信長や家康を上回っています(たぶん)。
派手好きで知られた秀吉ですが、その永眠の地は思いのほか静寂。

