黒田侯爵家の名品と思いきや、藩祖からの黒田家全員集合 福岡市博物館 福岡県福岡市
江戸時代の日本は幕府の鎖国政策によって基本外国との交流は禁じられていました。例外が長崎(オランダ)、対馬(朝鮮)、琉球(薩摩:中国)、そして蝦夷(アイヌ)の4つのチャンネル。
日本の歴史を俯瞰してみると筑前博多は長い間、大陸や半島の文化を受け入れた窓口でした。その権益を求めて勢力争いも多々。
ちなみに博多にはうどん・そば発祥の地(承天寺:饅頭も)がありますが、讃岐の人には決して受け入れられない伝承(諸説あり)。
そして現代においても福岡はアジアの玄関口を標榜しています。
福岡市の人口は165万人、九州最大の都市。人口は微増傾向のようで人口減少に悩まされない数少ない自治体の1つ。東日本大震災で福島原発が悲惨な状況に陥った時には、福岡に本社機能を移転・分散した企業がニュースになっていました。
ただ移住者がインタビューで「福岡は原発の心配がないから安心です」と答えていたのは妙に記憶に残っています(玄海原発は福岡市とは直線距離で50km程度)。地方都市の認識なんてその程度なのでしょうけど。
今回はその福岡の基礎をより強固にした一族を。
福岡市博物館
福岡市博物館は1990年百道浜に開館した市立の博物館。建物のベースはかつてのよかトピア(アジア太平洋博覧会)のテーマ館で、設計は佐藤総合計画(九州では諫早や大村のミュージアムも手掛けています)。

以前のnoteで仙台市博物館を東の横綱ミュージアムと書きましたが、西の横綱はココ福岡市博物館(東西は地理的な意味で)。

かつての藩主家から福岡市へと寄贈された黒田家関連の大名道具類は福岡市美術館に収蔵されていましたが、博物館の開館に伴い具足や刀剣の武具類や古文書はこちらへ移管されています。
前庭?にはエミール・アントワーヌ・ブールデルの彫刻が並び、雰囲気は美術館的。作家と福岡との関連は不明。
福岡県福岡市早良区百道浜3-1-1

エントランスでは博多祇園山笠がお出迎え。ばってんココは博多じゃなかとです(博多は那珂川の東側。西側の城下が福岡)。

福岡市博物館といえば金印。常設展の入り口部分に専用の部屋が設置されています。部屋は照明が落とされているので撮影に苦労する人が多数。
いつだったかトーハクに金印が出張していた時にはすごい行列になっていましたが、福岡ではフツーに常設展示室で心ゆくまで。


金印は周辺セット(保管用の箱等々)も含み、レプリカが存在します。
今回の黒田侯爵家展では、特別展示室にも常設展示に鎮座していたので驚きました(本物は常設の方に)。
ちなみに2025年正月のトーハクでも、複製が巳年絡みで展示されてました。


金印「漢委奴国王」(国宝)は1784年に志賀島(百道浜の対岸あたり)で農民により発見され、藩に献上されています。いわゆるハンコではなく封印。
金印辨は亀井南冥がまとめた日本初の金印研究書。当時でも既に研究対象。


2023年9月-11月 @福岡市博物館
侯爵家というタイトルだったので、明治以降の品々(礼服やらボンボニエールやら)が並んでいるのかと思いきや・・・


何やら歴代藩主の具足に肖像画等の黒田家の歴史がほぼ勢揃いしています。
また戦国時代の品々が、明治期にクロスするという深いエピソードも多数。
黒田家
展示は黒田家の原点の方の肖像から。
黒田家の家宝は明治時代に定められ、第一家宝が446件、第二家宝が515件。
江戸時代には重宝と呼ばれた品々のほとんどは第一家宝に。
源雅信(920-993)は臣籍降下した宇多天皇の孫で、宇多源氏の祖。近江源氏や佐々木源氏とも呼ばれ、六角氏や京極氏が嫡流。

原図は藤原信実が描いたとされる鎌倉時代のもの(状態がよくない)。
黒田家の家紋は藤の花(黒田藤)なので、ちょっと紛らわしいかも。
そして黒田侯爵家の基礎を作った人へ
黒田官兵衛という人
黒田官兵衛(孝高、如水:1546-1604)は福岡藩祖で播磨の人。

西日本に進出してきた織田信長に従い、豊臣秀吉麾下の軍師に。竹中半兵衛と共に秀吉の両兵衛と呼ばれ、九州平定後に豊前12万石を与えられます。
関ヶ原の戦いの時には、九州で農民兵を率いて各地を制圧。東軍と西軍に対する第三極を狙っていたとも。
シメオンという洗礼名を持つキリシタンでもあり、その戦略眼や交渉術など底知れない能力が主君秀吉にも警戒された人。

写真の具足の兜は曾孫の光之(1628-1707)がオリジナルを再現して作らせたレプリカ(少し時代が下がる)。何故かというと・・・
銀白檀塗合子形兜は、官兵衛の具足に付属した兜のオリジナル。
兜は官兵衛から家臣の栗山利安に下賜。

後に黒田騒動の責任を負った利安の子は盛岡藩に預けられ、兜はそのまま盛岡に伝来しています。
そして官兵衛さんがあふれる才能でゲットした品々を
圧切長谷部(国宝)は官兵衛が信長から拝領した刀。

名前の由来は、信長が隠れた茶坊主を棚ごと圧し切った手討ちから。
官兵衛は秀吉の小田原征伐では北条氏への降服勧告の使者となり、戦いの幕引きを担当しています。
相手方の北条氏直から降伏仲介のお礼に贈られた品々の1つが名物日光一文字(国宝)。

そして北条家相伝の重宝の法螺貝。

最後は後に息子長政から徳川秀忠へと献上された吾妻鏡(北条本)。

所蔵の逸品が官兵衛へと大奮発された戦国大名北条家の最期。
秀吉も官兵衛さんの働きをベタ褒めしているので、相応の対応だったのでしょう。
官兵衛は朝鮮へも渡海しています。出兵中の1593年に長政に宛てた遺言書。

長政もこれを大切に扱い、さらに2代藩主忠之(1602-1654)へと伝授。
官兵衛をしてかなりヤバイ状況だったのでしょうか?
最後は1604年に京都で亡くなった官兵衛さん辞世の句。

人生で出来る事はすべてやり尽くしたという心境が詠まれています。
続いて同じく戦国時代を駆け抜けた息子を
黒田長政という人
黒田長政(1568-1623)は官兵衛の子で福岡藩主初代。
幼少期に織田信長の人質として豊臣秀吉に預けられます。

信長の思い違いで処刑されそうになりましたが、竹中半兵衛の機転によって命を救われた人。
秀吉の統一事業を支え、朝鮮半島にも渡り武功を重ねた基本武闘派。
関ヶ原の戦いでは東軍の主力を務め、石田三成勢と激突。
西軍の寝返り工作にも功があり、戦後の論功行賞で筑前52万石を拝領。
父と共に築いた福岡城が現在の福岡市の基礎となり、幕府領だった長崎の警備を佐賀藩と交代で担当する事になります。

銀箔押一の谷形兜&黒糸威五枚胴具足(重要文化財)は、関ヶ原の戦いで長政が着用した黒田家では重要な具足。上記の長政像のベースモデル。
兜は関ヶ原で轡を並べた福島正則と仲直りした時に、正則から贈られたもの(馬に乗って駆ける事ができるのか)。
黒漆塗桃形大水牛脇立兜(重要文化財)は長政のお気に入り。

いくつかスペアがあったそうで、福島正則との仲直りで長政が贈った兜。
鎗(勝光宗光)は伝来した秋月黒田家(支藩)から明治期に家産整理のお礼として本家へ贈られたもの。

関ヶ原の前哨戦・合渡川の戦いでの長政使用品。
徳川家康から拝領した兜。

長久手の戦いで家康着用と伝わります。
前立ての歯朶は家康が好んで使用したもの。
兜と同じく家康から拝領した梵字采配。

家康からは他にも、鞍&鐙装備の馬2頭を拝領。
1617年に2代将軍徳川秀忠が黒田家へ初めて文書の形で与えた判物。

平和な時代には、確たる証拠がお家を守ります。
長政が残した遺言も保存されています。

面白いのが、キャプションには「あれこれ指示を残す」と。
確かに細かくていくつもの帳面が残っていましたが、あれこれって・・・
黒田家譜(1710年)は3代藩主光之の命を受け貝原益軒がまとめた黒田家のファミリーヒストリー。

菩提寺 崇福寺
市内にある菩提寺にも触れておきます。崇福寺は1240年大宰府に建立。
1600年に黒田長政によって現在地へと移転され、黒田家の菩提寺に。

重心高めの山門は大正期に移築された福岡城本丸表御門(両脇は石垣だった模様)、そして境内の唐門は名島城からの移築と福岡の歴史がいろいろと残っています。ただし伽藍は太平洋戦争で焼失。
山門の西都法窟の扁額は後嵯峨天皇による勅額(レプリカ?)。
そして写真の崇福禅寺の文字は最初の侯爵黒田長成による揮毫。
黒田家墓所は戦後荒廃していましたが、新たに盛り土され以前よりコンパクトに改葬(以前の墓域は海まで)。
その後黒田家から福岡市へ寄贈されています(参拝可能)。
黒田家歴代のうち3人は別の場所(東長寺)に墓所があります。

親子で並んでいますが、実は2人とも終焉の地は京都。戦国時代を駆け抜けた人たちのお墓はだいたいデカい。

右側の官兵衛さんのお墓が赤っぽいのは、金箔を貼るための朱漆の名残だそうです。左側の長政さんの墓石は改葬時に新しくされたもの。
2005年の地震で墓石類は倒壊していますが、2006年に復活。
墓所にはスタッフの方がいて(常駐かは不明)、色々と教えてくれます。
博物館へ戻ります。ここからは幕末以降の展示品へ
孝明天皇から11代長溥に下賜された探幽筆の三幅。

下はその鑑定書。岡倉天心や九鬼隆一の名前が見えます。

最後の藩主12代黒田長知(1839-1902)の具足と大礼服。

時代の転換点とはいえ並べてみると違和感がスゴいとしか言えない。
黒田長成という人
黒田長成(長知の子:1867-1939)に侯爵を授ける文書。

副書は伊藤博文ですが、伊藤は正四位で長成は従五位。明治維新はヒエラルキーの大転換が起こったことが分かる一例。
修猷館は福岡藩校で、現在の県立修猷館高校(福岡の超名門校)の源流。

扁額は長成の書によって修猷の由来(先王の道をたどり行っている:五経の尚書)を表したパート。
偶然なのか高校は博物館のすぐ近くにあります。
明治時代に長成は、豊国会の会長として秀吉の顕彰事業や豊国廟の復興に携わっています。その縁で京都府の役人から長成さんへと贈られた宸翰。

約300年前の人間関係が明治期に交差しています。
そして博物館の顔の1つ、日本一の鎗日本号(常設展示室)。
官兵衛の家臣母里友信が福島正則との酒飲み勝負でゲットした巨大な鎗(全長3m強、柄は螺鈿細工)。元は正親町天皇所有で、秀吉経由で正則へ。

明治期に母里家の手を離れますが、旧福岡藩士の安川敬一郎(実業家:安川財閥の人)が入手し、長成へと献上したエピソードを持つ鎗。

長成から安川さんへの感謝状も展示。けっこうあっさり。

長成は感謝状と共に狩野常信(探幽の甥)の三幅を贈呈しています。
常信の画は贈答品としてよく出てきます(個人的印象)。

(北九州市立自然史・歴史博物館蔵)
展示では図録も発行されています。

発行:64ページ 2023年
黒田侯爵家の名品 実行委員会
編集:福岡市博物館
図録はやや斜めな視点からセレクトされた展示品がまとめられています。
「黒田侯爵家の名品」というタイトルから物足りないのかなと思いきや、戦国を駆け抜けた逸品から、明治以降の宝物たちの変遷までと興味深い展開で、行ったり来たりの忙しい特別展でした。しかもほぼ撮影OKだったのは、福岡市(博物館&美術館)コレクションの充実度ゆえでしょう。
市立ミュージアムでこのクオリティはやはり横綱クラス。
常設の企画展示にも黒田家関係はチョコチョコ出てきますが、市美術館と併せて来福時には外せないミュージアムです。

