400年続いた名門にピリオド:武田勝頼【山梨県立博物館・景徳院】山梨県笛吹市・甲州市
甲斐の国、現在の山梨県民の殿さま像は、ほぼ間違いなく武田氏。
平安期から400年ほど甲斐を統治し、戦国時代にピークを迎えた一族です。
江戸期の甲斐は幕府領だったり、将軍を輩出したりとほぼほぼ幕府領扱いだったので、徳川家に対する領民のみなさんの殿様的イメージは薄かったのかもしれません。
今回は山梨県東部にある笛吹市のミュージアムと甲州市のお寺の記録。
笛吹市の人口は66,000人。室町期には守護所が置かれた石和は関東圏の温泉街として知られ、近年は信玄餅の工場(桔梗屋)も人気スポット。
そして甲府盆地の最東端・甲州市の人口は28,700人。甲斐武田氏ゆかりの古刹が集まる塩山地域と果樹園が広がる勝沼地域で知られますが、ヨソ者には甲斐市との違いが分かりにくいのが玉にキズ。
両市ともに、ブドウやモモといった山梨を代表する果樹園が広がるエリア。
果樹園が集中する盆地周辺に広がるのは、バイクで気持ちよく走れる快走路。ただし国道20号線沿線(飛ばす人多い)や盆地の周辺部には、ネズミ捕りや白いバイクもよく見かけるので要注意。

山梨県立博物館:笛吹市

山梨県立博物館は、甲斐の国(山梨県)の自然・歴史に関するものを収集・展示する総合博物館で2005年の開館。
愛称は「甲斐」と「ミュージアム」から「かいじあむ」。
建物は梓設計(東京の設計事務所)によるもの。

エントランスに入ると目に入る中庭。
現代アーティスト関根伸夫による「余白の台座」なる作品です。

中央の御影石は甲府盆地、そして壁のレリーフや台座の周囲に配置された石は盆地を囲む山々を表現しているという、よく分からない系の作品。

山梨県笛吹市御坂町成田1501-1


開館時と開館15周年記念の特別展は、直球ど真ん中の武田信玄。
また開館10周年記念には武田二十四将とオタク好みの企画でした。
歴史系展示では武田色に染められてきたかいじあむ。

では20周年記念の特別展はというと、一族ラストのあの方が御出陣。
御旗盾無、御照覧あれ!



展示の主役は武田勝頼(1546-1582)、武田家17代。
信濃の名族諏訪氏を継いでいましたが、父・信玄没後に武田の家督を継承。

2025年3月-5月 @山梨県立博物館
内容は文書関係を中心に見応え充分(基礎知識があるとより楽しめます)。
サブタイトルに織田信長による勝頼評を持ってきているあたり、勝頼のダメダメ大名の濡れ衣を晴らすべく、展示は巧妙に構成されています。
展示室内は撮影不可。
We are TAKEDA!
拙い文章では展示品が全く紹介できないので、参考に戦国武田三代プラス初代を銅像で。

家督相続直後は領国拡大や外交にと順調だった勝頼。
その頃の織田信長が上杉謙信に宛てた書状には
「勝頼は若輩ながら、信玄の掟を守っているので油断ならない」
と記されています(展示あり)。
その勝頼のターニングポイントになったのは、1575年の長篠合戦(設楽原:愛知県新城市)。長篠で多くの歴戦の重臣を失ったコトは軍事・外交・内政すべての領域に影を落とします。
展示で興味深かったのは、武田、織田、徳川、徳川家臣、後世とそれぞれの歴史書を並べて比較していた点(よくあるパターンは各自の自画自賛)。
そして三河物語(徳川家康の家臣・大久保忠教著)に記されていたのが、
「日本に隠れ無き弓取りなれども、運が尽きさせて給いて」
という勝頼に対する信長評。
特に外交は相手の状況変化によって暗転するコトもあります。
自身の決断に加えて、天運も必要だというリアリストならでは視点(信長にとっては武田信玄の病没等々)。
長篠以降は領国防衛に終始した武田家に対し、膨張拡大路線を邁進した織田家。そのパワーバランスはもはや織田家に太刀打ちできないレベルに。
その結果が織田家による甲斐侵攻。
織田家による有力国衆の切り崩しに加え、武田家にとっては不利な状況ゆえに一族衆の離反や裏切りも重なり、田野の地で四面楚歌となった勝頼一行。
そして名門武家らしく自刃というのが、この物語の悲しい結末。
ちなみに甲斐侵攻で先陣を務めた息子信忠(&その周辺)に対しても
「勝頼には細心の注意を払いなさい」
と指示を飛ばしている信長。勝頼に対する高い評価が伺い知れます。
続いて勝頼のおじいさん。

武田信虎(1494-1574)は、武田氏15代。
戦国期の武田家を統一、続いて有力国衆を従えて甲斐の国を統一した人。
さらに本拠を石和から甲府の躑躅ヶ崎館へと移した現代山梨の父。
成長した子の信玄により甲斐の国から追放されますが、信玄よりも長生き。
続いて武田家では最も著名なお父さん。

武田信玄(晴信:1521-1573)は、武田氏16代。
父を追放し家中を掌握。後に信濃へも進出し、甲斐と信濃守護になった人。
最盛期には関東や東海へも勢力圏を拡大した戦国最強と評価される1人。
晩年には対織田・徳川戦を順調に進めますが、三河の陣で病に倒れます。
そして甲斐へと撤退する途上に残念ながら病没。
最後に初代の方を。

なぜか韮崎市役所前で雄姿を見せるのは、初代武田信義(1128-1186)。
源清光の子で、韮崎市内の武田八幡宮で元服した人。
同族だった源頼朝の平家討伐戦に出兵。以降は家臣化(鎌倉御家人)。
こうして見ると、勝頼像は初代と同じような具足(古式スタイル)を踏襲。
ちなみに勝頼が躑躅ヶ崎館に代わる新たな居城(新府城)を築城したのが韮崎(断崖の台地上にあり、博物館での模型のお城)。
貴重な展示品が収録された図録はこちら。
各展示品の解説はモチロン、豊富なコラムが充実していて楽しめます。
何よりネット上には上がってこない情報(たぶん未電子化)は貴重。
最近の図録は、ISBNを取得して書籍として流通するモノが増えてきています。入手機会は増えますが、現地に足を運んでその事実に気がつくので個人的にメリットは小。むしろ価格が上昇気味になるデメリットは大。
予算の関係もあってか、発行部数の見込みはややディフェンシブだった山梨県立博物館。結果として過去に開催された武田関連の特別展で見られる図録の売り切れ。書籍化はアグレッシブ化の兆しかも。
オンデマンド再版とか手法としてはムリなのでしょうか?


展示とオーバーラップする場所は、勝頼像の建つ甲州市にあります。
景徳院:甲州市

景徳院(田野寺)は、信長没後(武田家滅亡の3ヶ月後)に甲斐一国を自力で勝ち取った徳川家康(1543-1616)が、1582年に創建したお寺。
勝頼ファミリーが自害した地に、鎮魂のため彼らの墓碑等々を建立。
(景徳院は勝頼の戒名)

家康は甲斐を領国化しつつ、武田家遺臣を自らの軍勢に組み込んで強化。
創建にはそのための良い人アピール的な意味合いもあったとされています。
ちなみに景徳院近隣には、ミスター片手千人斬り土屋惣藏(昌恒:1556-1582)の活躍現場もあります。
惣藏は勝頼を守るため断崖絶壁で草のツルにつかまり、片手で刀をふるい織田軍をなぎ倒したという伝説の人。
武田リスペクトな家康は、主君に殉じた惣藏の子を召し出しています。
その子孫は、常陸の土浦藩主として生き残りましたというエピソードも。




古木に加え桜も多く、春には花見客が多く訪れそうなお寺です。
笛吹と大月の中間点あたりの山の中ですが、知名度は不明。


甲将殿の後ろ側には勝頼を中心として右に北条夫人、左に信勝の五輪塔。
基壇上に配されたその脇を固めるのは殉難者の供養塔。
1775年の二百年遠忌で建立されています。

2006年には調査によって、基壇の下から敷き詰められた5,000点を超える経石(お経の記された石)が出土、分析・整理されています。
供養塔の建立前までは、甲将殿内に安置された3人と殉難者の位牌がお墓。
後には3人の坐像も加えられています。
特別展では経石、御廟所の絵図に勝頼一行に殉じた人の戒名が記された図、そして3人の坐像が展示されていました(図録にも掲載)。

50名ほどに減った勝頼主従を包囲したのは滝川一益勢。
進退窮まった勝頼(37才)、夫人(北条氏康の娘、19才)、信勝(嫡男、16才)親子と主従は、この地で自刃。


首のない勝頼親子の遺骸は地元民により埋葬され、首なし地蔵が安置されました。境内の一角に没頭地蔵として、現在も祀られています。

景徳院の駐車場があるのは、勝頼夫人の侍女らが殉死した場所・姫ヶ淵。
昔は川の水量がけっこう多かったそうです。
姫ヶ淵には、その歴史を伝える悲しげなレリーフ。

甲府盆地の東端にひっそりと残る武田氏終焉の地。
人の姿も少なく今や歴史の悲哀を感じさせない山の中ですが、こうして今も維持されているのは、武田家に対する地元民のリスペクトあってのコトでしょう(花も供えられ、参道も奇麗に管理されています)。
今回の武田勝頼展で、武田家関係のネタ切れがやや心配な山梨県立博物館。
次なるネタは信玄兄弟なのではと睨んでいますけど。

