地域に同化する建築は、素朴なようで実は骨太!【神長官守矢史料館:藤森照信2】 長野県茅野市
神話の時代にさかのぼる古ーい歴史を持つ地域が日本にはあります。
中には地元の文脈から切り離され商業主体の観光地と化している所も。
昔ながらの雰囲気は維持しつつも、現在では忘れ去られそうなかつての風習は、21世紀では逆に貴重な観光コンテンツ。
観光地と生活の場がミックスした適度な田舎というのが大切なポイント。
長野県の中部、諏訪湖の東側にある茅野市の人口は、諏訪地域では最大の54,000人(面積も最大)。戦後の諏訪地域は、精密機械工業で発展した歴史を持っていますが、ちょっとした驚きです(平地面積の問題かも)。
ただし主要な観光スポットや文化施設は、茅野市内よりも信仰の対象でもある諏訪湖周辺に集中しています。
今回のミュージアムは、地元の人によって地域の歴史と独自の文化がデザインされた唯一無二の建築です。
ただ無二と言いつつ全国に増殖中のこのスタイルは、ある意味宗教的かも。

神長官守矢家とは
むかしむかし諏訪の地に土着していた部族は出雲から侵攻してきた勢力に敗れ、諏訪明神を祀る事になります。守矢家は諏訪上社の大祝諏訪氏を補佐し、神事を取り仕切った5人衆の筆頭神官の一族。

長野県茅野市宮川389-1
まずはミュージアムの向かいにある守矢邸とその関連施設から。
ちなみに守矢邸は、諏訪大社上社本宮と前宮の中間点に位置しています。
守矢家祈祷殿は1875年に取り壊されましたが、伝統が消え去るのを惜しんで1887年に復活(1930年改築)。一般立ち入りは不可の神聖な場所。

守矢邸は1929年の改築されていますが、部材は1792建築時のもの。

由来は江戸以前とされる庭園。手入れされていて放置はされていませんが、現在はお住まいではない模様(たぶん)。

案内板にはみさく神とありますが、史料館パンフではミシャグチもしくはミシャグジ神とされ、漢字表記では御左口神。

みさく神とは諏訪地方に見られた原始信仰の神様のことで、諏訪社の神事では重要な役割を果たしているそうです。その境内の叢(草むら)が茅野市の天然記念物に指定されています。諏訪での必須アイテム御柱も。
叢は古いカジノキ2本にカヤとクリで構成されています。案内板を読んでもストンと入ってきませんが、社の放つ空気感にはご挨拶が必須。
諏訪氏は現人神のポジションにあった一族。大名系(政治&戦闘)と神事系(大祝)に分かれましたが、ここは大祝一族の墓所。

大名系の諏訪氏は、戦国大名化した武田家に吞み込まれますが、江戸時代になると領主としてカムバックし高島城の主に。
歴史の入口:神長官守矢史料館

史料館は1991年のオープン。建物正面の屋根を突き抜ける4本の御柱(地元のミネゾウ:イチイの木)がトレードマーク。
その骨格が鉄筋コンクリート(RC造)とは思えません。
内外壁の壁土やサワラ手割板に、地元産の石や天然スレート(宮城雄勝&フランス産)による屋根が独特な雰囲気を醸し出しています。
基本設計は藤森照信で、総工費は約1億3,700万円。

パンフレットは雰囲気を保ちながら微妙にマイナーチェンジを重ねています。この規模の史料館では珍しく、好印象。
78代!守矢早苗氏が茅野市に寄託した約1,700点の古文書を収蔵・展示。
諏訪社の神事に関わるものを中心に、武家文書も多数。

古いモノでは鎌倉幕府の将軍家下文から、越後の長尾為景(上杉謙信の父)や諏訪を制圧した武田家、武田信玄に立ちはだかった村上義清(長野県坂城町の領主)に武田家の重臣だった真田家、加えて北条家(信濃は織田信長横死後には周辺勢力の草刈り場に)と戦国時代の主要キャストがゴロゴロ。


設計者藤森照信という人
建築家藤森照信(1946- )は諏訪の人。
設計当時は東京大学助教授(現在は名誉教授)でしたが、専門は建築史。
2016年には江戸東京博物館の館長に就任されています。
藤森さんは独特の作風で知られますが、関西での設計施設はテーマパーク?のようなメジャー観光スポットに。
参考までにたねやを。

たねやは滋賀のお菓子会社。バームクーヘンが有名なようです。
本社に加え、ショップやカフェに田んぼから構成されるSDGs志向の施設。

草屋根(2015年)は典型的な藤森建築。大人でも登りたい。
みなさん写真撮りまくり。
そんな藤森さん初の設計作品が守矢史料館。
パンフによると御柱は、藤森さんがスケッチしている時に「偶然鉛筆が走って軒を突き抜けた」と。

イメージ的にはCADはおろかドラフターも使わずに、フリーハンドで図面を書きそうな藤森さんならではエピソード(あくまでイメージ)。
そして以後、屋根を突き抜ける柱は藤森建築ではスタンダード化。
ちなみに藤森さんは守矢家78代当主とは幼馴染の間柄だそうです。

床も壁面のような仕様で、仕上がりは昔の農家の土間。
2Fは収蔵庫ですが見学者は立ち入り禁止。収蔵庫内のみコンクリートの打ちっぱなしだそうです。

階段は一部跳ね上げられ物理的に入れないようになっていますが、子供が喜びそうな仕掛。

ここまでの史料館はプリミティブなデザインで、「トトロ」に出てくるような」と評されがちな雰囲気。
ここからは神事とは何かをリアルに学べる展示を。
諏訪大社の祭祀の中心をなすのが御頭祭(酉の祭)。
祭りは春先の神前に75頭の鹿や魚、鳥、獣の肉を山盛りにしてお酒を献上。
神様と人が一体となって饗宴を催すという儀式。
ちなみに現在の神事は、剥製の鹿の首3頭を使用しているそうです。

兎の串刺しを筆頭にエグい品々が並びます。キャプションによると鹿の肉や脳を味噌で和えた「脳和」やら多彩なメニューが。
プリミティブな信仰と生命の尊厳が表裏一体だった時代。

展示品は三河出身の菅江真澄(紀行作家・本草学者:1754-1829)が残したスケッチを元にした復元。
肉食は鎌倉以来禁止されていましたが、諏訪社では神事に必要という事で条件付き(鹿食免と鹿食箸の所持)でOKだったそうです。

一番奥がコンパクトな展示室。
訪問時の展示では、戦国時代末期の武田家関連の書状を中心に。

2025年4月-6月 @守矢史料館
その中から2点。
武田家最後の当主・武田勝頼の書状。

勝頼から守矢家へ、躑躅ヶ崎(甲府市)から新府城(韮崎市)移転に際しての祈祷の礼状。「武運長久についてもよろしく」と。
拠点の移転後に、織田信長の侵攻によって武田家は滅亡します(涙)
願いは届かず。
武田勝頼(1546-1582)は諏訪氏を継承するはずだった人。
父は武田信玄。

身に着けた具足は南蛮渡来スタイルではなく、日本古式なのが武田流か。
像があるのは、勝頼が自刃した天目山の近く。
以前は武田家を潰した事もあり、大将の器ではなかったというレッテルが貼られていましたが、研究が進んだ近年ではそうではなかった勝頼像も紹介されるように(信長の書状にも油断してはいけない武将だとはっきりと)。
続いて武田信玄の指示書。

こちらは守矢氏の家来で他所へ逃げて働いている者たちを再雇用しなさいという信玄からの指示書。
合戦で疲弊した人たちは、よりよい条件を求めて村から逃散する事が珍しくなかったという戦国時代。
守矢氏はこの書状を逃亡先の主人に見せて家来を取り戻していたそうです。個人の移動や就業の自由が、現代とは全く異なる時代のお話。
武田信玄(1521-1573)は甲斐と信濃の守護となった人。甲斐の虎。

信濃侵攻に伴い、歴史ある諏訪家を併呑。そして19代諏訪頼重の娘との間に生まれたのが勝頼。「頼」は諏訪家の通字。
諏訪法性兜をかぶった信玄像。軍配を持ち床几に座るのが鉄板スタイル。
史料館周辺にある藤森建築
距離的に史料館から歩いて見に行ける藤森建築をいくつかご紹介。
高部公民館(2021年)は細長い三角地に建つ、地域のための建物。

支柱をカバーする銅板や炙られた杉板も藤森建築の文脈。
ポストも炙ってます。
素人視点ながら、あのルーバーの人も炙れば良かったのでは。




面白いのは周囲と違和感がないコト(自分だけ?)。
車に乗っているとスーッと通り過ぎがち。実は建物の前を2往復して気がついて、わざわざ戻っています。リサーチ不足は偶然の出会いの入口。

こちらは史料館から南へ微妙に登った、畑の中の建物たち(史料館のスタッフに尋ねると教えてくれます)。
保護色のように周囲に溶け込んでいる物体(その形状も溶け込む要素?)。

空飛ぶ泥舟(2010年)は、実は茶室。ハシゴ(上の写真の右側に見えます)を掛けて入室します。こういうのを設計するのでトトロとか言われます。

すぐそばにもさらに2軒。

高過庵(2004年)はこの中では最も古い茶室。
恐れ知らずの子供たちが喜ぶ系の筆頭建築。

低過庵(2017年)は埋もれているかと思いきや、高低差を利用した茶室。

屋根がスライドして空がぽっかり見えるドーム球場的なギミックを装備。
また悪ガキが屋根を上るのは避けられない無二の茶室。

焼杉材や銅板は、プリミティブな時代の鎧をまとった武者のようにも。
藤森建築ではユーザーが杉材を炙ったり銅板を切ったり叩いたりと、仕上げ作業に参加する光景も目にします。
衣食住においてユーザー自らがその製造工程に関わる経験は、現在ではとても貴重なモノ(脳和は一生ないでしょう)。
藤森さんの持つ視点やユーザーへの仕掛けは、建築のファサードや内外装の手触りに表出しています。

