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太平の世の武家スタンダード:片桐石州の茶 後編【慈光院】奈良県大和郡山市

前編の「片桐石州の茶:根津美術館編」から人物関係図が気になり、過去の資料や写真類を読み込んでみました。すると当時石州がなぜ支持されたのかという理由がボンヤリと浮かび上がってきます(なんとなく)。

お茶は美味しく飲めればOK派なので、お点前等の形式は詳しく分かりません。ただ石州の人間関係を俯瞰してみると、当時の最先端には近い場所に身を置きながらも、一歩引いた感覚が石州の強みだったのではないかと。


大和郡山市の人口は82,000人。歴史の宝庫である奈良県北部の中堅都市で、個人的には豊臣秀吉(1537-1598)の弟秀長ひでなが(1540-1591)の印象が強い地域(ゆかりのお菓子、菊屋の御城之口餅のせい)。
前回の展示品中心からガラリと変わって、今回は石州ゆかりの場所にフォーカスします。
特別展にも顔を覗かせていたそのお寺は、市の中心部から南西方向に3kmほどの距離にあります。

慈光院

慈光院は1663年に小泉藩2代藩主となった片桐石州かたぎり せきしゅう(貞昌)が、父貞隆さだたかの菩提寺として大徳寺185世玉舟宗璠ぎょくしゅう そうばんを開山として建立(臨済宗大徳寺派)。
石州、玉舟ともに大徳寺147世玉室宗珀ぎょくしつ そうはくに師事した間柄。

慈光院の特徴は、座敷や庭園に加えて、表門から建物までの動線と境内全体をトータルで茶席と捉えたスタイル。

奈良県大和郡山市小泉町865

パンフ2023年版

山門は片桐石州の出生地・摂津茨木いばらきから貰い受け、書院の屋根と合わせて茅葺きに変更されたもの。瓦葺きでなければ立派な櫓門。
二重門で上下の屋根が共に茅葺きというのは全国でも珍しいそうです。

山門:茨木城楼門
本堂

本堂は昭和期の建立で、天井に描かれるのは雲竜図。
かつては書院と呼ばれる建物がいわゆる方丈だったとされています。

片桐石州という人

前回から続く主人公片桐石州貞昌さだまさ:1605-1673)は摂津茨木の人(本堂の石州像はHPによると石州自作らしい)。
バリバリの武闘派かと思いきや関ヶ原後の生まれで、戦とはほぼ無縁の人。
大和小泉13,000石を継承した大名系茶人ですが、豊臣系大名の王道・土木事業でも能力を発揮。

お釈迦様を中心に、右に玉舟和尚、左に石州

父は貞隆、そして伯父には秀吉の側近で、賤ケ岳の戦い(秀吉の統一戦)での武功7人衆(七本槍)の1人、片桐且元かつもと(1556-1615)。

大坂の陣を前に且元・貞隆兄弟は豊臣方から内通を疑われ、徳川家へ臣従。
ちなみに慈光院には、下図とは違う且元像と且元の位牌が伝わっているそうです(且元の菩提寺ではありません)。

(参考)片桐且元像 @五先賢の館(滋賀県長浜市)

石州の茶の湯の師匠は桑山宗仙くわやま そうせん貞晴さだはる:1560-1632)。
宗仙の父・重晴しげはるは豊臣秀長に仕え、和歌山城代を経て後の大和新庄藩の祖。
賤ケ岳の戦いでは秀吉本軍が戦場に戻るまで戦線を維持する武功を立てています。また江戸期には一族から紀州南画の桑山玉洲ぎょくしゅうを輩出。
ちなみに宗仙の茶の師匠は千道安せん どうあん(1546-1607:利休の子)、堺千家の人。

つまり片桐家と桑山家は、賤ケ岳の戦いによって秀吉からの評価を勝ち取り、豊臣家に信用される地位を掴んだ家同士。
そして石州の時代には片桐家と同様に、所領は大和の国に。

左に書院、右に茶室・閑

かんと呼ばれる茶室は道安好み。にじり口がないのが特徴。
内部は暗く、空間のボリュームもあってスマホでは撮影がむずかしい。

閑(三畳:重要文化財)

手前の手水鉢の字も重要文化財。

根津美術館で展示された人物関係図によれば、石州憧れの人は小堀遠州えんしゅう(1579-1647)。代官職や作事奉行(建築関係)でも才能あふれた人。
また三千家の祖宗旦そうたん(千少庵の子:1578-1658)や
宗守そうしゅ(一翁、武者小路千家、高松松平家茶頭:1605-1676)
宗左そうさ(江岑、表千家、紀伊徳川家茶頭:1613-1672)
宗室そうしつ(仙叟、裏千家、加賀前田家茶頭:1622-1697)
ら3人の宗旦の子たちとも交流していたと。

加えて石州自身の茶の湯には道安のエッセンスも継承されているので、利休の系譜を全方位で網羅しているのがポイントか。

書院からの庭園

茅葺きの書院(客殿)は慈光院の中心的な建物(重要文化財)。
茶室に茅葺きはフツーですが、堂々とした荘厳な空間にしないという意味合いがあるそうです(寺院の詫び化?)。
また座った時に落ち着くよう、天井や鴨居の高さが低く設定されています。

座敷ではお庭を眺めつつお茶をいただき、和尚さんのお話をうかがいます。
お話からは、茶の湯の現状になんだかモヤモヤされているという印象が。
現代の茶の湯のフォーマットや取り組み方について詳しくは知りませんが、お茶はおいしく飲めるのが一番。景色が良ければ、より美味しい。

手前の手水鉢独坐どくざは重要文化財

左側の森のような場所は、景観維持のため平成期に田んぼに植樹した結果。

(参考)慈光院庭園 堀口捨巳実測図 @国立近現代建築資料館

石州流は日本各地に分流していて、ゆるやかなグループを形成しています。石州をトップに置きながらも、ガチガチのピラミッド構造ではないのが特徴のようです(たぶん)。

根津美術館の図録によると、石州の道具類は室町以来の武家の茶の湯(名物)と利休の茶の湯(侘び)がバランスよくミックスされているそうです。

二畳台目の茶室高林庵は点前畳の奥に床の間がある亭主床

茶室(二畳台目)

手前に二畳のスペースがあり、四畳台目のような使い方も可能と使い勝手が考えられているそうです。(重要文化財)

かつて大徳寺内にあった塔頭のものでしょうか?

先ほどの三畳台目の席に比べると室内は明るく、「陰陽をはっきりつけた二つの席で一対とみるのが本来」と解釈されています。

そんな石州の茶の湯に関心を示したのは、将軍を頂点とする幕府グループ
3代徳川家光(御成に相伴:1604-1651) 
4代徳川家綱(献茶:1641-1680)
幕閣では
保科正之ほしな まさゆき(家光の異母弟:1611-1673)
阿部忠秋あべ ただあき(1602-1675)
稲葉正則いなば まさのり(1623-1696)
酒井忠清さかい ただきよ(1624-1681)
といった大老や老中がズラズラッと並ぶ豪華メンバー

つまりは石州の茶の湯を実践した面々は、武家とはいえ実戦経験はほぼ持たず、むしろ為政者(官僚)としての能力が求められた時代の人たち。
そして戦国の気風が徐々に薄れ太平の世へと向かう過渡期のリーダーたちは、将軍家以外の権威の存在を望みません。

小大名だった石州は、千利休や古田織部という存在(戦国ど真ん中の茶の湯)をリアルに感じつつも彼らの最期についても承知しているはずなので、権力者との距離感には敏感だったと想像します。

手水鉢角バラズ(重要文化財)

そして当時の茶人を見渡した時に、
1:他者には持ち得なかった石州の知識や経験のバックボーン
2:強烈な個性を伴わない小藩の大名というポジション
3:運良くバックアップが得られた強力な人脈
という条件が揃って、平和な時代の武家茶道という柔らかいイメージにマッチしたのではないかと(遠州でもキャラがやや強めか)。

そしてお寺のHPには「利休本来の茶の湯の精神を継承しつつ、時代の流れである武士中心の世の中に調和させた分相応の茶を説いたことが、将軍家をはじめとして諸大名達に受け入れられることとなった」とあります。

分相応とは、人によって基準が変化するという難しさも内包します。
そして自らを客観視するという視点が求められ、それはバランス感覚や幅広い経験・知識の上に成立します。

スタンダードになりうるモノは、そういった他者との関係や全体とのバランスを保つ感覚が絶妙なのかもしれません。

相関図のなんとなく中心にいて、際立って目立つ訳でもなかった立ち位置こそが石州の魅力でしょうか。

最後に東日本に残る慈光院の遺構も。
MOA美術館(静岡県熱海市)に移築されている片桐門。

(参考)片桐門 @MOA美術館

こちらは片桐と言っても石州ではなく且元由来の門で、昭和のはじめまでは慈光院にあったそうです。且元が騎乗したまま出入り出来たというサイズ。
そして三井家の大磯別邸を経て、現在はMOA美術館内にある茶室の門に。
そのデザインは和風というより西洋風。

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