なごやのことも夢のまた夢【名護屋城博物館:前川建築設計事務所・前川國男4.5】佐賀県唐津市
「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだのは、奥州での松尾芭蕉。
平安末期の平泉に思いを馳せての一句(たぶん)。
ただ今現在その地を訪れても平泉の栄華に触れるコトはできますが、かつての戦場の空気はもはや皆無(時代が古過ぎる?)。
そして九州北部には、平泉の藤原帝国よりも遥かに壮大な野望を掲げた人物による夢?の痕跡が。
唐津市の人口は112,000人。県内では佐賀市に次ぐ規模(つまり県内2位)。
交通の要衝で福岡県に食い込むように位置する鳥栖市の方が、人口は多いイメージでしたが。
唐津は虹の松原や呼子のイカだけではありません。
そういえば江戸時代の唐津は小さいながらも1つの藩(唐津以外の佐賀県はほぼ鍋島藩)。そして日本近代建築の父ジョサイア・コンドルの1期生だった辰野金吾と曽禰達蔵の故郷なのです。
ただし今回は唐津の中心地ではなく、廃城となった城跡とミュージアムを。

名護屋城跡

名護屋城跡は壮大なお城の痕跡(ほぼ石垣のみ)。

築城したのは足軽から天下人へと昇りつめた豊臣秀吉(1538-1598)。
1590年に日本を統一すると、次なるターゲットを大陸へと定めます。
その侵攻(唐入り)の拠点として築かれたのが名護屋城。

名護屋城の縄張りを担当したのは秀吉の懐刀黒田孝高(官兵衛)。
文禄期(1593年)に秀吉は、交渉のため派遣されてきた明の使節をこの城で迎え、対面しています。

残るのは本当に石垣だけ。整備事業は進められているようですが、広大な城跡は市レベルをはるかに超えて県レベル。


膨大な軍船の補給地となった壱岐、対馬に加え、港口の風よけの役割を担った加部島と大陸出兵の条件を備えたのが名護屋城。
現在では城跡の西側3kmほどの距離に玄海原発が(玄海町)。



馬渡島と松島の間には、遠-く壱岐がうっすらと。
ここから壱岐は福岡市よりも近い。

お城は文禄・慶長の役(1592-98)の間、秀吉軍の前線基地として機能。
そして秀吉が亡くなると半島にいた大名たちは日本へ続々と撤収。
その後の名護屋城は破却され現在に至ります。
大名の陣屋跡が周辺に残っていますが、フルコンプには相当な体力が必要。

天守跡には石がゴロゴロ。秀吉の夢の跡です。

続いてミュージアムへ。

名護屋城跡に関するお宝たちは、ミュージアムにゴロゴロ。

佐賀県立名護屋城博物館

入口には韓国の作家、張公益の作品。 素朴なデザインは韓国済州島の守護神的な石像。 名前の意味は「石のおじいさん」。

佐賀県立名護屋城博物館は1993年の開館。
外壁は有田焼のタイルと韓国産の御影石で覆われ、屋根は銅葺。

名護屋城関係の展示を中心に、安土桃山期以前や江戸期以降の歴史もカバーしています。争いだけでなく外交・交易についての展示も多数。
展示室に加えて、500席のホールも備えています。

ただ博物館に入って感じたのは強烈なデジャヴ感。
こいつはあの巨匠建築家の作品じゃないかと。

前川國男のような・・・
前川建築をいくつか記録してきましたが、この雰囲気は完全にその文脈。
エントランスを見る限りは、どう見ても前川國男(1905-1986)作品。

参考にというか比較対象として九州から2館をチョイス。


見ての通りですが(熊本はそっくり)、佐賀にも前川作品があったのかと驚きつつ調べてみれば、設計は前川建築設計事務所???
ただしその年代には違和感が。博物館は前川さん没後6年ほど経ってからの竣工。前川さんはココには直接関与されていない模様(たぶん)。
事務所としてどういう意図だったのか不明ですが、そういうスタイルもアリかもしれません。ただなんとなくモヤモヤが。
とはいえ、打ち込みタイルが有田焼というならば唯一無二となります。

もともと1500人ほどの漁村に、5ヶ月で10万人以上の軍兵や商人が集合。
高台には陣が構築され、谷や浜を埋め尽くすのは小屋。

侵攻初期は小西行長・加藤清正の両軍が朝鮮半島北部まで進撃。
長く延びすぎた兵站と体制を整えた朝鮮軍と明軍の参戦により、前線は半島の南部まで後退を余儀なくされます。
慣れない気候や風土病に悩まされながら苦しい戦いを強いられた秀吉軍。
対照的に名護屋城では、茶の湯や能を楽しむ優雅な世界が展開されたとか。

遺構となった名護屋城大手門は伊達政宗により仙台城の大手門へと移築されましたが、太平洋戦争の空襲で焼失。

朱印状は秀吉が1592年に発給した書状で、紙が切断されていて宛名は不明。

虎皮2枚のお礼と名護屋城の普請が完了した事をほめた内容。
秀吉がまだ名島城(福岡市)滞在時に発給されたモノ。
博物館の推測では宛先は大友吉統、黒田長政、島津義弘、毛利吉成あたり。
ちなみに大友家は唐入りでの失態が影響して改易されています。

安宅船は、当時の日本水軍最強の船。
名護屋城図屏風に描かれた姿(絵図の湾のあたりの赤い方?)を元に制作。

対して亀甲船は朝鮮水軍の軍艦。李忠武公全書の絵図を元に制作。

甲羅部分は装甲仕様、ただ船首(水中部分)は水の抵抗が大きそうな形状で、日本の船とは発想が異なるデザイン。
加藤清正(1562-1611)が家臣に宛てた書状。

内容は鉄砲、薬品や武具に酒や肴各種を調達して送るように指示するオーダーシート。特に鉄砲は急ぎでと念押し。
こちらは、秀吉から鍋島直茂(1538-1618)へのサンキューレター。

内容は秀吉へと届けられた虎の皮や肝に対するお礼。
虎狩りでは多くの死傷者が出たらしく、直後に中止令が出された模様。
明の皇帝から秀吉への国書は、やや豪華な仕様。

秀吉を日本国王として認めるが、秀吉軍は朝鮮半島から撤退するよう提示。
当然のように秀吉は無視。
判断力に陰りが見えた晩年の秀吉による愚行とも片づけられる唐入りですが、統一以降の国内には家臣へ与える土地はなくなり、参陣した大名たちへの恩賞地獲得のためという経済拡大戦争という視点も。
経済に対する嗅覚に優れた秀吉は、戦国バブル終焉を敏感に感じ取っていたというのも有り得るハナシ。
洪浩然は12才の時に朝鮮半島で鍋島勢に捕らえられ、来日(洪家の資料では保護されたと)した人。

鍋島家に学問の素養を認められ、後に勝茂に仕えて佐賀藩の儒学者に。
勝茂没後には殉死しています。お墓は阿弥陀寺(佐賀市)に。
ここからは、唐入り以降の歴史です。

朝鮮通信使は国交回復によって実現され、江戸時代の将軍代替わりに朝鮮から派遣された使節団(通算12回)。
国書を携えた一行の総勢は300~500名。
九州から江戸までの道中は、当時国内での貴重な異文化交流の機会。
朝鮮通信使は瀬戸内海を通って大阪までは御楼船を使用。
大坂で川御座船に乗り換えて淀川を遡上し、京からは陸路で江戸に。
ちなみに2025大阪万博のイベントでは、韓国で昔の図面を元に作られた復元船(全長約34m)が、261年ぶりに日本へ来航。
釜山から対馬、鞆の浦と寄港しながら、2,000kmの航海を約2週間の旅程で。

博物館の目玉と思われるのが茶室。


茶室は三畳の金箔張り(複製)。
茶室内でお茶が飲める体験プログラムもあり。
ただお茶は別の場所で点てられるようで、黄金の茶室自体は何とも殺風景。

京や大坂で使われていた茶室を、秀吉が九州へと運ばせたと伝わります。
明軍の使節にも、食事や茶が振舞われたとも。
ちなみに名護屋城には、詫び寂び系の草庵茶室も完備。

復元で張られた金箔は2枚重ね仕様。
あまりくつろげる空間ではないような印象。

過去に思いを馳せて句を詠むほどの知識も趣味もありませんが、色んな意味で新しい発見の多かった名護屋城&歴史博物館(2度目)。
ネックは交通の便がよろしくない立地でしょうか。
ただそういう土地だったからこそ陣跡がそのまま残されたとも言えますが。


