キョーハクで見た絵師:狩野永徳編【京都国立博物館 本館:片山東熊3・知新館:谷口吉生6】京都市東山区
インバウンドによるオーバーツーリズム(観光公害)。ただ行ってみるとメディアが騒ぐほどではないなという印象を受けるのは気のせいでしょうか?(極力話題の人混みエリアは回避してますけど)
そんなスポットでは日本人観光客は減少傾向とも報じられていますが、そういう感覚は旅の質向上には大切。
古都・京都はそんなオーバーツーリズムの都。その中でも観光客が集中しているエリアにあるミュージアムの記録です(かなり古め)。
京都市の人口は143万人。伏見区が頭一つ抜けていて約27万人と最多。
最小なのが今回のミュージアムのある東山区で3.5万人。
東山区は古刹の神社・仏閣を擁し、祇園など外国人好みと思われる映えスポットも多く、メディアでは観光公害の典型のようにも扱われます。
住民の絶対数が少ないのであれば、公害被害の不満の声も相対的に少なくなるような気がしないでもありませんが、報道頻度の問題でしょうか。

京都国立博物館
かつては広大だった方広寺の旧境内に立地するのが京都国立博物館(以下キョーハク)。現在も博物館の北側には方広寺と豊国神社が鎮座。
南側にはみうらじゅんが仏像のWe Are The Worldと表現した三十三間堂。
東側には長谷川等伯・久蔵が親子共演した障壁図で知られる智積院。
見どころは数多く、このエリアだけで日が暮れてしまいます。

京都国立博物館(以下キョーハク)の所蔵品は約9,000件、そして土地柄なのか寄託品が6,500件以上。
キョーハクらしさは、文化財保存修理所の存在。
1980年に設置されており、いわば文化財の病院施設。
京都府京都市東山区茶屋町527



昔の事はあまり記憶に残っていませんが、キョーハクにスタイリッシュな印象を受けるのは谷口建築の影響が大きい。

振り返るとチケット売り場の裏側はカフェ。通りの向こうにはハイアット。

ロダンの考える人は、当時の宝酒造の大宮庫吉社長からの寄贈品。
かつて丹波口(都の西の出入口)に置かれていた石柱。

丹波と山城の境にある老ノ坂は、明智光秀が本能寺の織田信長を討つべく進軍したと考えられる場所。
ただ石柱は江戸期のモノなので当時はなかったけど。今や京都の東側に。

本館をバックに熟慮するロダン作品。考えすぎるのもあまり良くない。

平成知新館はキョーハク開館100周年を記念して計画され、2014年に開館。現在の展示棟を務め、設計は谷口吉生(1937-2024)。
南門&その周辺もまた谷口建築。

谷口建築お約束の水盤は、知新館前と南門前の二段構え。

キョーハクの開館は1897年。
本館(現明治古都館)と表門(現西門)、塀の設計は片山東熊(1854-1917)。この3点はすべて重要文化財。
片山は東京国立博物館の表慶館(1908年)、奈良国立博物館の本館(現なら仏像館:1894年)の設計も手掛けています(どちらも重要文化財)。
現在の本館は耐震性の問題があって、2015年から閉鎖中。





かつての本館で開催されたのが狩野永徳展(2007年)。
開催期間は約1ヶ月と短く、特別展を本館で見たのは記憶ではその時だけ。

当時は写真など撮らずに見て回っていたので(たぶん撮影禁止)、作品画像はトーハク所蔵の品々を中心に補完します。

狩野永徳
狩野永徳(州信:1543-1590)は松栄の子。祖父から続く狩野派というシステムを強固なモノにした人。
子孫は徳川将軍家にも重用され、江戸時代の画壇ピラミッドの頂点の地位を確立します。
同時代の権力者、織田信長の安土城、豊臣秀吉の大坂城や聚楽第を飾る作品を手掛けています。また公家の最上位近衛家も顧客。
秀吉にはその才能を特に愛され、大徳寺に残る信長像(やや面長の裃姿)と伝永徳作とされる大徳寺総見院の信長像(衣冠束帯姿)も担当(多分に秀吉の権威正当性のアピールか)。特別展ではどちらも出品。
檜図屏風(1590年)はトーハク所蔵の国宝。八条宮家の伝来品。

永徳晩年の作品で、ダイナミックに檜を表現。THE狩野派。

唐獅子図屏風は、皇居三の丸尚蔵館の所蔵。
右隻が永徳の作(桃山期)。左隻は常信作(江戸期)による補完。

旧長州藩主・毛利元徳から皇室への献上品。
常信(1636-1713)は永徳の曾孫で江戸の人。
トーハクでも、時々高精細複製品が展示されます。

伝永徳作を含めても、現存作品が少ない永徳さん。
秀吉の足跡を辿ると珍しい場所にも。

吉水神社(吉水院:奈良県吉野町)は奈良の山奥にある社。
御所造(武家造では正面に棚をレイアウト)で後に桃山式に模様替えされた書院はかつての御所。その正面の障壁画が永徳作。
御所の上座には足利政権に対抗して吉野へ落ち延びた後醍醐天皇の玉座が。
桃山期に豊臣秀吉が吉野で花見を催した時には、神社に5日間滞在。
秀吉によって建物や宝物が修繕・寄贈されています。
桜の図屏風は永徳晩年の作と伝わります(太閤愛用の品だったらしい。さすがに図録には載っていません)。ただ状態があまりよろしくないような。

吉水神社には狩野山楽の屏風も伝来。
また源頼朝に追われた弟義経が潜伏した部屋やゆかりの品々が、けっこうフツーに陳列されています。

現在でも決定版と思われる特別展の図録(絶版)。古本屋でも入手可能。

発行:2007年 314ページ
毎日新聞社・NHK・NHKきんきメディアプラン
編集:京都国立博物館
永徳の死因は過労ともいわれています。信長や秀吉からのオーダーには量だけでなく、現代人には分からない緊張感も伴っていたと思われます。
永徳が亡くなる1590年には秀吉の奉行前田玄以が、御所の障壁画制作を長谷川等伯に発注しています。
永徳はそのオーダーの妨害に成功しますが、仕事を奪われる危機感に加えて等伯の力量も認めていたのでしょう。
ちなみに後に等伯は秀吉から、祥雲寺の障壁画受注に成功します。現在では智積院の代表作となっている桜楓図(国宝)をはじめとする障壁画群です。
永徳の父と弟たち
永徳の父と弟たちの作品もいくつか
永徳の父が狩野松栄(直信:1519-1592)。元信永仙の子。

柳に鵯図(常盤山文庫蔵)の解説には、素早い筆致で幹や枝を描写と。
松栄作の益田元祥像(複製:原本は島根県立石見美術館蔵)。

毛利家の重臣となった益田家は、雪舟のパトロンでもあり当主の肖像画も描かせた石見の有力国衆。同じノリで狩野派にも肖像画を発注か?
そして松栄と永徳の親子合作の襖絵(もちろん特別展でも展示)が、大徳寺聚光院に現存しています。
もう20年ほどの昔になりますが、トーハクで開催された特別展にも足を運んでいます。大徳寺が何なのかもよく分からずに。
(現在よりお得なパスポートを持っていたので、特別展は片っ端から)

2003年10月-12月 @トーハク
当時発行の図録には、親子で描いた聚光院方丈の襖絵を網羅(永徳展の図録よりも考察もふくめて詳細に)。

発行:2003年 107ページ
NHK・NHKプロモーション・日本経済新聞社
編集:東京国立博物館・大徳寺聚光院
NHK・日本経済新聞社
図録のメリットは忘れたころに細かく確認できる事。
また出品作の所蔵先や関連図録を把握できるのも大きい。
松栄・永徳親子は豊後の大名大友宗麟の居城丹生島城(後の臼杵城:大分県)の障壁画も手掛けたとされています。
お城のほとんどは1587年に灰燼に帰したとされていますが、時期的に島津家の豊後侵攻によるものでしょうか?
大分県内の大友ファンが「島津のヤツらが・・・」と島津家を目のカタキにする歴史の1ページです(確かに現存する大友家のお宝はあまりない)。
聚光院の件を考えれば、現存していれば国宝級か?
続いて弟たちを
狩野宗秀(元秀:1551-1601)は永徳の次弟。

宗秀作品の2点、北野経王堂図扇面と信長像(複製)はトーハクの所蔵。
ややこしいのですが、トーハク信長像の原本は長興寺蔵(愛知県豊田市)。
その原本のベースモデルになったのが、大徳寺蔵の信長像(永徳筆)。

狩野長信(休白:1577-1654)は永徳の末弟。

トーハク所蔵の花下遊楽図屏風は兄と並ぶ国宝指定。
右隻の中央部には見ての通りの空白が。実は関東大震災で焼失しています。

こちらは残っていた写真からキャノン㈱、アイメジャー㈱、㈱エム・ソフトらによって復元された高精細複製品(2018年)。
ここ数年高精細複製品がよく見られるようになりましたが、トーハクでは狩野派も含め複製品がたびたび展示。
ライティングの縛りが少ないのか、国宝室とは印象がガラリと変わります。
華やかなお花見風景がより広がります。
再び永徳にフォーカスした展示があれば相当に楽しめそうですが、その可能性はいかに。

ミュージアムショップは知新館内にありますが、南門出口にもちょこっと。

キョーハクでは伊藤若冲展や海北友松展に佐竹本三十六歌仙の再結成と京都ならではのトンがった特別展も開催されてきました。
昔のトーハクパスポートは、「キョーハク」や「ならはく」の常設展・特別展も融通が利いた懐の深さでしたが。
圧倒的な所蔵品の幅というトーハクに対し、歴史の奥深さで対抗するかのようなキョーハク。市内に大小さまざまなミュージアムがあふれる京都でも、定点観測の欠かせない博物館の1つ。

