守護から戦国大名そして公爵へ【仙巌園:島津家別邸:島津家のトビラ3】鹿児島県鹿児島市
日本各地に見られる旧大名邸や庭園。かつては権力の象徴でしたが、現在では日本人に加えて外国人も押し寄せる地域の観光スポット。
邸宅&庭園の良さは、歴史を知らなくても見て分かりやすいその美意識。
ただその家の長い歴史を理解するには、少々のお勉強も必要。
今回は数ある武家の中でも、かなり長い歴史を持つ一族のお宅へ。
長い歴史を形容する言葉「鎌倉以来」。
しかも領地が変わらずとなると、かなり限定されるレアな一族。
ザックリ変わっていないを含めれば、奥州の南部家に伊達家、相馬家。
また九州では肥前の松浦家や肥後の相良家(島だと宗家や五島家も)。
そして今回の邸宅は、最大クラスかつ明治維新でもメインキャストを務めた歴史を持つ島津家の旧本邸です。
九州の南部・鹿児島市の人口は580,000人。
県内では突出した人口を擁する県庁所在地には、県民の約40%が集中。
旧大名家の邸宅&庭園は自治体へ寄贈されるケースが目立ちますが、島津家は本拠とした鹿児島で、その邸宅をアップデートさせつつ経営も維持。

島津家別邸:仙巌園
仙巌園(磯庭園)のはじまりは、19代当主島津光久(1616-1695:父は忠恒)が1658年この地に別邸を構えた事から。

邸宅と庭園だけではなく幕末には島津家の工業化への拠点となり、現在では各種おみやげショップに飲食店やミュージアムが集結し、体験型コンテンツも充実した島津家のテーマパークへと成長しています。運営は島津興業。

鹿児島県鹿児島市吉野町9700-1

島津家とは
武家では最古のカテゴリーに属するのが島津家。
その始まりの人と中興の三代(四兄弟を含む)について触れておきます。
島津家の祖は島津忠久(1179-1227)。
大阪の住吉大社の生まれで、父が源頼朝説もあり。
鎌倉幕府から島津荘(近衛家の荘園:現宮崎県都城市)の地頭(荘園の管理人)とされ、後に薩摩・大隅・日向国の守護職に。
惟宗姓から島津へと名乗りを変えています。

祝吉御所は、下向した忠久が御所を構えたとされる場所。
宮崎県都城市にある島津発祥の地ですが、現在は住宅街のど真ん中。
江戸時代に島津家の居城として落ち着いたのは鹿児島城(鶴丸城)。
焼失していた御楼門は、2020年に再建(日本最大)されています。

長い歴史の中で多くの分家・庶流を作り出している島津家。
息子と孫の三代に渡る統一事業によって惣領家の基盤を確立したのが、島津忠良(日新斎:1492-1568)。
島津家の庶流・伊作家から相州家を相続し、中興の祖と呼ばれています。
日新斎の残したいろは歌は、鹿児島人にとっては心のバイブル(たぶん)。
オープニングは「昔の人の良い話を聞いても、自らの行動としなければ意味はない」(意訳)との深ーいお言葉。

忠良の子が島津貴久(1514-1571)。
相州家から宗家を継承し、島津家を戦国大名化させた人。また鉄砲を実戦で運用した日本最初の人。
貴久の子(4兄弟)らは才気にあふれ、親子の力で薩摩統一へと導きます。
また貴久はフランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教を許しています(後に禁止)。豊後の大友氏ほどキリスト教ベッタリにならなかったのは、彼の深い洞察力からでしょう(カトリックを警戒したのは平戸・松浦家も同様)。
貴久の子で4兄弟の長兄が島津義久(1533-1611)。
薩摩・大隅・日向を統一し、一時は九州全体の制圧を目前に。

しかし豊臣秀吉の攻勢の前に屈服し、秀吉政権下の大名に。
クセ強めの家臣団を統制し、外交交渉能力は一流、細川幽斎から古今伝授を受けた一面も持っています。
「三州の総大将たる材徳自ずから備わり」とじいちゃん(日新斎)から評された人。
秀吉との和睦のために、義久は頭を丸め名を龍伯(僧体)と改め対面しています(上の写真)。ただし中央権力に全面的に屈したのはこの時だけか。
4兄弟の次男は島津義弘(1535-1619)。
島津家の主要な戦に参陣し、渡海して朝鮮半島へも出陣しています。

関ヶ原からの撤退戦は現在でも語り草(イベント化した妙円寺詣りも)。
常に最前線に身を置いたチェストの人。
じいちゃんの評価は「雄武英略を以て他に傑出」。
子の忠恒(後の家久)は義久の養子となり宗家を継承しています。
また文化面では朝鮮から連れ帰った陶工が薩摩焼の源流に。
上の写真は騎乗し采配をふるう義弘の雄姿。山形の最上義光騎馬像と双璧。

慶長の役では義弘は全羅道海南に駐留。地元住民に日本軍に従うよう指示。
義弘を筆頭に、蜂須賀、生駒、小西、鍋島、中川と西国大名がズラリ。
島津家は国元のアニキ(義久)が唐入には協力的ではなく、なにかと苦労したのは義弘&豊久(甥っ子)。関ヶ原もその延長線上に。
島津歳久(1537-1592)は4兄弟の三男。
兄弟の中ではやや隠れがちな日置島津家の祖。
秀吉の能力を認めていた家中では少数派。ただ九州攻めでは抗戦姿勢を崩さなかったこともあり粛清されるという悲しい結末(自刃)に。
じいちゃん評「始終の利害を察するの智計並びなく」は彼の最期そのもの。
信長の野望での能力設定は、兄弟では唯一のフツーの人。
末弟は島津家久(1547-1587)。最前線の指揮官として九州を転戦。

龍造寺隆信や長宗我部信親、十河存保という大名クラスを討ち取った戦上手。「軍法戦術に妙を得たり」とはおじいちゃん評。
秀吉の九州攻めでは降伏後に急死。病死とされていますが毒殺説も。
家久は樺山善久(島津家重臣で義父)から古今伝授されています。
三州統一後には「そうだ京都へ行こう!」と上洛して、畿内の公家や連歌師と交流。織田信長の軍勢も見物しています。
その時の紀行文を「中務大輔家久公御上京日記」として記録。
ちなみに江戸時代に藩主となる同名の家久(忠恒)は甥っ子。
島津家は武門のイメージが強めですが、文化面でもそのセンスがチラチラと見え隠れ。ただ華美にはならないのが鎌倉以来の家の矜持でしょうか。
それでは仙巌園へ

庭園
仙巌園は噴煙たなびく桜島を築山に、そして錦江湾を池に見立てたというあまりにも豪快すぎる庭園。

元々の正門は朱色に塗られた錫門(瓦は錫:通れるのは当主と嫡男のみ)。

現在の正門は1895年に29代忠義(1840-1897:最後の藩主)によるオーダー。部材は磯邸の裏山の樟を使用(地産地消)。

まずは庭園から。

庭園に踏み入れるとすぐ目に入るのが、1884年にこれまた忠義オーダーの石灯籠。獅子を上に乗せている笠石は8畳ほどの大きさ。


鶴灯籠は28代斉彬(1809-1858)が手掛けた日本最初(1857年)のガス灯籠で、横浜のガス灯(1872年)に先駆けています。


琉球国王からの献上品と伝えられる東屋。


高升はサイフォンの原理を利用して池へと配水する水道設備。


仙巌園は、遠く鹿児島市内中心部が望めるロケーション。

よーく見ると、山の稜線(奥にうっすら)の左側には開聞岳(薩摩富士)のシルエットが。



御殿
別邸は明治期に忠義が本邸として使用。現在では当時の3分の1の規模に。


邸内最初の部屋・鳳印の間は嫡子のための部屋。
床の間の甲冑は1891年にロシアのニコライ2世来訪時に、先導した忠重(後の30代)が着用したもの(複製:子供用)。
そして忠義は170人の甲冑姿の武士に囲まれていたそうです(怖ェー)。

思無邪(思い邪なし)の書は斉彬筆(尚古集成館蔵)。
5代将軍徳川綱吉も書き残していますが、為政者の基本でしょうか。
大正時代になると玄関の間に変更。
こちらは、ニコライ2世即位に際して忠義が贈呈したもの(原資料はエルミタージュ美術館蔵)。

原資料は12代沈壽官が制作、複製品は15代沈壽官によるもの。複製と呼ぶのが正しいのかモヤモヤしてしまう逸品。

邸内からも桜島がよく見えます。

謁見の間は賓客応接用の部屋(1884年改築)。

天井の照明は明治期からのオリジナル。電力は水力発電から。


御居間は当主が1日の大半を過ごした部屋。昼食もココで。


部屋を分けて飾られる2隻12面の鷹図屏風は斉彬筆(原本は尚古集成館)。
高精細カメラ撮影による複製。


こちらの御小座(披露の間)は、贈り物が届いた時のお披露目用というセレブなお部屋。

テーブルとイスは昭和天皇・皇后両陛下が行幸啓でご使用。
中庭としては結構なボリューム。謁見の間からも眺められるレイアウト。

お洒落な雨樋は銅製でしょうか?

手の込んだ装飾(金型かも)よりも、樋そのものの造形が気になります。

プライベートスペースも。
謁見の間の真裏にある御寝所。床下には断熱効果を高めるもみ殻を敷設。

忠義は規則正しい生活を送られたそうです。
朝は先祖への礼拝から始まり、日中に仕事をこなすのは羽織袴姿。
16時ごろにはおやつを食べたり散歩をしたり。そして21時には就寝。

忠義専用バスルーム。お湯は別の場所で沸かすタイプ。
湯舟は再現ものだそうです。周囲が広すぎて落ち着かない。

忠義専用トイレ。健康チェックも兼ねるのがお殿様の日常。


シンプルなデザインですっきりしているけど広すぎる廊下。
畳の敷き方が面白い。

忠重(1886-1968)が島津家30代&公爵を継ぐと住まいは東京へと移され、こちらは別邸に。ちなみに忠重は仙巌園の生まれ。
正確な場所はビミョーなのですが、子供のころに庭園を眺めるお部屋(縁側?)でお茶を飲んだ記憶があります。
現在の喫茶スペースは専用の建物がありますが、当時のルールは今よりユルかったのかも。

尚古集成館
尚古集成館は1923年に開館したミュージアム施設。
島津家伝来の史料を中心に約1万点を収蔵。

富国強兵・殖産興業を推進すべく斉彬が造り上げた反射炉、溶鉱炉、ガラス工場、鍛冶場等から構成されたのが集成館。
現在の本館は1865年に完成した機械工場(日本では現存最古:重要文化財)がベース。集成館に関連する旧鹿児島紡績所技師館(イギリス人技師の宿舎:重要文化財)も現存しています。
そして尚古集成館は明治日本の産業革命遺産(世界遺産)の1つ。
九州を中心に8県に跨がる世界遺産ですが、日本全体に網が掛けられたザックリしすぎな定義。

工業化を主導したのが28代斉彬(1809-1858)。幕末四賢侯の1人。
祖父の影響を受け、蘭学に傾倒した当時の蘭癖大名の1人。
西郷隆盛(1828-1877)や大久保利通(1830-1878)らを登用。
こちらは、側近だった山田壮右衛門に口頭で伝えられた斉彬の遺言。

後継は弟の久光かその子・忠義に、そして幼い嫡男の哲丸(後に早逝)を順養子とし、極秘書類は焼却せよという内容(玉島島津家資料)。
斉彬没後の1863年には、薩英戦争でイギリスにボコボコにされた薩摩藩。
世界の中での自身の力量を知り、結果イギリスと急接近して仲良しに。
相手の力量を素直に認めリスペクトを忘れないのは島津家の伝統でしょう。

別館の開館は1990年と比較的あたらしめ。
現在では本館のリニューアルが完了し、別館は閉館しているようです。
2017年にはかつての島津家金山鉱業事業所をリノベしたスタバがオープン。
地元の方々の利用なら分かりますけど、観光客がわざわざお茶が名産の鹿児島まで来てコーヒーというのも・・・
ちなみに分家の島津重富荘(忠義の実父・久光別邸)が海沿いを車で5分ほどの距離に現存しています。
現在はフレンチレストラン兼ウェディング施設に。
訪問時の仙巌園はやけに中国人の団体客が多かったので、帰り際に駐車場のスタッフに尋ねてみると、ちょうどクルーズ船が入港したタイミングでの団体さんだったようです。
かつての島津家は琉球を通じて中国や東南アジアとも盛んに交易した歴史をお持ち(密貿易も)。
21世紀の交易?は、巨大客船で乗り込んでくるのがデフォルトに。
日本の近代化にも重要な役割を果たした薩摩の島津家。
東京や京都から遠く離れた鹿児島は、そんな人々を育んだ武家800年の都。
