復興完了予定は遠く2052年!【熊本城展:永青文庫】東京都文京区
2016年に発生した熊本地震から10年の節目となる2026年。
「東京から熊本城の魅力を発信!」と銘打たれた企画展が、かつての肥後藩主家のミュージアムで開催されました。
熊本城は現在も修復進行形ですが、並行して解体調査も行われており、完成は2052年予定と気の遠くなるプロジェクト。
400年前と比べれば重機類は進化しており、何故それほどのエネルギーと時間が必要なのかと思ったりもします。
ちなみに熊本城は江戸時代にも何度も災害被害に遭っており、都度修復されてきた歴史を持っています。
当時の修復記録も藩の文書類として残っており、令和の大修復でも調査による新発見もあり、これも熊本城の歴史の1ページに。
今回の記録は、熊本城の歴史と復興の現在地を併せての企画展です。

永青文庫
永青文庫は肥後細川家に伝来した大名道具や美術品を所蔵・展示する私設ミュージアム。所蔵品は国宝8点、重要文化財35点を含む約6,000点。
文書類(重要文化財の細川家文書等)は旧領国・肥後の熊本大学付属図書館(熊本市)に寄託され、現在も解読が進んでいます。
また熊本県立美術館(熊本市)では、本館内と別棟に細川コレクションとして常設展示室が設けられています。

永青文庫は旧細川侯爵家の家政所(事務室:昭和初期の建物)です。
家政所といっても4階建ての建物なので、一般の住宅よりもはるかに立派。

ちなみにかつての本邸は、隣接する和敬塾の本館として現存しています。
現在は細川家の手を離れていますが、見学は予約制で可能(通常非公開)。

植栽が森のように生い茂っているため、本邸の庭からは永青文庫の屋根がわずかに見えるだけ。

東京都文京区目白台1-1-1

東京でくまもんのお出迎えがあるのは、銀座熊本館とココだけ(たぶん)。
例によって館内は撮影が一切禁止です。
熊本県立美術館での展示では一部OKとなるケースもあります。
永青文庫は展示スペースの余裕のなさや、古そうな展示ケースゆえ?

熊本城の前に、肥後熊本家の基礎を築いた3人とゆかりの品々&場所を。

肥後細川家の人々 その1:細川忠利
細川家から初めて肥後の国の主となったのは細川忠利(1586-1641)。
細川忠興と玉(ガラシャ:明智光秀娘)の子で、長兄の廃嫡と次兄の出奔によって肥後細川家3代目となった人。
忠利像(複製:賛は沢庵宗彭、原本は永青文庫蔵)

忠利は元服前から江戸で人質生活を送っています。
ところがその頃の徳川秀忠(2代将軍)との関係、幕府の中心人物や旗本衆とのパイプが、その後の細川家の武器(情報収集力)となります。
また人質時代からの父・忠興との膨大な書状のやり取りは、江戸初期のリアルな政治状況を今に伝えています。
空気抵抗が多すぎな忠利所用の僧頭巾形兜(熊本城顕彰会寄託)。

忠利は家督を継承すると豊前小倉城主に。小倉時代にはワインを製造。
そして肥後加藤家が改易されると、肥後54万石を拝領する事に。

熊本城主としてお国入りした忠利は、お城のあまりのスケールに驚いたと。また大名庭園として著名な水前寺成趣園を創設。
ちなみに熊本グルメの代表格「からし蓮根」は、病弱だった忠利の健康食。

肥後細川家の人々 その2:細川忠興
忠利の父は細川忠興(三斎:1563-1646)。正室は玉(ガラシャ)。
織田信長に仕え、初陣での働きぶりは称賛する信長直筆の感状が現存。
本能寺の変後は秀吉の臣下となって、唐入りも含め主要な戦いに参戦。
三斎(忠興)像はトーハク蔵。
忠興の25回忌に作成された、永青文庫蔵を原本とする模本。

秀吉没後は家康に接近。関ケ原の戦いでは東軍の主力として活躍し、戦後には豊前中津39万石の大身に(この時に前領主黒田家との関係が険悪に)。
のちに居城を中津から小倉城へと移し、大改修しています。
忠興書状は家老宛(複製:原本は永青文庫蔵)。

内容は家康との面会レポート。
こちらはガラシャ消息(忠興宛の手紙)。

文末に「からしや」がかろうじて読めます。
永青文庫にもガラシャ消息は、十数通が現存。
忠興は茶の湯では千利休の高弟として知られ、また武具のデザインにもそのセンスを発揮した戦国期のリアル文武両道。
忠利が肥後に移封されると、子の立孝を伴い隠居城の八代城(熊本県八代市)に入っています。立孝は後に宇土藩主に。

八代城は一国一城令の希少な例外で、加藤家の遺産。
立派な濠や石垣に加え、天守まで備えていたそうです。

肥後細川家の人々 その3:細川幽斎
忠興の父が細川藤孝(幽斎:1534-1610)。
肥後細川家の祖と位置付けられています。
三淵晴員の子として生まれ細川家の名跡を継承。
室町12代将軍足利義晴の御落胤説あり。
13代将軍足利義輝に仕え、義輝没後には義昭(義輝弟)擁立に奔走。
トーハク蔵の幽斎像(模本:原本は南禅寺天授庵蔵)

義昭と織田信長の関係が不安定になると信長家臣として重用され、明智光秀の与力に。本能寺の変後には隠居していますが、秀吉にも重用され側近に。
和歌だけでなく有職故実や諸芸(能楽や蹴鞠、包丁)にも通じ、諸道を極めた一流の文化人。

関ヶ原の戦いでは本戦には参戦せず、自領の田辺城に不利な状況下で籠城。
後陽成天皇の勅命により最終的に開城しますが、西軍勢力を長期間引き付けた事で本戦勝利に貢献しています。
藤孝の命を救ったのは、三条西実枝から授けられた古今伝授。
こちらは自筆の和歌短冊「雪中聞鶯」

六家抄は連歌師肖柏によって、新古今和歌集の代表的歌人6名から選抜・収録された和歌集。

黒田如水(官兵衛:孝高)へと贈られた和歌集は、幽斎による写本(1576年:桐箱入り)。黒田家では家宝の扱い。
藤孝が八条宮智仁親王(桂離宮の人)に古今伝授を行ったという古今伝授の間は、明治維新後に八条宮家から細川家へ下賜。
水前寺成趣園には1912年に移築復元されています。
現在は庭園内のカフェに。

企画展の主役にして、忠利の居城へ。
熊本城
熊本城は豊臣秀吉子飼いの代表格加藤清正により築城された名城。
清正は豊臣大名らしく、白川の流れを変えて外堀化しつつ城下町を形成。
現在の熊本市中心部の原型を作り上げています。

写真は2023年時の大天守&小天守復興後の姿。
3年前でも石垣が崩れた箇所は多く、城内敷地には非常に多くの石材が並べられて保管されていました。
また現在の宇土櫓は解体調査中で、その姿が復活するのは2032年の予定。

2026年4月-6月 @永青文庫
熊本城南面大観図は松山雪堂作。

花畑屋敷方(現在のサクラマチクマモトあたり)から描かれた熊本城の姿。
松山雪堂は矢野派に学んだ明治期の絵師。
天守は明治維新後も現存していましたが、1877年(西南の役)に焼失。
2020年といえば、もはや風化しつつある流行り病のころ。
ステイホームを西南の役以来の籠城と解釈したコピーが秀逸。

これも自然災害。市に無償提供された画像もまた歴史の1コマ。
そういう状況下が続いていた2021年に、天守閣は復活。

相変わらず移動にはある程度の制限があった時期。熊本城は二重苦の時代。
加藤神社にはくまもんのダルマが(2023年)。

ここ数年の永青文庫企画展については、図録が発行されるケースもあれば、年に4回ほど発行される「季刊 永青文庫」が図録としての機能を代用。

128号は現地レポートがメイン記事。
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震災直後は各メディアが被災地一色になりがちでしたが、その後のレポートは徐々に減少していきます。5年も経過すれば得られる情報は、年に1回ほど災害が発生した日のみ、お茶濁しのような特集が組まれる程度。
熊本地震は10年前、東日本大震災が15年前。
30年前の阪神淡路大地震にいたっては、記憶の風化という声もちらほら。
交通インフラや街の中心部が復興から再開発に変わり、その風景の変化と共に過去の記憶が薄れていくのは仕方がないのかもしれません。
(熊本では特に菊陽から大津・阿蘇ルートへの変わりよう)。
10年経過した熊本城の現在地は、ビジュアル的に分かり易い大天守・小天守は復活したものの、そのすぐそばの宇土櫓は完全解体され、調査・再組立のため幕で覆われています。
時代の流れの速い現代において、2052年の熊本城はかつての威容を取り戻せているのでしょうか?
また何気にクラウドファンディングを連発している永青文庫は如何に?


