企業城下町へと変貌した地味すぎる日向の城下町【延岡城跡・内藤記念博物館】 宮崎県延岡市
10年ほど前までは、陸の孤島と呼ばれていた九州の東側。
具体的には大分県と宮崎県を指しますが、東側は高速道路で繋がっていなかった事が要因(もちろん新幹線もない)。
現在は自動車道が一応繋がり利便性は向上しましたが、対面通行区間や無料区間も残っていて、いまだ完成途上(大分市-宮崎市間は車で約3時間)。
今回の記録は、その大分と宮崎の中間地点にある城下町。
延岡と言えば旭化成。旭化成といえば延岡(個人的イメージ)。
と言いつつ企業製品としてはサランラップしか知りませんが、陸上長距離界や柔道とスポーツ界ではなにげにメダリストを輩出しているのが旭化成。
中でも双子のマラソンランナー宗兄弟が個人的には印象強め。
宮崎県の北端にある工業都市が延岡市。古くは縣と呼ばれたこの地域。
人口は109,000人と県内3番目の規模。

延岡城跡
延岡城は、筑前から移封された高橋元種(1571-1614)によって1603年ごろに築城されています。元種は筑前の国人秋月種実の次男。
ちなみに父・種実は筑前から日向財部(のちの高鍋)に移封されています。親子の移封は、共に豊臣秀吉の九州仕置によるもの。

高橋氏改易後の藩主家は、有馬氏、三浦氏、牧野氏と変遷します。
そして1747年に陸奥磐城平(福島県いわき市)からはるばる引っ越してきたのが、譜代の内藤氏。幕末まで藩主の座にあったのは125年間。
内藤家の石高(表高)は7万石と前領地と変わりませんでしたが、実高は減少したと言われています(実質減収でけっこう苦労したと)。
ちなみに内藤家には越後村上系や信濃高遠系等いくつかの系統がありますが、延岡藩主家が宗家筋です。
安土桃山期の当主内藤家長は弓の名手として知られ、関ヶ原の前哨戦となった伏見城籠城戦で戦死した人。

地図で確認できるように、お城は五ヶ瀬川と大瀬川が外堀代わり。
入口となるのは、小ぶりな北大手門。
1992年の発掘調査を受け、江戸期の絵図等を参考に四脚門が復元されています。石垣は乱積みで、有馬時代のものとされています。

足を運んだのは2023年。北大手門の手前では、なにやら改修中。

大手門をくぐって回り込んでみると、改修中だったのは門。
その内側は石垣の上から見渡せました。

内藤家墓所は元は別の場所にあったそうで、引っ越してきたのがこの場所。
居城の入口というのは、他には見た記憶がありません。
本来は門のそばに説明看板があり、ビニールシートと柵で見えなくなっていた模様。

墓所は通常も非公開の設定。あまり手入れがされていないようにも。
大手門から進んでいくと、目に入ってくるのは高石垣。

二ノ丸から見えるのは高さ19m、総延長70mの石垣(本丸部分)。
その名もズバリ「千人殺し」。
伝説では要所の石を引き抜くと、崩れ落ちるという仕掛けが。

延岡城跡では見所の1つのようですが、草ぼうぼう。
築城バブルの頃のお城らしく、石垣は充実しています。

本丸で城下町を見守っているのは、最後の藩主内藤政挙(1852-1927)。

一旦は東京に出たものの延岡に戻ってきて、地元の経済・教育の基礎を築いた人。その結果が延岡の工業化に大きな影響を与えています。
本丸からの眺めは・・・

後ほど、あの丘の上の建物へ。
城内には日本庭園的な遺構が残ります。ややビミョー。

三階櫓は天守代わりとされた城内最大の建築物。
オリジナルは有馬時代の1655年に完成。1683年の火事による焼失後は再建されず、石垣のみが残ります。

ちなみに延岡城には天守台も現存しています。
ただ実際に天守があったかは、決定的な資料が少なく不明。
お城の東側には、近代的で黒塗りされた21世紀の政庁。

そして天守台にあるのが鐘楼。
現在の鐘は、2代目の1963年製(初代は博物館に保存)。

1878年から鐘守によって1日に6回、市民に時を告げているという現役の鐘。
一般人は立ち入り禁止の聖域です。
また鐘を衝く様子の撮影は、鐘撞者の許可が必要。
お城の南側には旭化成。

川の向こうには旭化成関連の敷地が広がっています。煙突は絶好の目印。
工場は住宅街に囲まれていますが、武家屋敷ならぬ従業員屋敷か?
吹上坂はつづら折りにされた通路。その石垣も見所の1つらしい。

石垣はノミでハツって整えられ、一定のサイズに統一された割石。
見栄え重視らしいのですが、それほどでも・・・
城跡なのは間違いありません。ただ建造物が少ないせいかイメージが湧きにくく、これといった特徴(パンチ)に欠けた印象の延岡城。
お城は観光コンテンツにされがちですが、思いを馳せる系では・・・

延岡城跡はマニア向けなのかもしれません。
ただお散歩コースには最適な高低差とスケール感。
お宝の見学は、さきほど見えていた丘の方に。

内藤記念博物館
内藤記念博物館は歴史系のミュージアム。
展示の主力は旧藩主内藤家の大名道具類で、桃山期から江戸初期の能狂言面72点からなるコレクションが白眉。もちろん内藤家以前についても展示。
入口となる東門は、1892年建築時のオリジナル。

最後の藩主・内藤政挙(銅像の人)は明治維新後の1892年に、再び旧西の丸に住居を構えています。
そして跡を継いだ政道は1934年に延岡城址を、1939年には西の丸邸宅を市へと寄贈しています。
のちに邸宅は、内藤記念館として市民に一般公開。
残念ながら最初の記念館は、1945年の戦災で焼失しています。
その後の1963年に建設されたのが前記念館。
その前記念館の老朽化のため、2022年リニューアルされたのが現博物館。

宮崎県延岡市天神小路255-2

古いパンフには当時の東門が。化粧直しされているようです。


博物館はやや高低差のある立地、違和感のない外観のEVも完備しています。

展示室内は撮影不可。
内藤家の大名道具が惜しみなく展示されています。
内藤家は「陸奥磐城平から日向延岡に引っ越した大名」として知られています。東北から九州への転勤はかなりのレアケースらしく、多額の経費はもちろん文化や生活環境の変化も大きな負担に。

博物館2階からは「千人殺し」と煙突。左側にはチラリと市役所が。

おまけに東京での内藤家も
実は50,000点にのぼる内藤家文書は、1963年に東京の明治大学に寄贈されています。過去には明治大学博物館で、その文書群を中心とした企画展示が。

発行:2022年 119ページ 明治大学博物館
内藤記念博物館蔵の品々は、企画展での発行図録にも掲載されています。
現在もこちらから入手可能(2022年度のページ)。
図録後半では、東京の邸宅写真が掲載されています。
ハーフティンバー様式のその邸宅は、西の丸邸を延岡市に寄贈後に東京での本拠としたもの。貴重な写真と充実の解説が盛り沢山。
ちなみに邸宅を設計したのは、前田家鎌倉別邸(現鎌倉文学館)を設計した渡辺栄治。外観は尾張徳川侯爵邸(現八ヶ岳ヒュッテ)に似ています。
延岡に戻ります。

日本庭園は、1963年建設時の記念館が由来。
また庭園と和室棟は有料で一般利用が可能。
雰囲気もよく、撮影にも使えそうな仕様になっています。


蔵のような建物は、太平洋戦争の生き残り(新築同様にリニューアル)。

現在は休憩施設として新たなお役目が与えられています。
江戸時代の豊後から日向にかけての海岸線には杵築、日出、臼杵、佐伯、高鍋、飫肥と10万石に満たない規模の藩が並んでいました。
そして地味な印象ではあるものの、どの町にも今も存在するのが城跡。
延岡は少し規模が大きめの7万石でしたが、やや城下町の雰囲気は薄く感じます(古くからの工業都市だったので、大空襲被害の影響か)。

一方で個人的には博物館の充実度は期待以上。ただそこにフォーカスするオタク的な見学者は限定的なのがつらいところ。
杵築から飫肥まで線で繋げて眺めてみると、その特徴・文化が比較できて見えてくるモノがあるような気はしますが。

