見出し画像

オリジナルから進化した唯一無二のパッケージ:岸和田城 大阪府岸和田市

日本国内にある現存天守は全12城(ほぼ天守クラスの櫓もいくつか存在)。
いわゆる江戸時代もしくはそれ以前に建てられた天守を持つお城の事です。
そしてオリジナルではないけれども、パッと見はお城と認識できる天守は日本各地に点在しています。
その大半はコンクリートで建てられた復興・模擬天守と呼ばれるタイプ。
ほとんどが街の目立つ場所にあり、展望台あるいは資料館として地域の大切な観光コンテンツになっています。


残念ながら現存天守は存在しないのが大阪府。
大阪のアイコンの1つ大坂城には現存櫓はあるものの、天守は典型的な復興タイプ。ただし周囲を見渡せば、その壮麗な石垣と御濠は超一級品です。
そして大坂城を小型化したかのようなお城が、大阪府南部にあります。

かつての和泉の国、泉南と呼ばれるエリアにある岸和田市。
綿花栽培から繊維産業で栄え、現在の沿岸部は工業地帯に。農業では泉州水なすの産地の1つ、人口は185,000人。
全国的にはだんじりのイメージが先行する城下町(たぶん)。

岸和田城=資料館+庭園

岸和田城の起源は室町時代。
幕府管領細川氏の庶流・和泉守護家の支配下から、主君細川氏を凌ぐ権勢を誇った阿波三好氏の支配を経て、織田信長、豊臣秀吉傘下の武将が配置された経済・交通の要衝。

犬走にはサギ?が多数

豊臣家が大坂夏の陣で滅亡すると、徳川家康は岸和田城には譜代大名を配置。尼崎城と共に西国大名に対する大坂城の最終防壁として位置づけます。

秀吉時代には五層の天守が築かれていましたが、江戸時代後期に落雷によって焼失しています。ただし織豊大名系特有の石垣は健在。

現在の天守は図書館!として建設された1954年の復興天守(三層でサイズ的にはかつての天守より10mほど低い)。城門と櫓は1969年の復興。
1970年に天守は郷土資料館として開館し、現在に至ります。

岡部氏初代藩主は宣勝のぶかつ(1597-1668)。
1640年に60,000石で岸和田に入封し、幕末までの230年間を統治。

ちなみに岸和田だんじり祭は、3代藩主岡部長泰おかべ ながやす(1650-1724)が城内に伏見稲荷大社を勧請した事が起源。

秀吉統治時代には紀州の根来・雑賀衆の攻撃を受け、落城寸前に追い込まれた歴史も。ところが白法師に化身したお地蔵さまが、無数のタコと共に敵を蹴散らしたという伝説が残っています(天性寺の蛸地蔵)。
「なんでタコやねん!」と突っ込むべきポイントか?
その後の秀吉は紀州も制圧し、全国統一事業を進めます。

大阪府岸和田市岸城町9-1

パンフ 2023年版

天守内部の展示は基本撮影不可。

岡部な空気
鉄板展示

天守から西側を望むと、遠く北西には神戸・六甲の山並み。

北西

そこから視線を左へと移すと淡路島が目視できます。思いのほか近い印象。
大阪湾は、かつての三好一族がネットワークを張り巡らせていたエリア。

西

お城の南側に見える近代和風建築は、現役のレストラン施設(かつて岸和田市長を務めた寺田氏の別邸)。庭園や茶室も完備。

岸和田五風荘

そして天守のすぐそばにあるのが、変わった趣の庭園。

ナスカの地上絵的な

その名も八陣の庭。岸和田城庭園として名勝指定されています。
作庭したのは重森三玲しげもり みれい

重森三玲

重森三玲(1896-1975)は岡山の人。
独学!で日本庭園を学び、全国の名庭を調査。
詳細な実測図は日本庭園史図鑑(全26巻:243庭)に。

その名前はフランスの画家ミレーから。子供たちにもカント、コーエン、ユーゴー、ゲーテ、バイロンと西洋の哲学者や作家の名前をチョイス。
ある意味キラキラネームのはしりか。
ちなみに京都の重森旧邸は現在美術館として絶賛公開中(予約制)。

三玲は京都古刹の庭園も手掛けています。参考として2ヶ所。

その1:大徳寺瑞峯院ずいほういん(1961年:京都市北区)

(参考)大徳寺瑞峯院 @京都市北区

茶面ちゃづらで知られる紫野の大徳寺。瑞峯院はその塔頭。
豊後の守護大名大友宗麟おおとも そうりん義鎮よししげ:1530-1587)が開基。宗麟は後にキリシタンになった人。方丈と唐門は重要文化財。
その方丈南庭は独坐庭どくざていと呼ばれ、開山400年記念として1961年三玲により作庭。塔頭の歴史からすると、かなり若いお庭。

(参考)独坐庭

岸和田城庭園同様に、石を立てて蓬莱山を表現した枯山水庭園。

そして方丈北庭が閑眠庭かんみんてい。別名は十字架の庭。

(参考)閑眠庭

横に3つ、縦に4つの石で控えめに十字架を表現(キリシタンだから?)。

その2:東福寺とうふくじ方丈庭園(1939年:京都市東山区)
2つめは伽藍面がらんづらで知られる京都五山の1つ東福寺。
境内の渓谷には3つの橋が掛かり、その眺めがご自慢のお寺。
そして方丈をぐるりと囲む庭園を1939年に作庭したのが三玲。
東福寺独特で方丈の東西南北に配されるのは、その名も「八相の庭」
八相成道(釈迦の生涯で重要な8つのイベント)からの命名。

南庭は枯山水のスタンダードなお庭。
蓬莱山と見立てられた巨石が目を引きます。

(参考)南庭 東福寺方丈庭園 @京都市東山区

向唐破風の表門は昭憲皇太后(明治天皇皇后)による寄進と伝わる恩賜門。
歴史を感じさせるお庭ですが、こちらもお寺の歴史からするとまだ若い。

西庭は市松模様を図案化した井田市松せいでん いちまつ

(参考)西庭

サツキを刈り込んで市松模様を3D化(作庭当初の古写真では芝生のよう)。
自然なというよりもデザインが前面に出たお庭。

北庭では、敷石と苔で市松模様を表現。
手前から奥へと市松模様が徐々に消えていきます。

(参考)北庭

イサム・ノグチ「モンドリアン風の新しい角度の庭」と評したのが北庭。
こちらのサツキは丸く刈られていて、伝統とモダンが融合したスタイル。

ちなみに東庭には、円柱の石で北斗七星が描かれています。

東福寺いわく、八相の庭は、
「鎌倉期の質実剛健な風格を基調に、現代美術の抽象的構成を取り入れた近代禅宗庭園の白眉」

岸和田城に戻ります。
天守から見下ろすのは八陣の庭(八相ではありません)。
完全なる枯山水は、モダンを通り越してアバンギャルド。
ちなみに天守閣内部は有料エリアですが、庭園は自由に散策OK。

1953年に作庭された庭園のモチーフは、三国志に登場する蜀の丞相諸葛亮しょかつりょう孔明こうめいが考案したとされる八陣(史実なのか不明)。
庭園は全方位360度から鑑賞できるように設計されているのが特徴。

お城ゆえのデザインでしょうか、京都の2庭より尖った印象を受けます。
ただ三玲デザインに感じるのは、小堀遠州こぼり えんしゅうのような平和な時代ではなく、武将として戦場を疾駆しつつ多くの庭園を残した上田宗箇うえだ そうこのエッセンス。
戦国の気風というか武人の荒々しさが感じられます。
前衛的なデザインは宗箇の師匠・古田織部ふるた おりべの文脈なのかもしれません。

ちなみに宗箇が大坂夏の陣で茶杓を削りつつ手柄を挙げた樫井古戦場は、岸和田からほど近い距離にあります。

実は作庭当初は天守がなかったそうです。ただし天守から俯瞰される事を想定してのデザイン。伝統的日本庭園にはあまりないであろう視点。
また1955年には、ユーゴー(長女:舞踏家)による野外舞踊の会場にも。
歴史的な文脈を持たないなんちゃって日本庭園が再現される城跡は多々あれど、ここまでモダンなお庭は他に例がないような。

重森三玲についての参考資料を。
白眉の図録は、2006年に松下電工汐留ミュージアム(当時)から出版された「重森三玲の庭」

重森三玲の庭 図録
発行:2006年 151ページ
松下電工汐留ミュージアム

美しい写真に加えて丁寧な解説と図版、また三玲の交流アーティストたち(イサム・ノグチや勅使河原蒼風)が紹介されています。
瑞峯院は掲載されていませんが、岸和田城庭園と東福寺方丈庭園(加えて龍吟庵)や旧重森邸は網羅。

岸和田城に戻ります。
二之丸には観光交流センターが設置。
常設の飲食店はありませんでしたが、地元のパン屋さん運営とおぼしき販売コーナー(パン&コーヒー)があります(2年前の話)。
商魂逞しい雰囲気はなく、最近鉄板化しつつあるお洒落なカフェもなく。
簡素ながら、長居することなくサクッと食べられるのが岸和田スタイル。
ちなみに二之丸庭園のデザインも三玲のようです(図録に掲載)。

市役所も城跡にあり、地元民らしき方々が和んでいるのは二の丸。
散歩コースにも適度なサイズという豊かな環境に恵まれた岸和田市。
お城あるいは歴史資料だけでなく、違った魅力にも触れられます。
庭園は平成以降も重森三玲のネームバリューを活かしつつ、イベント会場としても活躍しているようです。
かつてのお城とは違った21世紀の歴史を紡ぐ、進化系の岸和田城。

いいなと思ったら応援しよう!