なぜ員弁郡は「いなべ市」と「東員町」に分かれたのか? 1500年の歴史が示す「内向的」と「外向的」の軌跡
はじめに
員弁郡に存在する「見えない境界線」
三重県北部に位置する「いなべ市」。そして、その東側に隣接し、同じ「員弁(いなべ)郡」の名を唯一保持する「東員町」。
同じ「いなべ」の名を冠しながら、なぜこの二つの行政体は、現在「四町一市」と「一町一郡」という形で分立しているのでしょうか。この状況を、単なる偶然や、一時期の政治的判断の結果として片付けてしまってよいのでしょうか。
「いなべ市」は、2003年(平成15年)、いわゆる「平成の大合併」の先駆けとして、三重県第一号の合併市として誕生しました。(旧)北勢町・(旧)員弁町・(旧)大安町・(旧)藤原町という、鈴鹿・養老の山々に抱かれた4町が一つになったのです。
一方、東員町は、この5町での合併協議の枠組みに加わらず、「一町一郡」として独自の道を選択しました。
なぜ、あの時5町は一つにならなかったのか。
多くの人は、その理由を「平成の大合併」期特有の事情、例えば各町の「財政状況の違い」や、桑名市や四日市市への「地理的な利便性」といった、当時の政治的・経済的な損得勘定の結果だと考えているかもしれません。
しかし、もし、その「決断」が、単なる20年前の選択ではなく、1500年以上も昔の、古代の権力構造の形成期にまで遡る「歴史的必然」だったとしたらどうでしょうか。
本記事は、これまでの「いなべ市歴史探訪」シリーズ(旧北勢町、旧員弁町、旧大安町、旧藤原町、そして東員町)の集大成として、員弁郡がなぜ「4+1」という二つの道を選んだのか、その壮大な謎に、添付された深掘りレポートの分析を基に迫ります。
今回の無料公開エリアでは、この問いに答えるための絶対的な前提条件として、私たちが住む地域が、古代から近世にかけて、いかに異なる「五つの個性」を育んできたのか、その「違い」の原点を、設定の倍以上の文字数で徹底的に解き明かします。
この「違い」こそが、現代の「見えない境界線」を理解する上で、欠かせない鍵となるのです。
第一章:古代・権力基盤の分岐点 - 「五つの個性」の原点
員弁郡の歴史は、決して一枚岩ではありません。そのイメージは、現代の行政区画から見ている私たちの一方的な幻想に過ぎません。
そのルーツである古代史をひもとくと、驚くべきことに、ヤマト王権(中央政権)との関わり方において、少なくとも「四つの異なる権力モデル」が併存していました。この地は、単一の豪族が支配した均質な土地ではなく、多様な権力体がせめぎ合う「フロンティア」だったのです。
これが、5地域の「個性」を決定づける最初の、そして最も根源的な分岐点です。
モデル1:中央直属の技術者集団(東員町)
まず、東員町です。この地は、古代豪族「猪名部氏(いなべし)」の拠点でした。「いなべ」という地名の由来そのものです。
彼らの特異性は、単なる地方の土豪(どごう)ではなかった点にあります。彼らは、ヤマト王権の国家インフラ事業、例えば東大寺大仏殿の建立や、宮殿の造営を指揮・監督するような「高度な技術者集団(テクノクラート)」でした。彼らのアイデンティティは、土地そのものへの支配(在地性)ではなく、「中央(ヤマト王権)への技術的奉仕」によって規定されていました。
その祖神を祀る「猪名部神社」は、『延喜式神名帳』にその名が記載された「式内社」であり、『日本三代実録』によれば、貞観元年(859年)や八年(866年)に、朝廷から神階の昇叙を受けています。これは、中央政権が彼らの技術力を高く評価し、公的にその権威を認めていた動かぬ証拠です。
つまり、東員町は、その誕生の瞬間から「在地(土地)」ではなく、「中央(都)」を向いていたのです。これこそが、東員町の「外向的(Outward-looking)」な性格の原点であり、他の4町とは一線を画す、決定的な特徴でした。
モデル2:畿内直結の政治的同盟(旧員弁町)
次に、郡の中央東部に位置する(旧)員弁町です。
この地には、6世紀中頃に築造されたと推定される「岡一号古墳」が存在します。
ここで決定的に重要なのは、その墳形が、当時のヤマト王権(畿内)との政治的連合を示すスタンダードな形式である「前方後円墳」であることです。
これは、東員町の「技術」による奉仕とは異なり、「政治的同盟」によって中央と密接に結びついた新興勢力が、律令制導入前夜の員弁郡中央に台頭したことを示す考古学的な証左です。彼らもまた、中央との強いパイプを持つ勢力でした。
モデル3:在地型の自律的権力(旧北勢町・旧大安町)
一方、(旧)北勢町と(旧)大安町はどうだったでしょうか。
(旧)北勢町域には、4世紀中葉という古い時期の「麻績塚古墳(おみづかこふん)」が、(旧)大安町域にも「宮山遺跡」に、それぞれ古墳が存在します。
しかし、その形は「前方後方墳」でした。
この「前方後方墳」という形式は、ヤマト王権が標準化を進めた「前方後円墳」とは異なり、中央とは一定の距離を置き、在地(ローカル)の伝統的な権力の形態を示すとされています。
特に「麻績塚古墳」は、その地名「麻生田(おうだ)」との関連から、伊勢神宮への麻の奉納といった、在地の生産活動と強く結びついた権力であったことが示唆されます。
(旧)大安町の「宮山遺跡」の古墳も同様に、その土地の農耕基盤に根差した自律的な権力であったと考えられます。
中央との結びつきが強かった東員町や(旧)員弁町とは対照的に、この二つの地域は、土地に根差した「内向的(Inward-looking)」な権力の姿を示しています。
モデル4:宗教的権威による経済支配(旧藤原町)
最後に、最も西に位置する(旧)藤原町です。
この地域の特異性は、上記3モデルのような、地域の政治的系譜を示す「大型首長墓(古墳)が(現時点では)見当たらない」という点にあります。
この地の古代から中世にかけてのアイデンティティは、政治的・軍事的な首長ではなく、平安・鎌倉時代に伊勢神宮の荘園(神領)であった「志礼石御厨(しれいしのみくりや)」の存在によって強く規定されていました。この事実は『吾妻鏡』の文治四年条にも記されています。
つまり、(旧)藤原町の歴史的基盤は、在地型の首長権力ではなく、中央の最高宗教権威(伊勢神宮)との「経済的な結合(荘園経営)」であったのです。これもまた、他の4地域とは全く異なる権力の成り立ちでした。
このように、古代の時点で、員弁郡5地域は「技術で中央に奉仕する東員町」、「政治で中央と結ぶ員弁町」、「在地生産で自立する北勢町・大安町」、「宗教経済で中央と結ぶ藤原町」という、全く異なる権力基盤を持っていたのです。
この「多様性」こそが、員弁郡の歴史を読み解く第一の鍵です。
第二章:近世・「水」が分けた五つの運命
時代は下り、江戸時代。関ヶ原の戦いの後、員弁郡全域は桑名藩の統治下に置かれました。
しかし、一つの藩の下に統一されたからといって、5地域の「個性」が均質化することはありませんでした。
むしろ、その「個性」は、この時代の地域社会にとって最も重要なインフラ、すなわち「水」へのアプローチの違いとなって、より鮮明に現れることになります。
古代の権力基盤の違いが、それぞれの地域が持つ「歴史的DNA」だとすれば、近世の水利技術は、そのDNAを基に異なる環境で育った「地域的体質」の違いと言えるかもしれません。員弁川の上・中・下流域という地政学的な条件の違いが、五者五様の「水の解決モデル」を生み出したのです。
モデル1:政治的交渉による調整(東員町)
東員町は、員弁川の「中流域」に位置します。
地理的に、上流(現いなべ市)の水源と、下流(現桑名市)の受益地の中間にあたり、「水利権の調整と対立の最前線」でした。ここでは、単に水を確保する技術だけでは問題は解決しませんでした。
この地で宝暦九年(1759年)に行われた「六把野新井水(ろっぱのしんいすい)」の開削は、その象徴です。これは単なる土木事業ではなく、大木村の藤田平左衛門らを中心に、上流・下流の利害を調整する「高度な政治交渉」を伴う社会的事業でした。
東員町の水利は、技術や規範以上に、「政治(ネゴシエーション)」によって解決されました。古代の猪名部氏が中央との「奉仕」でその地位を築いたように、近世の東員町の人々は、他地域との「交渉」という「外」との関わりの中で活路を見出していたのです。
モデル2:技術的(鉱山)応用の利水(旧北勢町)
(旧)北勢町が位置するのは、員弁川扇状地。砂礫を多く含む水はけの良い土地であり、地表の水を確保することが困難な地域でした。
この深刻な課題に対し、地域の人々は驚くべき技術を生み出します。地下にトンネルを掘り、地中深くの伏流水を集める「マンボ(間風)」と呼ばれる地下水路です。
深掘りレポートの分析によれば、この高度な掘削技術は、当時この地で稼働していた「治田鉱山(はったこうざん)」(銀・銅を産出)の鉱山技術(坑道を掘る技術)が応用された可能性が指摘されています。
地域の基幹産業(鉱業)が、農業基盤(水利)を支える。これは、この地固有の資源が可能にした、見事な「技術的」解決モデルです。
モデル3:社会的規範による分配(旧員弁町)
(旧)員弁町は、寛永12年(1635年)の「大泉新田」に始まる、活発な新田開発の地でした。広大な農地が開かれた結果、ここでは水の「採集」ではなく、既存の水源(笠田大溜など)をいかに公平に「分配」するかが、地域の存続を揺るがす最大の問題となりました。
当然、深刻な「水争い」が頻発します。この社会的対立に対し、地域の人々は武力や権力ではなく、「ルール」によって解決を図ろうとします。
弘化四年(1847年)、「刻限日影石(こくげんひかげいし)」という日時計を設置したのです。
これは、客観的な「時刻」という誰の目にも明らかな基準を導入し、それに基づき公平な水の分配を行うための「社会的・規範的」な解決モデルでした。この日時計は、地域の高度な自治能力の象徴でもあります。
モデル4:倫理的(自己犠牲)な利水(旧大安町)
(旧)大安町の片樋地区もまた、水利に乏しい砂礫質の台地であり、(旧)北勢町と同様に「片樋マンボ」(市指定史跡)が掘削されました。
しかし、その歴史は「技術」以上に「倫理」によって特徴づけられます。
史料によれば、この難工事に、庄屋であった「富永太郎左衛門」が私財を投じて挑み、ついに志半ばで「破産した末に没した」と伝えられています。
地域の発展のためにすべてを捧げたリーダーの「自己犠牲」。この物語は、単なる悲劇として忘れ去られるのではなく、「まんぼ祭り」や「間風顕彰之碑」といった形で、共同体の記憶として大切に継承されています。ここでは、「倫理」や「共同体への献身」が水の記憶と不可分に結びついているのです。
モデル5:地政学的(資源)利用の治水(旧藤原町)
(旧)藤原町における水の課題は、他の4地域とは異なり、利水(水を引くこと)ではなく、員弁川の「洪水」という「治水(水を制すること)」でした。
1650年(慶安3年)などの大洪水を契機に、桑名藩は員弁川の流路そのものを変更するという、大規模な「川替え工事」を敢行します。
この難工事の成否は、ある一つの「地政学的」な決断にかかっていました。それは、藤原岳の麓にそびえる「石灰岩の崖」を、天然の堤防として利用することです。
「どんな激流が押し寄せようと、流出する心配がない」と判断されたこの石灰岩の崖。この地固有の地質的資源を利用することによってのみ、この大規模な治水事業は成功し得たのです。これはまさに「地政学的」解決モデルと呼ぶべきものです。
この「違い」こそが、現代の「決断」につながる
いかがでしょうか。
無料記事でありながら、ここまで深く掘り下げてきました。
古代の権力基盤、そして近世の水利モデル。
同じ「員弁郡」という一つの地域にありながら、これほどまでに異なる「個性(歴史的DNAと地域的体質)」を、5つの地域がそれぞれ育んできたのです。
その違いは、驚くほど鮮明です。
東員町:古代から一貫して「中央(外)」を向き、技術や交渉力でその地位を確立してきた「外向的」な歴史。
他の4町(後のいなべ市):在地型の古墳、鉱山の技術(マンボ)、水争いのルール(日影石)、自己犠牲の物語(富永太郎左衛門)、石灰岩の崖(治水)といった、それぞれの「内(うち)」にある資源や課題と真摯に向き合い、独自の「内向的」な歴史を紡いできた軌跡。
この「歴史的DNA」と「地域的体質」の根本的な違いは、近代化の波、すなわち「昭和」と「平成」という二つの「大合併」の時代において、さらに決定的かつ不可逆的な「進路の違い」を生み出すことになります。
なぜ、5町は「昭和の大合併」期に、「町」になった時期が(1941年、1955年、1959年、1967年と)見事にバラバラだったのでしょうか?
この「非対称性」が意味するものとは?
そして、2003年(平成15年)。
「平成の大合併」という、行政区画の再編が日本全国を席巻したあの時代。
なぜ東員町だけが、「いなべ市」になる道を選ばず、「加わらない」という決断を下したのでしょうか?
その答えは、財政状況といった表面的な理由だけでは決して見えてきません。
それは、1500年の時を経て、彼らの「外向的」と「内向的」という「歴史的アイデンティティ」そのものが、行政的決断として発現した、極めて論理的な「歴史的帰結」だったのです。
この先の有料エリア(約10,000文字)では、いよいよ本題の核心に迫ります。
近代(昭和)の行政再編の「非対称性」を徹底分析し、現代(平成)における東員町の「歴史的決断」の真実を、PDFレポートの分析に基づき完全に論証します。
なぜ「4+1」に分かれたのか、その論理的帰結のすべてを解き明かします。
まとめ
私たちが何気なく見ている「いなべ市」と「東員町」という行政区画。
その境界線の背景には、私たちが想像する以上に深く、ダイナミックで、そして1500年という壮大な時間の厚みを持つ「歴史の地層」が眠っていました。
古代の権力モデルの違い。
近世の水との向き合い方の違い。
(旧)北勢町のマンボも、(旧)員弁町の日影石も、(旧)大安町の富永太郎左衛門の物語も、(旧)藤原町の石灰岩の崖も、そして東員町の猪名部神社の伝承も、すべてがそれぞれの地域だけが持つ、かけがえのない「個性」であり、先人たちがその土地で生き抜いてきた「知恵の結晶」です。
この「違い」を知ることは、単に過去を学ぶだけでなく、なぜ今、私たちの地域がこの形であり、未来にどこへ向かうべきなのかを考える、最も重要な羅針盤となります。
有料記事では、この歴史的個性が、近代から現代にかけて、いかにして現在の「4+1」という行政区画に結実したのか、その「歴史的必然性」の核心に迫ります。
ぜひ、この壮大な歴史の物語の結末を、見届けてください。
フォロー促進文
内容をさらに深掘りし、すべての謎を解き明かす「集大成」の有料記事は、このすぐ下で公開しています。
また、今後もこうした地域の歴史や、行政の「なぜ」を深掘りする記事を執筆していく予定です。
ぜひ、プロフィールをフォローして、最新の記事をお待ちください。
いいなと思ったら応援しよう!
最後までお読みいただき感謝します!頂いたサポートは、現地取材や資料収集など、より質の高い情報発信のための活動費として大切に活用させていただきます。内容を深掘りした有料記事も今後執筆予定です。ぜひプロフィールをフォローしてお待ちください。温かい応援を励みに精進いたします。
