note始めました。自己紹介
沖縄生まれ、沖縄育ち、沖縄在住のさくと申します。
今回、初めてのnote投稿(公開)ということもあり
自己紹介させていただきます。
自己紹介は、幼児期~今現在まで記載しています。
最後までお付き合いいただけましたら、嬉しく思います。
〖幼児期〗
私が幼児期に体験したことは
ノンフィクション(事実に基づいた話)です。
トタン屋根の賃貸住宅で過ごしていたのですが、雨漏りが絶えず、部屋の床に「たらい」や「洗面器」を数か所置いて雨をしのぐという生活を、6年間も耐え抜きました。
父も母も仕事が忙しく、親戚の家の同級生や近所のお兄ちゃんたちと遊ぶ日々。
自宅のすぐ近くに高さ約10メートルの大木がそびえ立っていたのですが、その木の上に、みんなで小屋を建てたり、お腹がすいた時は、道端の草花の「くき」を摘み取り、塩漬けにして食べるという3歳にしてサバイバルな生活を送っていました。
近所に住んでいるらしい「赤い服が大好きな謎の女性」が、「赤い服を着た子どもたちの服を脱ぎ取って自宅に持って帰る」という衝撃的な出来事もありました。
その謎の女性のお母さんが、大量の赤い服の返却のため、謝りながら近所を歩き回っていました。
子どもの耳を引っ張ることが大好きなお爺さんの存在も記憶に残っています。子どもが歩いていると、突然近づいてきて、親指と人差し指で耳をつかんで引っ張るのです。
耳が紫色になるまで引っ張るので、もうこれが痛いのなんのって、「痛い…痛い…痛~い」としか言いようがありませんでした。
そのお爺さんとバッタリ路地で出会ってしまった時は、彼の次の行動を予測(警戒)しながら、道の端側を歩いていました。通称「耳引っきや~おじい~(耳を引っ張るお爺さん)」と命名(噂)されていました。
自宅近くのバス停留所の背後に小屋が立てられ、その小屋の窓から謎の男性が顔を出していたのですが、私が近づくと手を伸ばしてつかもうとするのです。怖いの何のって、恐怖しかありませんでした。
・赤い服が好きな謎の女性も
・耳を引っ張るのが大好きなお爺さんも
・バス停留所背後小屋の謎の男性も
きっと今なら、警察に通報されていますよね。

〖幼稚園~小学校時代〗
幼稚園へ入園して一か月後の5月。新築の家に引っ越ししました。自分の部屋があることに感動し、ベットに飛び込んだあの日のこと、今でも思い出します。
とにかく
外で遊ぶことが大好き少年で
ビー玉をさせたら2メートル離れた場所からでも
相手のビー玉に当てる確率は9割超!
遊び仲間の先輩からは「パチこう!」と命名されました。
縄跳びは、20重飛び120回以上…かける2重飛び…後ろかける2重飛び
など、いろんな技を体得していきました。
駒のひもで綱渡りをさせている途中、ひもを駒の棒に巻きつけ、高さ3メートル空中に駒を飛ばして手のひらに載せても、その駒がまだ回っているという裏技も体得しました。
軟式少年野球チームにも所属。小4からショート。小6からはピッチャーとして試合に出場。平日や土日祝日の練習はいっさい無しの弱小チームで、三振以外は、なかなかアウトを取ることができませんでした。
大会当日は、チームメンバー全員で監督の家を訪問し、チャイムを鳴らして監督を起こしてから試合会場へ向かっていました。
当時の軟式少年野球は、変化球も許可が出ていましたので、カーブを体得しました。私のカーブは50センチぐらいは曲がるので、右バッターの顔を的にして投げたとしても、アウトコースギリギリでキャッチャーが獲っていました。
小学校1年生から、早食い・大食いの才能が開花し始めます。どんなに食べても太らない体質でした。
小5には夕飯お米を10杯。学校給食のおかわり回数には制限がありませんでしたので、給食時間が終わるまでカレーをおかわりし続けるという食いしん坊でした。
小1から小6年まで、給食食べ競争がクラスで常にトップ!小2の時に一度だけ2位と悔しい想いをしました。
1年間で給食が190回として、6年間✕190回=1140回。1139÷1140=給食食べ競争の勝率9割9分9厘という実績を獲得しました。
親戚の家で夕飯のお世話になった時は、親戚のおばさんが青ざめていました。

〖中学時代〗
中学でも3年間野球を続けました。入学時1年生の部員数だけで48名でしたが、いわゆる「しごき」によって、3年生になる頃には、同級生が13名になってしまいました。私も最後まで残った13名のうちの1人です。
部活中の約3時間、1年生は水を飲むことが禁止。グラウンドに入ることさえ許されず、フェンスの外側の民家の前でグローブを持って立たされていました。
のどが渇きすぎて、口の中の水分が不足し、唾(つば)で上くちびると下くちびるがくっついてしまうこともありましたが、当時はこれが当たり前だと思っていましたので、絶えていたという感覚はありませんでした。
野球部で同じクラスの親友の存在は大きかったですね。この親友は、すでに小3の時には、沖縄県NO1のピッチャーとして大活躍していて、沖縄全島の少年野球大会を制覇していました。中学の入学時には、腹筋が割れていました。
その親友は足も速く、彼と一緒にダッシュすることで、私の脚力もアップし、中1の垂直飛びで80センチ。陸上大会のリレーメンバーと幅跳びの代表にも選出されました。
部活を卒業した後は、親戚のおじさんのところで、本格的に卓球をする日が続きました。変化球サーブを覚え、相手の変化球サーブの返し方も覚えました。

〖高校時代〗
全国3位という輝かしい実績を持つソフトボール強豪高校に入学。野球部に入るか、卓球部に入るか、ソフトボール部に入るか、迷いはありましたが、「強いところで自分の力を試してみたい」という想いが強くなり、ソフトボール部に入部することにしました。
この選択が、後の人生を大きく変えることになります。
「ソフトボールで、自分の力をどこまで伸ばせるか、追求していきたい。この仲間と一緒に全国制覇したい」朝練、部活終了後も100メートルダッシュを10本。もう無我夢中でした。私の人生の中で、一番しあわせな時期でした。
週末の部活が終了した後は、仲間の家に集まり「全国制覇への想い」を何度も語り合いました。
私の守備位置はセンター。打順は1番。チームの勝利に導くために、突破口を開いていくために、何度も…何度も…何度も…セーフティーバントの練習を積み重ねました。
セーフティーバントの成功率は9割9分8厘。
沖縄を制覇し、全国大会準優勝という輝かしい実績を残すこともできました。私を含め同じ部活メンバーから、7人が沖縄選抜チームにも選ばれ国体にも出場することができました。

〖大学受験と大学時代〗
「浪人させてください」両親の前でひざまずき、頭を下げ、懇願しました。自宅で1日15時間の受験勉強。ほとんど外に出なかったということもあり、気づいたら2.0だった視力も0.3へ…どうにか地元沖縄の国立大学へ進学できました。
大学1年の夏から始めたサーフィン。台風を含め1年365日、波が立つスポットへ車を走らせました。海から上がって10分間、地平線を見続けて3ケ月後、視力が1.2へ回復しました。自然の大きさ(力)って大きいですね。
(当時、安定していると言われていた公務員の試験は受けずに)
大学4年生からは、ネクタイにスーツ着用で不動産会社の営業で週5勤務。ここで私の営業力が鍛えられました。「独立して母を楽にしてあげたい」という想いの中、不動産業務の基礎を学ばせていただきました。営業は賃貸物件の紹介が中心でした。

〖サラリーマン時代〗
不動産売買の営業も学びたかったので、大手の建設不動産会社に就職し、朝9時~夜23時まで週6日営業に明け暮れる日々。
ブローカーからの情報で、海が見える土地をお客様へ紹介する際、土地の登記の件でトラブルを抱えそうな状況になり、いつも頼りにしている部長へ相談したのですが、その時ばかりは、無視されてしまいました。
このままでは人生を台無しにしてしまうと直感的に感じ、即退職しました。
その後、友人からのアドバイスで、某会社のテスト&面接試験を受け、合格し再就職。不動産で鍛えられた営業力のおかげもあり、この会社の営業実績NO1を獲得することができました。
それでも、独立したいという夢をあきらめきれず、会社を辞めて、独立へ向けて挑戦する道を選択しました。
その挑戦は3年間に及び、未就学児~高校生を対象とした教育関連事業を立ち上げることができました。
今現在も現役で事業を継続。今年で18年目になります。
18年間の教育関連事業を営んでいく中で
「より多くの人たちのお役に立ちたい」という想いが湧き上がり
ココナラで、未就学児~高校生の保護者向け子育て学習
電話相談サービスを立ち上げました。
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