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プラハの台所から

第31章 キャベツ1玉は、ひとり暮らしに少し強すぎる


スーパーでキャベツを1玉買った。プラハの野菜売り場では、じゃがいもや玉ねぎと並び、どれも、こちらでは日常です、という顔をしている。買ったときは、かなり正しい判断だと思っていた。野菜は必要だし、煮ても炒めても食べられる。値段も悪くない。台所に立つ人間として、少し先の暮らしまで見通している気分さえあった。

問題は、家に着いて冷蔵庫へ入れた瞬間である。

大きい……


店では周囲にじゃがいもや玉ねぎが積まれていたせいか、それほどでもない顔をしていた。ところが、ひとり暮らしの冷蔵庫に入ると、急に態度が大きくなる。棚の半分を使い、牛乳を端へ追いやり、ヨーグルトに少し肩身の狭い思いをさせている。昨日までいなかった者が、もう長年この家を支えてきました、という位置に収まっていた。

最初の夜は、ベーコンと炒めた。塩と胡椒だけでも十分にうまい。プラハの少し冷えた夜には、火を通したキャベツの甘さがよく合う。買って正解だったと思った。

2日目はスープにした。じゃがいもと玉ねぎも入れれば、鍋の中はすっかりチェコの暮らしらしくなる。パンを添えると、立派な夕食になった。この時点では、まだキャベツを選んだ自分を褒めていた。

3日目、冷蔵庫を開ける。

ほとんど減っていない…

キャベツは葉を数枚使った程度では、びくともしない。こちらは確かに食べているのに、向こうは食べられていない顔をしている。
むしろ断面を見せるようになったぶん、存在感が増していた。
冷蔵庫を開けるたび、「次はどうしますか」と静かに聞かれている気がする。

ひとり暮らしの料理には、食材との長期交渉がある。買った日の情熱だけでは終わらない。使い切るまで付き合えるか。昨日と違う顔にできるか。少し飽きてきた自分を、どうなだめるか。キャベツ1玉は、献立を考える力だけでなく、こちらの根気までそっと確かめてくる。

4日目は、少し日本へ寄せてみた。細く刻み、塩でもんで、簡単な浅漬けにする。醤油を少し落とすと、急に白いごはんが欲しくなった。プラハの冷蔵庫を占領していたキャベツが、数分だけ日本の食卓へ移動する。食材には国境があるようで、包丁の入れ方ひとつで案外簡単に越えてしまう。

ところが、冷蔵庫を開ければ、まだいる…

こうなると、料理というより共同生活である。朝、冷蔵庫を開けて顔を合わせる。夜、何枚か葉をもらう。互いに必要以上の会話はしない。こちらが少し飽きていることも、向こうはたぶん知っている。
それでも傷む前に食べ切らなければならない。キャベツと私の間には、いつの間にか妙な連帯感が生まれていた。

最後は、お好み焼きにした。小麦粉と卵を混ぜ、キャベツを思い切って刻む。これまでの遠慮が嘘のように、かなりの量を使った。焼き上がった一枚を見て、ようやく終わりが見えた気がした。キャベツも少し安心したと思う。たぶん。

食べ切った翌日、冷蔵庫を開けると、棚が妙に広かった。牛乳もヨーグルトも、元の場所へ戻っている。清々しいはずなのに、少しだけ物足りない。あれほど場所を取っていたものが消えると、冷蔵庫まで静かになる。

キャベツ1玉は、ひとり暮らしには少し強すぎる。けれど、その強さに数日付き合っていると、料理は毎日新しいものを作ることではなく、同じものと、飽きずに関係を結び直すことだと気づく。

もっとも、次に買うときは半玉にする。

生活には学びが必要だが、冷蔵庫には余白も必要である。

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深見 輝 記事を読んでくださるだけで、大きな励みになります。 いただいたチップは、書籍購入、資料収集、研究活動、そして次の記事をより深く届けるために大切に使わせていただきます。 無理のない形で、言葉と学びを一緒に育てていただけたら嬉しいです。