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死んだ恋人と同じ匂いが、猫の体からする│シロクマ文芸部




猫を飼うことになったのは、恋人が死んだからだ——と、メモに書いてあった。
ボクの字だった。
書いた記憶がない。

ある日あの人はいなくなり、猫が来た。
順序はそうだったと思う。
確認する方法がないので、そう思うことにしている。

最初の夜、猫は六畳の中央に伏せていた。
どこから来たのかは知らない。
毛の色を今も正確に言えない。
見るたびに少しずつ違う気がして、でも「毎回違う」という感想だけが積み重なっていく。
体温を測ったことがある。
三十七度と少し。
それより気になったのは、体重計の話だ。
ボクだけで乗ると五十八キロ。
猫だけで乗ると〇キロ。
ふたりで乗ると、五十七キロ台を示す。
一キロ、どこかへ行っている。
どこへ行っているのかについて、ボクはあまり考えないようにしている。

「この子はよく食べる」

ボクはそう言った。
それからフローリングに広がった赤いものをタオルで拭いた。
何を拭いたのか、少し後にはもう思い出せなかった。
窓の外では夕暮れが橙色を失い、静かに黒くなっていった。



猫は毎朝どこかへ行き、夕方に戻ってくる。

出入りする経路はわからない。
玄関は施錠している。
窓も、眠る前には必ず確認する。
それでも朝になると猫はいなくなり、夕方には戻ってくる。
戻ってくるとき、何かを持っている。
四肢がある。
引きずった跡がある。
床に線を残しながら運ばれてくる。

持ち帰るものの中に、革靴が一足あった日がある。
片方だけ。
踵が少し磨り減っていた。
次の週にはキーホルダーのついた鍵が三本束ねて、その翌週には子どもの上着が一枚。
袖が片方だけなかった。
ボクは革靴を玄関の隅に置き、鍵をカゴに入れ、上着を洗って畳んだ。
それだけだった。
捨てるという選択肢を、なぜか思いつかなかった。



食事の時間、ボクは台所に立って食器を洗う。
背中で音を聞く。
頭部の開く音。
内部の組織が広がり、何かに絡みつく音。
対象がまだ生きていれば、しばらく別の音が混じる。
ボクはスポンジを動かし続ける。
泡が手首を伝う。
やがて音が止む。

それがいつの頃からか、音の止み方が変わった。
途切れるのではなく、吸い込まれるように消える。
残響だけがフローリングの木目に沈んでいく。
沈んだものが何であるかを、ボクは考えない。
考えないでいられる。

食後、猫は丸まる。
喉が鳴りはじめる。

ボクはその隣に腰を下ろして、手のひらを乗せる。
体表は温かい。
匂いがする。
最初はわからなかった。
二度目も確信が持てなかった。
三度目に、はっきりとわかった。
シャンプーと石けんと皮膚の匂い。
あの人と同じ配合で、同じ濃度で、猫の体の奥から漂ってくる。

特に何も感じなかった。
匂いが同じだというだけだった。
猫は喉を鳴らし続けた。
ボクは手のひらを体表に置いたまま眠った。
布団には戻らなくなった。



回覧板に、ペットの失踪が相次いでいると書かれていた。
犬が三頭、猫が五匹、鳥が二羽。
次の週には人の話が加わっていた。
隣の棟に住む四十代の男性が一週間連絡がとれていない。
その翌週にも別の名前があった。
また翌週にも。
名前は毎週ひとつずつ増えた。
ボクは回覧板を読むたび、玄関の隅の革靴を見た。
踵の磨り減り具合を確かめた。
確かめて、何も言わなかった。

九週目に、ボク自身の名前が載っていた。
「一ヶ月以上連絡がとれていない」と書いてあった。
欄外に追記があった。
「なお、部屋の電気はついているようです」。
ボクは回覧板を次の家に回した。



猫が頭部を開いたまま、こちらを向いていた夜がある。

食事の途中だったはずだ。
ボクはいつものように台所に立って、背中で音を聞いていた。
その夜に限って、振り返ってしまった。
理由はわからない。

猫の頭部が開いていた。
食事の体勢ではなかった。
対象に向かっていなかった。
開いたまま、こちらを向いていた。
内部が見えた。
柔らかく濡れた赤いものの、さらに奥に、何かが畳まれているのが見えた。
折り重なるようにして収まっている、何か。

気づいたときには近づいていた。
しゃがんで、さらに顔を近づけた。
生温かい空気が頬に触れた。
底が見えなかった。
それでも覗き込んだ。
もっと近づいた。

あの人の匂いが、底のほうから来ていた。

猫は静止していた。
ボクが覗き込む間も、喉を鳴らし続けていた。
規則的に、波のように、途切れなく。



それから先のことを、うまく説明できない。
外へ出たくなることがある。
体の奥から衝動のようなものが来る。
どこかへ行きたい。
何かを探したい。
気がつくと夜の路地にいる。
何を探しているのかわからないまま、探す。
帰ってくると窓から入る。
玄関のことは最近よく忘れる。

六畳に明かりがついている。

台所に、あの人がいる。
食器を洗っている。
背中がある。
ボクが帰ってきても振り返らない。
スポンジを動かし続けている。
泡が手首を伝っている。
ボクは部屋の中央に伏せる。
体表が温かい。
喉の奥から音が出る。
小さく、規則的な、波のような音が、勝手に出てくる。

しばらくして、あの人が振り返る。
こちらを見る。
少しだけ、左に首を傾ける。
あの人もそういう癖があった、とどこかで思う。
でも今ここにいるのは——。
近づいてくる。
手のひらが、頭に乗る。

「この子はよく食べる」

あの人はそう言う。
誰かに向かって言うのではない。
ただそう言う。
それからまた台所へ戻って、食器を洗い始める。
泡が手首を伝う音が、また始まる。

玄関の隅に、革靴が二足になっていた。
片方ずつ、踵が少し磨り減っている。
ふたつとも、知っている踵の形をしていた。




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