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酷暑で寝苦しすぎるので、シンクの中で眠ることにした│シロクマ文芸部

屋根の上の体温


熱帯夜の七月のある日、男はまた眠れなかった。

眠ろうとする努力そのものがことごとく空振りしていた。

枕を裏返すと最初の三秒だけ冷たいが、四秒目にはもう自分の体温を吸い込んで生ぬるくなっている。
男は無言でそれを二十回近く繰り返した挙句、「お前もう冷える努力を辞めたろ」と枕に向かって本気で文句を言い、返事がないことに一人で腹を立てた。

扇風機は首を振るたびに生ぬるい風を送ってくる。
涼しさというより、誰かに至近距離で息を吹きかけられているのに近い。 

三年前に壊れたエアコンのことを思い出し、あのとき買い替えなかった自分をどうにかして今すぐ問い詰めたい気分になった。

「あの夏の俺は、秋になれば涼しくなるからいいやとか思ってたんだろ。バカか。次の夏が来ることを予想していたのか」

過去の自分は当然ここにはいないので、代わりに枕を叩いた。
枕には何の罪もなかったが、この不条理な熱気の中では、一番近くにある柔らかいものが八つ当たりの犠牲になるしかなかった。

耳元で蚊が鳴いた。
プーンという不快な高音が、右の耳から左の耳へと這うように移動する。
男は両手を素早く顔の横に持っていき、思い切り叩き合わせた。
蚊は逃げ、男の頬だけが盛大な音を立てて赤くなった。
静かな部屋に「パンッ」という平手打ちの音だけが響き、しばらくの沈黙のあと、男は自分で自分の頬を張ったという事実の重さに耐えられず、布団の中で一人低く呻いた。

「……俺は何のために自分を叩いたんだ」

「……これはもう、根本的に対策を変える必要がある」

誰に言うでもなく力強く宣言し、男は布団を蹴飛ばして起き上がった。
蹴飛ばした布団が扇風機の首に絡まり、扇風機がガコンと異音を立てて停止した。
羽が無理やり止められ、モーターから微かに焦げ臭いにおいが漂い始める。

男はそれを直す気力すらなく、無視してそのままフローリングの床に豪快に倒れ込んだ。

床はひんやりして気持ちよかった。
数十秒の間、だが。
背中の下がじわじわと自分の体温を吸い、瞬く間に生ぬるくなっていくのを感じ、男は「うそだろ、早すぎる」とぼやきながら体を横に転がした。

ゴロン。
移動した先も、速やかにぬるくなる。
ゴロン、ゴロン、ゴロンと部屋の端まで転がっていき、勢い余って頭を思い切り壁に打ちつけた。
「いだっ」という声が暗い部屋に虚しく響いた。

額を押さえてしばらくうずくまっていると、涙目の視界の端に、寝ぼけた自分の姿が窓ガラスに映っているのが見えた。
赤くなった頬と、汗で額に張り付いた前髪。
あまりにも情けない格好だった。

「金属だ」

不意に閃いた。

木材や布だから体温を吸うのだ。
金属なら熱伝導率が高い。
台所のシンクなら冷たいはずだ。
ステンレスだから冷たいという理屈自体、物理的には怪しかったが、極限状態の男はその思いつきにやけに強い確信を持ってしまった。

真っ暗な廊下を早足で台所へ向かう。
急いでいたせいで片方のスリッパにしか足が入らず、ペタン、コトン、ペタン、コトンという不揃いな足音を建て付けの悪い廊下に響かせながら台所に転がり込んだ。

シンクは街灯の薄明かりを受けて、いかにも涼しげに鈍く銀色に輝いていた。
男は迷わずよじ登ろうとしたが、片脚を持ち上げた拍子に濡れた足元でバランスを崩し、蛇口に額を思い切りぶつけた。
「ゴンッ」という重苦しい金属音がして、男はしばらく蛇口を睨みつけた。
しかし、背に腹は代えられない。
構わずもう片方の脚も持ち上げ、体を折り紙のように折り畳むようにしてシンクの中に収まった。

膝が顎につき、肋骨が圧迫されるほどの極端に窮屈な体勢だったが、背中と尻に直接触れる冷ややかなステンレスの質感は、確かに天国に近かった。

「これだ……勝った。俺は熱帯夜に勝ったんだ」

満足げに目を閉じ、勝利の余韻に浸った瞬間、蛇口の先端から溜まっていた水滴が溜まらず落ちてきた。

ぽたり。
額の真ん中に命中する。

ぽたり。
また同じ場所。

三滴目、ついに開けた目に直撃し、「なんで毎回顔面をピンポイントで狙うんだよ!」と叫びながら勢いよく体を起こそうとした。

しかし、狭いシンクの中である。
右肘をシンクの側面にしたたかにぶつけ、続けて左膝を太い蛇口にぶつけ、激痛で体がくの字によじれた拍子に、濡れたステンレスの滑り台から滑り落ちて台所の床へ叩きつけられた。

仰向けのまま、天井の蛍光灯の影を見つめて男はしばらく動けなかった。

床に転がったまま呼吸を整えていると、右頬に何かひんやりとしたものが触れた。
手を伸ばして手繰り寄せると、シンクの脇に掛けてあった濡れ布巾だった。
滑り落ちる拍子に頭から被っていたらしい。

男はその湿った布を引き剥がしながら、ふと天井を見上げ、なぜかここで「屋根」という単語が唐突に頭に浮かんだ。

そうだ、家の中に留まっているから熱が逃げないのだ。
屋根の上に出れば、遮るもののない夜風があるはずだ。
理屈は特になかったが、追い詰められた頭にはそれが唯一絶対の救済に見えた。

男は押入れから脚立を引っ張り出し、2階の廊下の天井にある点検口へと急いだ。
階段を二段飛ばしで駆け上がる。
踊り場の古い天窓を見つけ、固くなったロックを力いっぱい押し外すと、長年溜まっていた埃と乾燥した塗料の破片が一気に降ってきて顔面を直撃した。

「ぶはっ、げほっ、ゴホッ」

むせ返りながらも構わず桟に両手をかけ、腕の力だけで体を持ち上げようとした。
しかし運動不足の腕は悲鳴を上げ、一度体持ち上げに失敗して落下、顎を木枠に強く打ちつけて自分の舌を固く噛んだ。
「いだっ」と涙を浮かべて呻きつつ、二度目の死に物狂いの挑戦でようやく上半身を外の空気の中へと押し出した。

瓦に手をついた瞬間、その古い一枚が案外ぐらついていることに気づく。

「うわ、うわ、うわ、待て待て!」

情けない声を漏らしながらどうにか全身を引っ張り上げ、ついに屋根の上へと転がり出た。

立とうとして、すぐに断念した。
暗闇の中での屋根の傾斜は思ったよりもきつく、直立した瞬間に重力に引かれてそのまま地上へずり落ちそうになったからだ。
男は四つん著いの姿になり、手のひらで瓦の感触を確かめながらそろそろと頂上を目指した。

屋根の一番高い部分――棟(むね)に到達すると、両手両脚でそれにしがみつくようにして、そのままゆっくりと背中を預けた。

風が吹いた。

地上から数メートル高いだけのその場所には、部屋の中の湿気た空気とは完全に異なる、透明で冷ややかな夜の風が流れていた。
汗ばんだ肌を優しく撫でるように通り抜けていく。

「うおお……これだ。これだよ、俺が求めていたものは……」

男は思わず感嘆の声を漏らし、それからは言葉を失って、ただひたすらに風を受けていた。

見上げると、夜空は思っていたよりもずっと広く、深く広がっていた。
街灯の橙色の光と遠い星の光が、低い空の境界線でぼんやりと混ざり合っている。
遥か上空を、赤い灯りを点滅させた飛行機がゆっくりと静かに横切っていくのが見えた。

熱を放出しきった深夜の瓦は、適度なカーブを描いて体をすっぽりと収めてくれた。
体をその凹凸に委ねると、驚くほど安定した。

男はゆっくりと瞼を閉じた。 

(今度こそ……ちゃんと寝れる……)

そう確信した直後、彼の意識は深い安らぎの中へと途切れていった。  



朝、鮮やかな鳥のさえずりで目が覚めた。

体の表面を、爽快な朝の風がサラサラと撫でていく感覚があった。
とにかく心地よかった。

ただ、なんというか……肌を風が通り抜けるというよりは、密に生え揃った毛並みを風が撫でていっているような、独特の感覚だった。

「毛並み……?」

男は疑問に思いながら、ゆっくりと目を開けた。
視界の位置がやたらと低い。
瓦のすぐ上に目がついているかのようだ。
それなのに、遠くの景色が異様にはっきりと、立体的に見える。
三軒先の屋根の端に止まっている雀の、羽の一枚一枚の微細な模様や、くちばしの先のツヤまでが手に取るように分かった。

「なんだこれ……?」

声に出そうとしたが、うまく言葉にならない。
体をぐっと伸ばしてみると、背骨が驚くほど柔軟に、しなやかな弓なりを描いて曲がった。
自分の体のはずなのに、関節の数が増えたかのように滑らかだった。

視界の下に前足――前足?――を差し出してみる。

そこにあったのは、日焼けした男の手ではなく、薄茶色の柔らかい毛で覆われた小さな足と、その中央に鎮座するぷにぷにと湿り気帯びたピンク色の肉球だった。

男はしばらく屋根の上の同じ場所に座り込んだまま、朝日を浴びて輝き始める街並みをぼんやりと見渡した。 

腕を失ったことや、人間でなくなったことに驚くべきなのか。
それとも、この異常事態に対してパニックを起こして屋根から飛び降りるべきなのか。
自分でもどう反応していいのか全く分からなかった。

ただ、一つだけ確かなことがあった。

あの蒸し風呂のように熱がこもった四角い部屋にも。
冷える努力を放棄した裏切り者の枕にも。
首を振りながら生ぬるい息を吹きかけてくる壊れかけの扇風機にも。
満員電車にも、毎朝の目覚まし時計にも、もう二度と戻らなくていいという圧倒的な事実。

その解放感だけが、じわじわと、しかし確実に新しい身体の隅々にまで染みわたっていった。

瓦は太陽の光を受けて少しずつ温まり始めていたが、今の体にはそれがちょうどいい日だまりに感じられた。
喉の奥が微かに震え、小さく音が漏れた。

「なぁ」

自分の声のはずなのに、それはどこからどう聞いても、完璧な猫の鳴き声だった。
男はもう一度、今度は少し満足げに目を細めると、尻尾をパタンと一回だけ瓦の上に叩きつけ、朝の風の中に丸くなった。




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