透明な礼拝│シロクマ文芸部
シャボン玉が、私の前を横切った。
夕暮れの陽光が街路樹にねっとりとまとわりつき、葉の一枚一枚が薄気味悪いほど透き通って見える時分だった。
私はこれといった用事もなく、迷路じみた路地を、ただ肉体の重みに任せて歩いていた。
ふと視界の端を掠めたそれは、光の悪戯でも眼病の徴候でもない。
虹色の薄膜を震わせ、重力という無粋な規則を撥ね退けて宙を漂う、紛れもなく「実在」する一個の珠だった。
それは、おそろしく淫らなほどに、透明であった。
風もないのに珠はふわりと持ち上がり、電柱の影に入ると色彩を失って不気味な薄膜だけを晒す。
次の一粒がまた、申し合わせたように同じ方角から流れてくる。
ああ、上流に、主(ぬし)がいる——そう気づいた瞬間、私の足は意識よりも先に逆方向へ向かっていた。
追跡というよりは、磁石に吸い寄せられる鉄屑のような、抗い難い本能だった。
高校二年の、男というにはまだ未熟な、しかし脂っこい欲望だけは人一倍溜め込んだ私が、シャボン玉の出どころを求めて路地を彷徨う。
滑稽といえばそれまでだが、当時の私にはそれが、この世で唯一の真剣な「仕事」のように思えたのだ。
ある家の生垣の前で、その行列は途切れた。
植え込みの僅かな隙間から、シャボン玉が次々と産み落とされている。
声もなく、静かに、誰かが己の精気を丹念に吹き込むように。
その時、私の耳にある「響き」が届いた。
桐島さんの、あの声であった。
同じ教室で一年近くも背中を見つめ続けてきた女の声。
何を語っているかは分からぬが、その湿り気を帯びた質感が夕暮れの空気に溶け、私の皮膚を静かに撫でた。
私は思わず、呼吸を忘れた。
この生垣の向こうで、桐島さんが、あの薄い唇を動かしている。
その事実が、じわりと腹の底に染み込んできた。
彼女の肺腑の奥から絞り出された生温かい空気が、この極薄の膜の内側に閉じ込められている。
私の目の前を力なく、しかし誇らしげに漂うこの珠の一つ一つは、彼女の「呼気」の詰まった、いわば彼女の体内の写し身ではないか。
その時、鼻腔を微かに、しかし鋭く突くものがあった。
シトラスの、清潔な香気である。
甘ったるい媚びはない。
冷ややかで瑞々しく、それでいてどこか肉感的な柔らかさを孕んだ香り。
膜が弾けるたびに、その残滓が意地悪く鼻先を掠めていく。
桐島さんだ、と私は確信した。
これこそが彼女という「高貴な肉体」の、隠れもない徴(しるし)なのだ。
私は、たまらずにその一粒を口に含んだ。
ぱちん、と儚く割れた。
舌の上に石鹸の無機質な苦みとともに、ほんのりとあのシトラスの残滓が広がる。
これは彼女の息だ——という粘りつくような認識。
間接的ではあるが、これほどまでに執拗で深い接触が他にあるだろうか。
接吻という言葉が脳裏をよぎったが、それはあまりに凡庸に過ぎた。
これはもっと、礼拝に近い、冒涜的なまでの愉悦だった。
私は貪るように、もう一粒を口に含んだ。
その時、生垣の向こうで砂利を鳴らす足音がした。
「あ、村上くん」
桐島さんだった。
門の隙間からひょいと顔を出した彼女は私を見て少し驚き、それから、いたずらが見つかった子供のような微笑を浮かべた。
「シャボン玉、上手く作れる? 弟たちが、うるさくて」
私は導かれるままに庭へ足を踏み入れた。
そこには、彼女を崇める小さな三人の小姓たちが、私を見上げていた。
桐島さんがストローを差し出す。
指先が触れ合うかという刹那、あのシトラスの香りが、生垣越しに嗅いだときよりも数倍も濃密に私の感覚を麻痺させた。
彼女がずっと、この管に吸い付いていたのだ。
私は震える手でそれを受け取り、静かに、そして深く息を吹き込んだ。
大きな、今にも壊れそうな珠がゆっくりと膨らみ、離れ、空へと逃げていく。
背後で子供たちが無邪気に手を叩いて喜んでいる。
だが私の全神経は、ただ唇に残るあの管の冷たさと、彼女の呼気の甘い記憶だけに注がれていた。
「おお」
縁側から、妙に通る声が飛んできた。
振り向くと——完全に"おっさん"だった。
日焼けした肌。
見事に前へ張り出した腹。
その上でギリギリ仕事しているランニングシャツ。
片手に缶ビール、もう片手は腰。
夕方というより「晩酌開始宣言」みたいな佇まいで、おっさんはやたら嬉しそうに言った。
「俺が作るより上手いな!」
庭の空気が、一瞬止まった。
「お父さん、もう、うるさい」
桐島さんが、ため息混じりに言う。慣れている。
明らかに慣れている。
「いやほんまやって!さっきまで俺がやっとったんやけどな、あの子ら全然うまいこと作れへんから、見本見せたろ思って」
おっさんは缶ビールを軽く揺らしながら、ずんずん話を進める。
「で、楓。お前、交代したばっかりで一回も吹いてないやろ。それ」
その一言で、空気がまた変わった。
「そのストローもな」
おっさんが指でひょいと指す。
「俺のやつ、そのまま渡したやろ」
——時間が、止まった。
村上の脳内で、さっきまでのすべてが高速で巻き戻る。
シャボン玉。
シトラスの香り。
口に含んだあの感触。
"彼女の呼気"という、あまりにも都合のいい解釈。
全部。
全部。
全部。
「でっ……でも、シトラスの香りが……」
声が震えた。
かすれていた。
信じたい何かに、必死にすがる声だった。
「それ俺のリップな」
即答だった。
一切の間もなく、当然のように。
「ジョンマスターオーガニック。レモン&ライム。ええやろ」
誇らしげに唇をぺろっとするおっさん。
ツヤ、出てる。
無駄にコンディションいい。
村上の世界が、音を立てて崩れた。
「タンクトップのおっさんが唇にだけ気ぃ使うな!!!!!!!!!」
魂ごと吐き出すタイプの絶叫だった。
庭の子どもたちは爆笑している。
桐島さんも、つい吹き出している。
おっさんだけが、何がそんなにウケているのか分からず、ぽかんとしている。
その横で。
シャボン玉が、ひとつ。
また、ゆっくりと膨らんで、空へ浮かび上がった。
さっきと同じ、七色の膜。
ただし中身は、完全におっさん。
