見出し画像

雨上がりの水たまりにクジラがいたので、飼うことにした│シロクマ文芸部

潮を噴く街


水たまりにクジラがいた。

雨上がりの朝、通勤前に近道しようとアパートの裏路地に入った僕は、足を止めた。
アスファルトの窪みにできた、ただの水たまり。
その中を、手のひらに乗るくらいの小さなクジラが、のんびりと泳いでいたのだ。

見間違いかと思って屈み込んだ。
何度瞬きしても、それは確かにクジラだった。
丸っこい体に、小さな尾びれ。
時々思い出したように、米粒ほどの潮を吹く。

「……嘘だろ」

会社にはもう遅刻が確定していたが、そんなことはどうでもよくなっていた。
太陽はもう高く昇り始めている。
このままではこの水たまりは昼までに乾いてしまう。
そうなればこのクジラはひとたまりもないだろう。

考えるより先に、体が動いていた。
コンビニの袋に入っていた空のペットボトルでは足りず、僕は一度自宅に駆け戻ってバケツを取ってきた。
水道水を汲み、両手でそっとクジラをすくい上げる。
ひやりとした感触と、確かな重み。
バケツの中で、クジラは何事もなかったかのようにまた泳ぎ始めた。

「よし、うちで預かるか」

常識的に考えればあり得ない話だ。
でも、このクジラを見捨てるという選択肢は、なぜか最初から僕の中になかった。
会社には体調不良だと連絡を入れ、僕はバケツを両手で抱えて、こぼさないようにゆっくりと自宅へ戻った。

玄関でスニーカーを脱ぎ捨て、バケツをキッチンの隅にそっと置く。
改めて覗き込むと、クジラは規則正しく浮いたり沈んだりしながら、狭い水の中を優雅に泳いでいた。
誰かに話しても絶対に信じてもらえないだろう。
僕はスマホで写真だけ撮って、誰にも送らずに閉じた。
これは、僕とこのクジラだけの秘密にしておこう。
そう決めて、その日は一日中、そわそわしながらバケツの様子を眺めて過ごした。


翌朝、目が覚めてすぐキッチンに向かった僕は、悲鳴に近い声を上げた。

バケツの水が、縁からあふれている。
昨日はあんなに小さかったクジラが、今はバケツいっぱいに体を押し込むようにして、窮屈そうに泳いでいたのだ。
全長は優に三十センチを超えていた。

「な、なんで……」

驚いている暇はなかった。
水が床に広がっていくのを見て、僕は反射的に浴室へ走り、浴槽に湯ではなく水を張り始めた。
パジャマの袖をまくり上げ、バケツごとクジラを抱えて浴室へ運ぶ。
ざぶん、と水音を立てて、クジラは浴槽の中に落ち着いた。
心なしか、ほっとしたように見えた。

「頼むから、もうこれ以上大きくならないでくれよ……」

そう呟きながらも、僕の中で不安が膨らんでいくのを止められなかった。

その予感は的中する。
次の朝、恐る恐る浴室のドアを開けた僕の目に飛び込んできたのは、もはや浴槽の枠から尾びれと頭がはみ出している、一メートル近いクジラの姿だった。
バシャバシャと水が浴室中に飛び散り、床は水浸しになっている。

「これはもう、無理だ……」

僕はその場に座り込んだ。
この調子で大きくなり続けたら、明日には家の中になんて到底収まらない。
だからといって、動物園や水族館に連絡する勇気もなかった。
得体の知れない生き物だと騒がれて、連れて行かれてしまうかもしれない。
それだけは避けたかった。

悩んだ末、僕はその夜、日付が変わる頃を見計らって行動を起こした。
大きめの衣装ケースに水を張ってクジラを移し、台車に乗せて、そっとアパートの外へ運び出す。
向かった先は、近所で一番広い道路にできた、大きな水たまりだった。
昼間の雨のおかげで、水深は数センチほどあったが、水たまりとしてはかなりの面積がある。

「ごめんな、今日だけここにいてくれ。また明日、様子を見に来るから」

僕は後ろ髪を引かれる思いで、クジラをそっと水たまりに放した。
クジラは戸惑うように、狭い水の中で体をくねらせていた。
街灯の下、一人と一匹だけの、静かな夜だった。


翌朝、僕は寝坊するわけにはいかないと、夜も明けきらないうちから目を覚まし、昨夜の水たまりへと急いだ。

そして、絶句した。

水たまりの中に、全長十五メートルはあろうかという、正真正銘の本物のクジラが横たわっていたのだ。
艶やかな灰色の巨体は、朝日を受けて鈍く光っている。
信じられないことに、水深わずか数センチしかないはずのその場所に、クジラはまるで深い海を泳いでいるかのように、悠々と体を「ハマらせて」浮かんでいた。

「う、うそだろ……」

僕は声も出せずに立ち尽くした。
しかし現実逃避をしている暇はなかった。
空が白み始め、街が目を覚まそうとしていたからだ。

案の定、それから一時間もしないうちに、大騒ぎになった。
道路を完全に塞ぐ巨大なクジラを見て、通勤中の車が立ち往生し、クラクションが鳴り響く。
誰かが通報したのか、パトカーのサイレンが近づいてきて、続いて消防車まで到着した。

「なんだこれは……!」

「車が通れないじゃないか!」

商店街のシャッターが次々と開き、住民たちが何事かと集まってくる。
中には、朝から潮を吹きかけられて洗濯物がびしょ濡れになったと、怒りをあらわにする主婦もいた。
あっという間に、クジラの周りは人だかりと怒号で埋め尽くされた。

そんな騒ぎの中、クジラは体の大きさに似合わず、すっかり怯えきっていた。
人々に責め立てられるたび、「キュー」と情けない声を上げ、身を縮こまらせる。その様子は、まるで叱られている大型犬のようだった。

「す、すみません! 僕のペットなんです、本当にすみません!」

僕は人々の前に飛び出し、何度も頭を下げた。
それと同時に、クジラの肌が乾いてひび割れ始めているのに気づき、慌てて近くの家から借りたバケツで、必死に水をかけ続けた。

「お願いします、この子、死んじゃうかもしれないんです……!」

その必死な形相と、怒られてしゅんとしているクジラの、どこか憎めない様子を見ているうちに、住民たちの怒りは次第に和らいでいった。

「まあ……文句言っても始まらないか」

「こんなでかい図体して、鳴き声だけは可愛いもんだな」

「死なせちまったら、それはそれで寝覚めが悪いしなぁ」

誰かがそう言い出すと、周りも次々と頷き始めた。
しかし、すぐに全員が同じ壁にぶつかった。

「……で、こいつをどうやって動かすんだ?」

十五メートルのクジラを持ち上げる手段など、当然どこにもない。
クレーンを呼んでも吊り上げられる重さではないだろう。
誰もが腕を組んで唸っていたその時、消防団の団長らしき初老の男性が、ぽつりと呟いた。

「動かせないなら……泳がせりゃあいいんじゃないか?」

「泳がせるって、ここ道路ですよ?」

「だから、道路を海みたいにしちまえばいいんだよ。ここから港まで、まっすぐバイパスが通ってるだろう」

突拍子もない提案に一瞬静まり返った人々だったが、他に案がない以上、それは次第に現実的な作戦へと変わっていった。

警察と協議の末、海まで続く片側三車線のバイパスが、全面通行止めとなった。
消防車が何台も呼び集められ、道路脇の消火栓という消火栓から、一斉に放水が始まる。
興奮気味のクジラも、それに応えるようにひときわ大きな潮を吹き上げた。

「みんな、排水溝を塞げ! 水を逃がすな!」

住民たちは総出で、土のうやゴミ袋、手近にあるものをかき集めて排水溝を塞いでいった。
放水は止まることなく続けられ、みるみるうちに水位が上がっていく。
乾いたアスファルトの幹線道路が、あっという間に濁流渦巻く「即席の川」へと姿を変えていった。

「よし、動くぞ!」

誰かが叫んだ。
水位が十分に上がったところで、巨大なクジラの体がゆっくりと持ち上がり、水面に浮かび始めたのだ。
ビルと電柱に挟まれた都会のど真ん中を、クジラは大きな尾びれをうねらせながら、ゆったりと泳ぎ出した。

「せーの、引っぱれ!」

数本のロープを体に軽く結びつけ、住民たちが並走しながら誘導する。
歩道橋の上には、いつの間にか集まった野次馬たちがひしめき合い、歓声と拍手を送っていた。
クジラは水浸しになった車の間や、消えた信号機の下をすり抜けながら、少しずつ、しかし確実に海へと近づいていく。

僕はロープの先頭を握りしめながら、ずっとクジラの隣を走り続けた。
全身ずぶ濡れで、息も上がっていたけれど、不思議と疲れは感じなかった。

そしてついに、バイパスの終点、港が見えてきた。

「もうすぐだぞ!頑張れ!」

住民たちの声援を受けながら、クジラは最後の力を振り絞るように尾びれを大きく振った。
そして、港の岸壁を越えた瞬間、その巨体は本物の広い海へと飛び込んでいった。

ざぶん、という大きな水音とともに、しぶきが辺り一面に降り注ぐ。
水浸しの道路に取り残された僕たちは、泥だらけになりながらも、その光景に見入っていた。

すると、海面が大きく盛り上がったかと思うと、クジラの巨体が空高く舞い上がった。
見事なブリーチングだった。
陽の光を浴びて輝く水しぶきの中、クジラは一瞬、僕たちの方を見たような気がした。

「行っちゃうのか……」

寂しさと安堵が入り混じった気持ちで、僕は呟いた。
すると、まるでその声が聞こえたかのように、クジラはこれまでで一番大きな潮を、天高く吹き上げた。
それはまるで、僕たちへの感謝の挨拶のようだった。

そして、大きく一度体をくねらせると、クジラは静かに、北の海へ向かって泳ぎ去っていった。

僕たちはずぶ濡れのまま、いつまでもその背中が見えなくなるまで、手を振り続けた。




●シロクマ文芸部 お題「水たまり」参加作品


●サバチー 創作まとめ
妄想と虚構の掃き溜め(短編小説・創作)

●共同運営マガジン ノラマガ
現在絶賛メンバー募集中!!!


【サバチーの餌代】



いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集