「“ちょっとだけ”貧乏」と主張する同級生の“ちょっとだけ”が、度を越している│短編小説
ちょっとだけを、ちょっとだけ超えてる
菅野奈月のことを知っている人間は、彼女のことを「ちょっとだけ貧乏」と表現する。
本人がそう言っているからだ。
ちょっとだけ、というのがポイントで、困っているわけじゃないし、助けてほしいわけでもないし、でも余裕があるわけでもない。
そういう「ちょっとだけ」の話だ。
ただし、本人の談である。
ゴミ収集日の前夜、商店街裏の雑居ビルの脇。
廃棄袋が積まれた薄暗いスペースで、奈月はスカートの裾を結んで即席のポシェット代わりにしながら、野良チワワと対峙していた。
廃棄されたパンの耳が目当てだった。
チワワも同じものを狙っていた。
ターゲットが一致しているのになぜか戦争になっているのは、奈月が一歩も退かないからだった。
チワワが低く唸る。
「グルルルルルルル……」
「……ッ、来るなら来いって言ってる……」
奈月がにじり寄る。
足元の割れた惣菜パックを踏まないよう気をつけながら、視線だけはチワワから外さない。
「言っとくけど、こっちも今日これに懸けてるからね……」
何に懸けているのかは、本人にもよく分かっていなかった。
チワワが吠えた。
奈月は動じなかった。
「絶対に渡さないんだから……!」
次の瞬間、チワワが跳んだ。
奈月の手からパンの耳をひったくって、威嚇しながら路地の奥へ消えていった。
あまりにも鮮やかな強奪だった。
奈月はしばらく、自分の空っぽになった手を見ていた。
「……あー……取られちゃった……」
10メートル先の路地口から、サバチーが一部始終を見ていた。
見てしまっていた、が正確で、あまりにもシュールな絵面が視界に飛び込んできて軽い眩暈を覚えていた。
「お前……チワワに負けたのか……?」
奈月は振り返らなかった。
口元についたチワワの唾を袖で拭いながら答える。
「うるさい……今日は調子悪かっただけだもん……」
「調子が良かったら勝てんのか?」
「……次は勝てる」
「それ負ける人間が言う言葉だろ」
奈月はそこで初めてサバチーの方を向いた。
向いたが、何も言わなかった。
チワワに引っ掻かれた赤い痕が腕にあって、それを見たサバチーも黙った。
「痛くねぇか?」
「ちょっとだけ」
「お前の“ちょっとだけ”は信用できねえんだよ」
しばらく間があって、サバチーが持っていたスーパーのビニール袋を無造作に差し出した。
「……これ、間違えて買った。いらん」
袋の中には食パン、バナナ、レトルトがいくつか、缶詰。
三日は持ちそうな組み合わせで、栄養のことをちゃんと考えた人間が選んだ形跡が、隠しきれずに滲み出ていた。
奈月はしばらく袋の中を見つめていた。
「……間違えてバナナも入れたの?レトルトも、缶詰まで」
「全部間違えたんだよ」
奈月は受け取った。
受け取るまでに少し時間がかかったが、受け取った。
袋を両手で持って、それからたどたどしい声で言った。
「……サバチーって……案外……優しい……」
「"ちょっとだけ貧乏"って……なんなんだよ……」
サバチーがぼそっと言った。
奈月はビニール袋の中身を見つめたまま、少し考えてから答えた。
「……うちは……"ちょっとだけ"を……ちょっとだけ超えてるんだと思う……」
夕焼けがゴミ捨て場の隅まで差し込んで、「ちょっとだけ」じゃ済まされない現実の風が、ふたりの間を通り過ぎた。
悪人にも、引き際がある
美那フェチ学園都市、美那フェチ銀座通りの裏手。
シャッターの閉じた店と廃ビルのあいだに、今日も胡散臭い屋台が出ていた。
テーブルの上には、手描きの看板が置かれている。
『あなたの未来、今なら先行予約できます』
その前に立っている男は、かつて道徳の教科書をPDF化してNFTとして売った、と噂される伝説の詐欺師“道徳を金で売った男”だった。
真偽は不明だが、少なくとも顔は胡散臭かった。
「今なら君の“未来”に投資できるチャンスだ!」
詐欺師は片手を広げ、やけに良い声で言った。
「たった今、この瞬間に賭ける勇気さえあれば――」
「私……勇気、出します……!」
奈月が一歩、前に出た。
手には、ぐしゃぐしゃになったポリ袋。
中には十円玉、五円玉、一円玉。
それから、なぜか妙に存在感のある五十円玉が一枚。
時間をかけて貯められたことだけは、見れば分かる小銭の重さだった。
奈月は袋を両手で差し出した。
「これ……大事なときのために、取っておいたの……」
詐欺師は、袋の口から覗く硬貨を見た。
「……これ、いくらあるんだい?」
「6428円……!」
「……」
数秒、何も起きなかった。
通りの向こうで自転車のベルが鳴った。
風に煽られて、屋台の『未来』という文字が少しだけ剥がれかけた。
詐欺師はゆっくり奈月を見た。
「君、そのお金……ずっと貯めてたのかい?」
「……うん。急に困ったときとか……どうしても必要になったときのためにって……」
「…………」
詐欺師は目を閉じた。
それから、屋台の看板を裏返した。
「帰りなさい」
「えっ?」
「今日はもう、店じまいだ」
「でも……私の未来に投資……」
「しなくていい」
詐欺師はテーブルに置かれた怪しげな契約書をまとめ始めた。
「俺はな、金にするためなら、道徳でも希望でも売る。母親の戸籍も勝手に売った」
奈月はまだポリ袋を差し出したままだった。
「でも、君から金を取るくらいなら──俺の道徳、買い戻すよ。6428円で」
「……じゃあ、未来は?」
「自分で使え。パンでも買え。できれば、もう少しまともなものを」
詐欺師はそう言って、屋台を畳み始めた。
そして、自ら警察に向かって歩き出した。
──後に彼は「これまでの利益はすべて寄付します」と語ったが、返すべき相手は別にいる。
ちゃんと返せ。
奈月はしばらく動かなかった。
一部始終を見ていたサバチー、渋い顔で咲月に近寄る。
「……なぁ咲月。アレ、詐欺だぞ」
「えっ!? で、でも……優しかったような……」
「詐欺師はあいつらなりの善意なんだよ」
奈月が振り返る。
「でも……お金、取らなかったよ……?」
「悪人の引き際ってやつだな」
サバチーは奈月のポリ袋を見た。袋の底には、黒ずんだ一円玉まで混じっている。
「で、せめて両替くらいしてやるよ」
財布から千円札を七枚出して、奈月の前に差し出す。
「ほら」
「えっ……でも、これ……七千円……」
「手数料だ」
「手数料って、もらう方じゃないの……?」
「その辺のルールってややこしくない?」
奈月は七千円と、ポリ袋を見比べた。
「……ちょっと多いよ……」
「間違えた」
「前にもそれ言ってた」
「算数の間違えは、全て義務教育が悪い」
奈月は少しだけ笑った。
それから、ポリ袋を差し出した。
「……ありがとう……サバチーって、やっぱ……ううん、なんでもない」
ポリ袋を受け取ったサバチーは、硬貨の重みを確かめるように一度だけ持ち上げた。
翌日の放課後。
校舎裏の風紀委員詰所。その裏手の、さらに人目につかない場所で、サバチーは弦木未歩を見つけた。
弦木専用の彼岸花があしらわれた風紀委員の腕章をつけたまま、堂々とサボっていた。
「弦木いいいいいいいいいい!!!!!」
「うわっ、サバチー!一緒にサボる!?でもサバチーはいつもサボってるから――」
サバチーは、例の小銭入りポリ袋を高く掲げた。
「見よ!!!俺が美那フェチ銭形平次だあああああッ!!!」
「うわあああ!!!とっつぁん!?かっこいいいいい!!!!!」
五円玉が飛んだ。
「ギャッ!!!」
額に当たった弦木が、その場にうずくまる。
「痛っ……待って、普通に痛い!!!冷たいのおおおッ!!!」
「穴が空いてるから狙いやすい!!!」
「スナイパーみたいだね!!??」
次は十円玉が飛んだ。
弦木は避けた。
避けた先で足を滑らせ、落ち葉の上に転がった。
「ちょ、やめ――あっははは!!やめてええええ!!」
「反省しろ!!!風紀委員!!!」
「小銭でえ!?」
やがてふたりは、校舎裏に小銭をばら撒いたまま笑っていた。
その少し先の曲がり角に、奈月がいた。
落ちている硬貨を見た。
ポリ袋を見た。
そして、声にならない声で呟いた。
「……あれ、あたしの……」
目に涙が溜まった。
大事なときのために。
少しずつ取っておいた、小さな安心だった。
けれど、サバチーと弦木が笑っているのを見ていたら、怒ることもできなかった。
奈月は袖口で目元を拭った。
「……でも……楽しそう……」
そう言って、ほんの少しだけ笑った。
「ちょっとだけ貧乏」の6428円は、誰かにとっては弾丸になって、誰かにとっては笑い話になって、奈月にとっては、まだ大事なときのためのお金だった。
優しさって、悲しさと紙一重だ。
6,428円分のドラマが、それを教えてくれた。
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