見出し画像

ボタンを掛け違えただけなのに│シロクマ文芸部

「風が吹くと桶屋が儲かる、なんてことを言いますが、世の中というのは、ほんの些細なことが思わぬ方向に転がっていくものでして──」

今朝、シャツのボタンを掛け違えた。

たった、それだけのことで。



気づいたのは電車の中だった。

胸元がもそもそする。
首が締まる。
見下ろした瞬間、全部わかった──第一ボタンが第二の穴に収まり、以下すべて一段ずつズレて、裾の最後の一個だけが宙ぶらりんで揺れていた。

直せばいい。
五秒で終わる。
ただそれだけの話だ。

なのに、できなかった。

満員電車でシャツをはだけるわけにもいかない。
でも放置したら気になる。
首の締まりが気になる。
右肩と左肩がなぜか違う高さに感じる。
歩くたびに裾が揺れる感覚が非対称で、不快で、落ち着かなくて、どんどん焦ってくる。

だから挙動がおかしくなった。

首をすくめる。
肩を揺らす。
胸元をさりげなく直そうとして、失敗する。
吊り革を握りながら自分の胸元をチラチラと確認する。
その視線がいかにも不審だったのか──向かいのサラリーマンと目が合った。

ばっちり、正面から。

気まずくて、目を逸らした。

これがいけなかった。


 
改札を出た瞬間、肩を叩かれた。

「ちょっといいですか」

警察官が、二人いた。

電車内で挙動不審な人物がいると通報があった、と。
目を泳がせ、胸元をまさぐり、周囲を警戒する素振りがあった、と。

「なにかお困りでしたか」

「ボタンが、ズレていまして」

「……はあ」

「それで落ち着かなくて、キョロキョロしてしまって」

「……………はあ」

解放されるまで、十五分かかった。

人生で一番長い十五分だった。



その夜、これがニュースになった。

最初は「ほっこり枠」だった。
夕方のワイドショーのエンディング、アナウンサーが顔をほころばせながら読み上げる、あの枠だ。
「今日のほっこりニュース、ではなく、ちょっとびっくりニュースです!」と前置きして、駅の防犯カメラ映像が流れた。
キョロキョロしながら改札を抜ける私の姿。
スタジオが笑った。
コメンテーターが「ボタンって、侮れないですよねえ」と言った。女
性アナが「わかります、私もやります!」と笑った。

平和だった。
あの瞬間までは。

SNSに切り抜きが流れ始めた途端、空気が変わった。

「これ、言い訳では?」
「挙動不審には必ず理由がある」
「いや職質のあり方が問題だろ」
「通報した側にも正当な理由がある」
「でもそれって監視社会じゃないの」
「治安を守るためには必要だ」
「人権はどこへ行った」
──議論が、文字通り爆発した。

翌朝の週刊誌デジタル版の見出し:「ボタン男事件の深層――なぜ彼は疑われたのか」。

深層も何も。
ボタンが、一個ズレてただけだ。



三日後、海外メディアが動いた。

英語圏のニュースサイトが報じた。
"Japanese Man Detained for Suspicious Behavior at Station."
Detained(拘留された)は言い過ぎだったが、訂正されなかった。
翌日には "Arrested(逮捕された)" に格上げされていた。
誰も止めなかった。

アメリカのコメディ番組が飛びついた。
司会者が満面の笑みで言った。「シャツのボタンを間違えたら逮捕される国があるらしい」。
スタジオが爆笑した。

それが日本語字幕つきで逆輸入され、今度は日本のSNSが「馬鹿にされた」と燃え上がった。
怒りはガソリンだった。
誰かが火をつけた。
あとは燃えるだけだった。



一週間後、ある国の人権団体が声明を発表した。

「日本の公共空間における恣意的身柄拘束に深刻な懸念を示す」

外務省が反論した。
人権団体が再反論した。
別の国の議会で議員が質問した。
外相が「適切な懸念を日本側に伝える」と答弁した。
日本の外相が「内政干渉だ」と反発した。

国連の人権理事会で、ある委員がこう言った。

ボタン事案について――」

もはや固有名詞だった。
私のシャツが、固有名詞になっていた。



三週間後、軍事アナリストが現れた。

某国の安全保障系シンクタンクが報告書を出した。タイトルはこうだ。
ボタン事案に見る日本の国内治安強化の動向と、東アジアにおける勢力均衡への影響」。

四十ページ。

私のことが、四十ページにわたって分析されていた。

その報告書を根拠に、ある国の国防省が声明を出した。
「日本の監視体制の拡充は地域の安定を損なう可能性がある」。
日本の防衛省が応じた。
「わが国の治安維持は主権の範囲内だ」。

両国の艦船が、東シナ海で向き合った。

偶然ではなく、示威行動だと報じられた。

私の、シャツのボタンが、艦船を動かしていた。



その頃、私は上司に呼ばれていた。

「君、最近騒がしいね」

「はあ」

「取材の申し込みが会社に来てるんだが」

「はあ」

「断っておいたけど」

「すみません」

「……ボタン、ちゃんと確認してから出社してくれよ」

「気をつけます」

私は何も悪いことをしていない。
断じて。
ただボタンが一個ズレていただけだ。
それだけだ。
それだけのことが、なぜ、どうして、こんなことになるんだ。

国会でも取り上げられた。
野党が「政府はボタン事案について国民に説明する責任がある!」と叫んだ。
与党が「ボタン事案という呼称自体が不当だ!」と叫んだ。
審議が四時間止まった。
四時間だ。

「停艦ライン」を設けるための外交交渉が、水面下で始まったと後に報じられた。



あれから、三ヶ月。

両国はついに共同声明を出した。
「ボタン事案に端を発する一連の緊張を遺憾とし、相互の信頼醸成に努める」。

私の名前は、一切載っていなかった。

世間がすっかり忘れかけた、秋晴れの朝。
久しぶりに外に出た。
空が高い。
風が気持ちいい。
今日は何もない。
そういう日だ。
そういう日でいい。
もう何もなくていい。

ふと、足元を見た。

右足に──黒い革靴。

左足に──茶色のローファー。

「…………」

沖合で、また艦船が動き始めるだろう。
私にはもう、止める気力がない。




いいなと思ったら応援しよう!