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水族館で告白したら、見知らぬジジイとキスすることになった│シロクマ文芸部

10秒の奇跡


目をつぶる。

何かから目を背けたかったわけじゃない。
彼女の顔からも、現実からも、逃げ出したくなったわけじゃない。
彼女に言われたから、ただそうしているだけだ。


一日中歩き回った。
足の裏がじんじんする。

水族館で、彼女はクラゲの前で立ち止まって「きれいだね」と言った。

あの時、俺はそれがクラゲのことなのか、水槽に映った自分たちの姿も含めた何か全体のことなのか、よくわからなくなっていた。

その横顔があんまりきれいだったから、俺は思い切って言ってしまった。

「好きです」と。

三年越しの気持ちだった。
胸のどこかにずっと刺さっていた棘を、えいやっと引き抜くみたいに、勢いだけで口から押し出した。

「俺と、付き合ってください」

すると彼女は、ふふっと笑って言った。
その笑い方が、今までと変わらないようでいて、どこかだけ違って聞こえた。

「じゃあ10秒、目をつぶって。開けた時に見えるものが答えだから」

言葉の意味を理解するより先に、彼女の声の調子だけが頭に残った。
冗談めかしているけれど、完全なふざけでもない、妙な重さがそこに混ざっていた。

そして俺は今、目をつぶっている。

一、二、三。

彼女の気配が、横にあるのかないのか、よくわからない。
気配なんて、本当は気のせいなんじゃないかと思うくらい、心細くなる。

四、五、六。

どうせ逃げるんだろう。
目を開けたら、彼女はきれいさっぱりいなくなっている。
そういう答えだ。
わかってる。

七、八、九。

それでも、もしまだそこにいてくれたら――という、往生際の悪い期待も、同じくらいしつこく張り付いている。

十秒数えて、俺はゆっくり目を開けた。


そこには、見知らぬジジイが立っていた。


「…………は?」

声が、情けないくらい間の抜けた音になった。

白髪、深い皺、よれよれのカーディガン。
水族館の青い光の中で、ジジイはにこにこしていた。
観光地に一人で紛れ込んでいるタイプの、少し人懐っこそうなジジイ。
だが問題は、そんな一般的な印象どうこうではない。

俺の彼女ポジションに、なぜかジジイ。

「私だよ」

「は?」

口から出た「は?」が二回目とは思えないくらい、別物の「は?」になった。

「私。さっきまで隣にいた」

言葉は日本語なのに、意味が理解できない。
脳みそが、一瞬、言語として処理するのを拒否した。

「いや、あの、ちょっと待ってください」

とにかく時間稼ぎだけをする口。

「待たなくていい」

「待て!!!」

条件反射でツッコんでいた。
自分でも、なんでこのジジイに対して普通にツッコミが出せるのか、よくわからない。

「私だよ」

「絶対に違う!」

「あなたが好きって言った」

「お前には言ってない!!!」

しばらくの押し問答の末、ジジイは静かに言った。
その声には、さっきまでの軽い調子とは違うものが、かすかに混じっていた。

「なんだ、私の見た目だけが好きだったんだね……」

悲しそうな声だった。
水槽のクラゲが、ふわりと沈んだ。
青い光も一緒に沈んでいくみたいに、水槽全体の色が少しだけ暗くなった気がした。

「……そんなことは」

言いかけて、言葉が喉でつっかえた。

そんなことは――なんだ?
違う?
本当に?

「違うの?」

ジジイが小さく首を傾げながら言う。
その仕草が、妙に見覚えのあるものに重なった。
さっきまで隣にいた彼女が、時々やっていた仕草そのものだった。

男のプライドと、罪悪感が、俺の口を動かした。
ここで「そうです」とは言えない。
言いたくない。

「違う。ジジイでも、好きだ!」

言ってから、少し後悔した。
なぜここで「ジジイでも」を付けたのか。
よりによって、比較対象として自ら地雷を添えてどうする。

ジジイは顔をほころばせた。
皺がさらに深くなった。
皺の一本一本に、知らない人生の時間が刻まれているように見えて、わけもなく視線のやり場に困る。

「じゃあ、キスして?」

そう言いながら、ジジイは顔を近づけてきた。

近い。
物理的距離が、明らかに近い。
水族館の涼しい空気の中で、ジジイの体温だけが妙にリアルだ。

歯が、ない。
口元がすぼまって、何か——仁丹だろうか——強烈な臭いが漂ってくる。
それだけじゃない。もっと根源的な何か、「終わりに向かっている人体」の臭いとでも言うべきものが、鼻の奥を直撃した。

頭では「人間いつかはこうなる」とわかっている。
「年を取ることを汚いと言ってはいけない」とも、どこかで聞いたことがある。
あるのだが、それとこれとは話が別だ。
今ここで、その「未来のリアル」をどアップで突きつけられる心の準備はできていない。

「やっぱり無理だ!!!」

反射的に叫んでいた。
自分の声にいちばん驚いているのは、たぶん俺自身だ。

「やっぱり……」

ジジイが、少しだけ肩をすくめた。
その「やっぱり」が、なぜか妙に女っぽい。

「いや、違う、誤解しないでほしいんだけど、見た目だけじゃなくて、中身も、見た目も、『合わせて』好きだったんだよ! 総合的に! パッケージとして!」

早口で必死に言い訳する自分の姿が、水槽に反射して見えた。
そこにいるのは、思ったより情けない男だった。

ジジイは小首を傾げた。

「じゃあ、元々の見た目のまま付き合ったとして。私が年老いたら、捨てるつもりだったってこと?」

俺は口を開けたまま、固まった。

その問いは、「未来の仮定」の形をしているくせに、実際には俺の今この瞬間の本音をまっすぐ突いてきた。
答えたくない種類の質問だ。
正直に答えれば最低だし、嘘をつけば、もっと最低だ。

クラゲがまた、ゆっくり沈んだ。
さっきと同じ動きを繰り返しているだけなのに、全く別の意味を持って見える。

「じゃあ、キスするってことでいいね」

逃げ場がなかった。

左右を見ても、水槽と見知らぬ観光客しかいない。
助けを求めようにも、この状況を説明する言葉からして見つからない。

目をつぶった。
さっきとは違う意味で。
今度の暗闇は、さっきよりも濃い。
まぶたの裏側で、「やめろ」と「でも」が、互いに首を絞め合っている。

唇に、柔らかい感触があった。

ジジイの唇は、想像していたよりも、生々しく柔らかかった。
仁丹の匂いと、微かな薬品の匂いと、口腔の湿った温度が、全部まとめて押し寄せてきた。

しばらく唇を重ねたあと、ジジイがすっと離れた。

​「ありがとね……」

ジジイは満足そうに笑うと、よれよれのカーディガンを羽織って去っていった。

​ポツンと取り残された俺のスマホが震える。
彼女からのLINEだった。

『ちゃんと10秒数えてくれてありがとう! 10秒あれば撒けたわ! さよなら〜!』

​水槽のクラゲが、あざ笑うかのようにふわりと浮いた。
俺は仁丹の味を噛み締めながら、ただ立ち尽くしていた。


「あのジジイは誰だったんだよ!!!!!!!」




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