擦りむいた膝が、予言をした│シロクマ文芸部
膝小僧の神様
眠れない夜が続くと、亡くなった母の話を思い出す。
膝には、神様がいるのだという。
「膝小僧って言うでしょ」と母はよく言った。
「あの"小僧"ってね、子供の神様のことなんだよ」
諸説ある、などという話ではなかった。
母は完全に自説として、揺るぎない確信をもって言い切った。
膝の皿の少し上あたりに、小さな子供の神様がちょこんと座っていて、普段はぎゅっと目を閉じている。
そして——。
「膝を擦りむいたとき、その神様の目が開くの」
「なんで」
「痛いところに、神様は現れるから」
それっぽいことを言っているが、よく考えると全然意味がわからない。
「目が開いたらどうなるの」
「予言してくれるの。あなたの未来を」
「じゃあ、開いてる間に見ないとだめじゃん」
「そう。だから泣かないで、ちゃんと見るの。痛くても、じっと膝を見つめてると、神様が教えてくれるんだよ」
転んで泣いてばかりだった私に、母はいつもそう言った。
擦りむいた膝を押さえてわんわん泣いていると、「ほら、神様が目を開けてるよ、見てごらん」と言いながら、私の涙を指で拭った。
今思えば、泣かない強い子にしたくて、苦し紛れに考えた話だったのだろう。
それにしても変な話だ。
膝の皿が神様の目ってことか。
だとしたら神様、ちょっと顔がでかすぎる。
まあ、もうそういう細かいことを聞ける相手は、いないのだけれど。
仕事のことと、恋人のことが、同時に動いた。
仕事は、異動か退職かという話になっていた。
恋人とは、結婚か別れかという話になっていた。
どちらか一方ならまだよかった。
でも二つ同時というのは、思ったより消耗した。
選ばなきゃいけない、なのに何も決められない。
その繰り返しが毎日続いて、眠れない夜が増えた。
正解ってなんだろう、と考え続けていた。
考えることで、前に進んでいる気がした。
でも実際はただぐるぐるしていただけで、何も決まらないまま日が過ぎていった。
そういう気もそぞろの午後に、階段を踏み外した。
派手に、である。
アパートの外階段の途中、三段ほどを一気に滑って、右膝をコンクリートの角にしたたかに打ちつけた。
じわじわと血が滲んだ。
最悪だ、と思った。
仕事のことも恋人のことも決まらないのに、膝まで怪我した。泣きっ面に蜂。
あまりにも情けなくて、涙がこぼれそうになった。
そのとき、母の話を思い出した。
そんなわけない、と思いながらも、なんとなく膝を見た。
ズキズキと脈打つ痛みの中で、傷口が赤く光っていた。
泣かないで、じっと見てごらん——母の声が、どこか遠くから聞こえた気がした。
痛い。
めちゃくちゃ痛い。
でも、じっと見た。
目は、開かなかった。
予言も、聞こえなかった。
当たり前だ。
そのままペタンと座り込んで、傷口を眺めていた。
ズキン、ズキン、ズキ、ズキ、ズキン。
規則正しい痛みだった。
ズキン、ズキ、ズキン、ズキ、ズキン。
……規則正しい?
私は顔を上げた。
「…………もしや、モールス信号!?」
立ち上がった。
走った。
アパートの階段を、怪我した右膝を庇いながら全力で駆け上がった。
部屋に飛び込んで、スマホを開いて、モールス信号の変換サイトを引っ張り出した。
指が震えた。
痛みを記憶の中で再生しながら、必死に打ち込んだ。
「ーー・・ー ー・ー・ー ・・ ・ー ー・ ・ー ーー・・ー ー・ー・ー ・・ ・ー ー・ ・ー」
変換ボタンを押した。
「ヒザ イタイ ヒザ イタイ」
「いや知ってるよ!!!!!!!!!」
膝が痛いのは知ってる。
今まさに痛いから確認しに来たんじゃない。
未来とか予言とかそういうのを頼んでいるんだよこっちは。
神様がモールス信号で「ヒザ イタイ」と返してくるなら変換サイトなんか要らないし、そもそもモールス信号を打てる指はどこにあるんだ、膝のどこに。
笑いがこみ上げてきた。
ひとしきり笑って、椅子にへたり込んだ。
膝がじんじんした。
笑ったら涙が出てきた。
やっぱり母さんのデタラメだった。
でも、力みが、すっと抜けていった。
ここ最近ずっと張っていたものが、ふっと緩んだ。
正解を探して、考えて、頭の中だけでぐるぐるしていたあの重さが、少し軽くなっていた。
なんでだろう、と思って、でもすぐわかった。
今日、階段を踏み外してから、初めてちゃんと今の自分を見た気がした。
仕事のことも、恋人のことも、「どうすれば正解か」ばかり考えていて、「今の自分がどういう状態か」を、ずっと見ていなかった。
平気なふりをしていた。
強がっていた。
ズキズキしているのに、そのズキズキに目を向けることを、ずっと避けていた。
膝の神様の予言というのは、たぶん、未来を当てることじゃない。
「今、私は傷ついている」と、自分自身で認めること——それが、予言だったんだ。
痛みを我慢してじっと見つめる、というのは、そういうことだったんじゃないか。
泣かない強い子というのは、感じていないふりをする子ではなくて、ちゃんとズキズキしながら、それでもそこに目を向けられる子のことだったんじゃないか。
母さん、ずいぶん遠回しな教え方をするな、と思う。
なぜモールス信号が出てるのかは分からないけど。
涙と笑いがまだ少し混ざったまま、私は消毒液を探して立ち上がった。
まず膝を治さないと、何も決められない。
それだけは、神様に言われなくてもわかった。
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