第十八章 暗涙
「なんかすごく雰囲気のあるお店ね。小林さん、けっこうモテるでしょ」
小林が指定した裏路地の店は、しっとりとした大人のバーといった感じで、ジャズピアニストだろうか黒のジャケットに揃いのハットを被った男性が店の壁際に置かれたアップライトピアノで軽快な曲を奏でている。 バーテンダーの後ろの棚には、知らないラベルの酒瓶がびっしりと並んでいる。普段、抜け道としてよく使う道路なのに、こんなに良い店があったことに気が付かなかった。
「全然モテません。モテたくて髪型とか服に拘った時期もありましたけど、元々が無頓着な人間なので、長くは続きませんでした」
照れ笑いする顔は、可愛い系の男子が好みの女子には堪らないだろうなと思うほど目を惹いた。
鍵閉じ込めの一件があった翌日、小林はクリニックに昨日の礼と言って、すみれとクリニックの皆さんでどうぞと菓子折りを持ってきたのだ。そして、昨日渡せなかったと言って、小瓶に入ったアロマエッセンスを持ってきた。
今度は自分が奢るから飲みに行きましょう、となったのだ。
「児島さん、その後どうですか? 眠れてますか?」
「んー。状況はそんなにかわってないな~。でもあのアロマ、すごくいい香りだね。私、あれ好き」
キラキラと効果音の付きそうなほど、小林の顔がみるみる笑顔になっていく。くるくる変わる小林の表情を見ていたら、暗い胸の中がスッとして気分が良かった。
小林の話は楽しかった。読書と映画鑑賞が趣味で、インドア派だと言うわりに、新型の筋トレマシンを買ったと言う。
「腹筋しながらハードボイルド系の小説を読んでいると、敵をやっつけるために鍛えなきゃって気合いが入るんです」
冗談ですけど、と肩を竦め、
「アクション系の映画を観ながら腕立て伏せをすると、毎回新記録更新するんです! この前なんて、三百回ですよ!」
三百回は言い過ぎですけど、と笑う。
「もうそれ、筋トレの方が趣味だわ」
思わず突っ込まなくてはいられなかったすみれに
「認めたくないだけで、実はそうかもしれません」
そう言って力こぶを作るジェスチャーをして見せる。端から見ていた小林は、頼りない年下の弟みたいな印象だった。実際の小林は、職業柄なのか元々の彼の性格なのか、相手の興味を引きつけることに長けている。すみれは小林という男をもっと知りたいと思った。
決して強引ではなく気がつくと小林のペースで時間が過ぎていく。自分はこんな場所をずっと求めていたのかもしれない。
これまで限られた時間の中で、限られた愛情を啜っていたすみれにとって、自分のためだけに時間をくれる小林の優しさが嬉しかった。
小林は六つ上に内科医の兄と、四つ上に薬剤師の姉がいて、更に実家は隣町の総合病院で、父親は有名な心臓外科医だった。
彼が生粋のお坊っちゃまだと考えれば、先日ハンカチを畳んでポケットに入れたときの流麗な所作にも納得がいく。
小林とは頻繁に飲みに行くようになった。例のバーを気に入った事もあるけれど、何より小林と一緒にいる事が心地よかった。
その日も、ジャズのリズムとアルコールの余韻に浸り店の外で迎えの代行タクシーを待っていた。
話がある、と真面目な顔で小林が言うので、話ならなぜ飲んでいるときに話さないのかと、酔ったすみれは説教するように小林に詰め寄った。
小林は視線をそらさず、じっとすみれを見ている。いつもこんなふうに小林はすみれを見つめてくる。すみれは、目尻の下がった優しい印象の小林には意外なほど力強い意思を感じる目に吸い込まれそうになった。小林の顔が近づいてくる。反射で目を閉じる寸前、名前を呼ばれた。
咄嗟に小林に距離をとる。声に聴き覚えがあった。
――春子だ。
小林の肩越し、少し先の角からこちらに向かって歩いてくる影が見える。
ほっそりとした脚が膝より少し下の長さのスカートから真っ直ぐ地面に伸びている。
うっすらと表情が確認できる位置まで近付いて来て立ち止まった。
違って欲しいと思ったが、そこにいたのは間違いなくトオルの妻、春子だった。
「あ〜、やっぱり児島さんだ〜。デートですかぁ〜。い〜なぁ〜」
酔っているようだ。
「益田さんこんばんは、こんなところで――」
会うなんて奇遇ですね。と言いかけて、言葉を掬われた。
「私たちも同じ店で飲んでたんですよ〜。なんかすごく良い雰囲気だったから声かけられなくて~」
ねぇ~、と言いながら振り仰ぐ春子の視線の先にいたのはトオルだった。沈黙が流れた。ほんの数秒程度のそれが、とても長い時間に感じた。
春子は「じゃあ」と顔の高さで手を振り、トオルに腕を絡ませ行ってしまった。トオルの視線を感じていたけれど、すみれはトオルを見なかった。トオルに会うのは、春子の浮気を知り取り乱してすみれの前から去ったあの日以来だった。
あの後もトオルから何度も連絡があった。メールも電話も、すみれは一度も応じなかった。トオルの声を聞いてしまえば、平気でいられなくなる。何度も表示されるトオルの番号を着信拒否に設定した。
春子は、自分たちもこの店にはよく来ると言った。すみれは、トオルと会うときには人目を気にして、ひっそりと目立たない店ばかり選んできた。隠れ家のようなこの店は、そんなすみれとトオルの会瀬にはもってこいの場所だ。一度も連れてきてもらえなかったのは、妻との大切な場所だったからなのか。
今ごろになって突き付けられた現実に、これまでの迂愚な自分を罵った。
一瞬、小林と一緒にいるところを見られた事を気恥ずかしく思ったが、それだけだった。相手がトオルだからではない。誰に見られても抱くような、ごく普通の含羞だった。
トオルへの気持ちを押さえられず取り乱すのではないかとあれほど危惧していたのに、気にくわないと思う以外は、気が抜けるほど心は平常だった。
「お知り合いですか?」
事の一切を見ていた小林から問われ我に返った。
「ん、患者さん」
すみれを見下ろすように俯いていた彼の口元がフッと緩んだ。
「行きましょう、タクシーがきました」
ほら、と示した小林の視線の先に、ハザードランプを点滅させている黒っぽい車が止まっていた。
さあ、とすみれの背中に手を当て、歩みを促す小林の手が震えている。そうだ、さっき、春子に声をかけられる前、小林はすみれにキスをしようとしていた。そろそろとすみれに顔を近づけて来た小林は緊張を抑えるように息を呑んだ。それを見て可愛いと思ったのだった。こんなにも手を震わせるほどに緊張していたのかと思うと、この震える手を放っておけなかった。
すみれは足を止め、小林の震える手を握った。掌はしっとり汗ばんでいる。驚いて引っ込めようとする手を強く引っ張り返すと小林がバランスを崩して前のめりになった。すみれはその腰に前から両手を回し小林の胸に顔を埋めた。
小林が狼狽えている様子が伺えて、すみれは可笑しかった。
――あぁ、少し飲み過ぎたかもしれない。
顔を離しそっと見上げると、恥ずかしさに困ったような小林の顔があった。
湿った手で両方から頬を包まれる。すみれは目を閉じ小林の潤んだ唇を迎え入れた。
最初は合わせるだけの軽いそれが、啄むように何度も求めてくる。そして、唇を割り、熱い舌先がすみれの舌を掬う。深く求め合った舌が離れると、小林の唇がすみれの耳に触れた。くすぐったくて身を捩るすみれの腰を小林がきつく抱き寄せる。
「好きです。あなたが……好きだ……」
息だけの言葉はすみれの耳を伝い腰に響く。
――優しい。なんて優しい言葉なのだろう。
自分だけに注がれる愛情は、こんなに優しく身体に染みるんだ。誰かの次ではなく誰かのものでもない、全身で自分にだけ想いを向けてぶつけてくるこの男をすみれは愛しいと思った。
そっと目尻を拭われ、すみれはその時はじめて自分が泣いている事に気が付いた。
その手がじんわりと暖かくてずっと触れていて欲しいと思った。
瞼に透ける淡い陽光に、ゆっくりと意識が目覚めていく。
「おはようございます……すみれ……さん」
うっすらと開けた視界に、目尻の下がった優しい笑顔を覗かせた。
そうだ、昨夜は小林のマンションに泊まったのだ。名前で呼ばれた事よりも、昨夜の情交が蘇り、顔が熱くなった。
バーの前で春子に声をかけられ、小林との事を冷やかされた気がして心持ちが悪かった。でも不思議と平気だった自分に、すみれは安堵した。自分の全てを差し出すような勢いで想いを伝えてくれた小林を、心の底から愛しいと思った。これまで何度も食事や飲みに出掛けて、何となく自分に好意を寄せてくれていると感じていた。今まで何度も機会があったのに、すみれを求めてくるようなことは無かった。小林の震える手の感覚が背中にまだ余韻を残している。
肘を立てる格好ですみれの前髪を梳かしている手を取り、指先にそっと口付けた。
その指先がすみれの唇をなぞり、頬を撫で、こめかみから髪を掬い上げ視線がぶつかる。
目を閉じると熱い吐息ごと降りて来た唇がすみれの舌先を啄ばみ絡め取る。小林の昂ったものがすみれの腰骨に当たりビクンと波打つ。
すみれは唇を合わせることで返事をし、小林を受け入れた。
ゆっくりと時間をかけてされる愛撫は、キャンディーを包むオブラートを剥がすように丁寧に繰り返される。律動は激する事なくおおどかで、まるでサーフボードを撫でる下波のように控えめな優しさが堪らない。
MRの仕事に就くために父親と揉め、親の反対を押し切り、医大には進まず文系の国立大学へ進学したと聞いたとき、穏やかな彼からは想像できずに驚いた。資料でパンパンに膨れ上がった彼の鞄が、その決意の証しのように思えた。
この手を信じてみようか。相手に期待したり甘えたり、そんなことはとっくの昔に忘れてしまった。一方を裏切ることで成り立っていたトオルとすみれ。関係を絶った今もすみれの深いところに暗く影を落としている。
常に優先される妻と、劣後順位のすみれ。
我慢することが愛することだと勘違いし、まやかしに過ぎない浮いた言葉を真に受ける。それが自分に向けられた愛情だと勘違いして心が荒んでいくことすら気付かない。
今なら亜美の気持ちがわかる。
いつかすみれがトオルに捨てられると言った彼女は正しかった。それは唯一愛された者の確信なのだから。
下波の律動がひときわ大きくなると、最奥に熱が注がれ波はゆっくり凪いでゆく。
全身で愛情をくれる小林に戸惑いながらも、心地良いと思う自分がいた。
