第二十二章 葛藤 (二)
こんなハイシーズンでも空室のある民宿があった。海水浴場から少し坂を登ったところで、客室からは海が一望できた。料理も豪華で、穴場発見と言って二人で笑った。
夕食後バルコニーで涼む一禾を見ていた。華奢な背中に細い線。昔から変わらない。変わったと言えば髪の色が少し暗くなった事くらいだろう。そんなことを考えながら、このまま一禾の後ろ姿をずっと眺めていたいと思った。
先刻、暗闇の中で夜の海が好きだと言った一禾は沖に向かって歩いていた。たまに見せる寂しい顔が気になっていた。その寂しさを全身に纏い、泣きながら苦しそうに目を閉じた。圭は抱えるように肩を抱き、一禾の小さな震えが止まるまで抱き締めた。
一禾は死のうとした。圭がいなければ、あのまま歩みをすすめていただろう。
――――俺のせいだ。
自分の身勝手な行動が一禾を追い詰めているとしか思えなかった。一禾の夫は優しくて常識人だと友人も言っていた。こうして夫以外の男と、まして昔の恋人と関係を持つことの罪悪感がそうさせたのか。
もうだめだ。これ以上一禾を苦しめるわけにはいかない。明日、一禾に別れを告げよう。そしてドイツに戻って今度こそ一禾を想い出にすると誓った。もういい加減、一禾を解放して自分も償おう。
バルコニーは潮の香りがした。柵にもたれ仄暗い海を眺める一禾を後ろから抱き締めた。彼女の細い腰はひんやりとしていて、酒の火照りはどこかへ消えていた。 ゆっくりと振り仰ぐ彼女と視線がぶつかる。唇を重ねると一禾の吐息が弾む。一禾も自分を求めていると思うと、もう止まらなかった。深く深く舌を割り入れ彼女の舌を掬い取るように何度も奥を掻き回す。
一禾、一禾、うわ言のような息が漏れると、それに応えるように背中に回った彼女の腕に力が入る。一禾がほしい。欲しくて堪らない。
骨を被う程よく薄い肌を首筋から下へと指でなぞる。時おり腰を捩る一禾を抱き寄せ、深く唇を重ねる。奥を強く突き上げたときの背中を仰け反り小さく呻く一禾が愛しくて、何度も何度も突き上げる。泣き顔のような顔で喘ぐ唇を啄み、その割れ目に舌先を這わす。律動に合わせ唇を割り入り上顎をなぞると彼女の両手が首裏を抑え、もっと、もっと、とねだるように深く舌を絡めてくる。
今日だけでいい、今日だけ俺の一禾。
求めるほどに深くなる律動に、一禾の奥がギュッと締まって応えてくる。絶頂の兆しに更に奥へと貫く。止まらない腰に一禾の手が添えられる。耳元で名前を呼ばれ呆気なく、けれど盛大に果てた。
余韻を最奥に塗り込む。俺のものだと示すように何度も奥をかき混ぜて塗り込んだ。
これまでの分を取り戻すかのように何度も重なりあった。
何度目かの情交のあと、一禾は気を失うように眠りについた。少し開いた潤んだ唇を指でなぞる。閉じた瞼にそっと口づけると涙の味がした。
今日が最後。そう決めている。規則正しい寝息のリズムに後ろ髪を引かれる。離れ難い感情を絶ち布団から出た。
真っ暗な海は、波の音をいっそう響かせている。
「夜の海、好きかも」
一禾の言葉が反芻する。波の音だけが響き渡る海を彼女は好きだと言った。怯えた顔で震えながらそう言う彼女は、それを肯定するように海へと入っていった。圭は、彼女を脅かしているものは自分の存在なのかも知れないと思った。寄せた波が足先を濡らした。
十数年前のあの日、離れるつもりで最後に一禾を抱いた。一禾の全部を記憶に留めたくて、なんの疑いもなく先の未来を見据えた彼女を裏切った。今度はどうだろう、夫がいて圭の知らない生活がある。自分が割って入ってしまったせいで彼女を傷つけてしまっているとしたら一刻も早く夫の元へ帰すべきだろう。今ならまだ間に合う。自分が去ればもう二度と彼女はあんなふうに怯えたりしないだろう。
一方で心の奥で繋がっていることに自惚れる愚かな自分が顔を出す。夫がいようとも、こうして会いに来てくれる。あれほど激しく求めてくれるのだと。
「ごめんな、一禾。おれ、やっぱり一禾を忘れてやれない」
「愛してるよ……愛してたよ」
言葉は波の音に拐われて闇の海にのまれて消えた。
どれくらい波を見ていたのか、空が白んできた。足元は膝下まで海にのまれていた。
部屋に戻る道すがら、うずくまる一禾を見つけた。髪を乱し、服を引っ掻けてきただけという姿は昨夜の余韻を色濃く残していた。それを隠すように抱き締めると、一禾は吹き出すように泣きだした。
「気がついたら圭がいなくて、どこにもいなくて……」
一人にしないで、と言った。その言葉に違和感を覚えたが、今はこの壊れそうな一禾を抱き締めることに専念した。怖い夢を見たと言った。きっとそれがこれまで一禾を怯えさせている正体だろう。どんな夢かと聞いても「怖い夢」としか言わない。圭は、ただ泣きじゃくる一禾を抱き締めてやることしかできなかった。
しばらくして落ち着きを取り戻した一禾をあの岩に誘った。民宿の女将が教えてくれた「人の縁を結ぶ岩」だ。小銭が岩に乗れば願いが叶うという。
朝日が顔を出しきった空は眩しいくらいに青い。目前の岩をすぐに見つけた一禾は駆けだした。圭はジーパンのポケットから五円玉を二枚取り出し、一枚を一禾の手に握らせた。
「お願い事どうしよっかな~」
一禾はにっこりと笑いながら、腫らした目をキラキラとさせている。やはり一禾には笑顔が似合う。小銭が乗れば願いが叶うという大きな岩を見つめる先に何を思っているのだろう。
一禾の五円玉は大きく外れて海に落ちた。半分ホッとしている自分がいて嫌になった。
「やったー! さすが圭。すごい」
何がなんでも乗せてやった。早く願い事しなきゃと急かされ目を瞑る。もう決めている。
――この先、幾度離れても、一禾と繋がる確かなものだけは消えませんように。永遠にずっと……。
これはもう願いではない。決意だった。
「ねぇ、圭、何をお願いしたの?」
「今はナイショ」
ずっと内緒だ。圭の中で永遠に生き続ける一禾は、そんなこと知らなくていい。
来た道を戻るように、海沿いの県道を走る。高く昇ったはずの太陽が、雲間をぬって陽光を放つ。波を待つサーファーたちが可憐に泳ぐ人魚のようだと一禾が言った。
海辺の堤防寄りに車を止め桟橋のところに並んで座った。一禾は眩しそうに目を細めている。
「俺さ、来週日本を発つんだ。だから一禾、さよならだ」
別れの理由なんてなんでも良かった。田崎のギプスが外れるまでは日本にいるつもりだった。ところが研究所の人員が足りないと連絡が入った。ちょうど良かった。
これ以上一禾の側にいたら、奪いに行ってしまいそうだった。
一禾の顔を見ることができず往き来する波に視線を流した。しばらくの間、沈黙している一禾は何を思っているのだろう。何でもない事だから黙っているのだろうか。
いつ帰ってくるのかと聞かれた。さよならと言ったのになぜだろうと一禾を見ると俯いているだけでなにも言わない。
「いち――」
「私も連れてって、圭」
一禾の名を呼ぼうとした圭に被せるように、強い口調で一禾が言った。圭は驚いて言葉が出てこない。一禾は迷いのない目で圭を真っ直ぐに見つめている。何故だ? 一禾はこの状況に苦しんでいたはずじゃなかったのか。
過去にやっと踏ん切りをつけて前へと進んで新たな愛する男と結婚した。ようやく幸せに平和に暮らしているところに自分が現れ、こうしてまた一禾を掻き乱していたのではないのか。じゃあ、あの涙は何に怯えて流したものなのか。時折見せる寂しい顔も。
そういえば昨夜、夢にうなされた一禾は一人にしないでと震えていた。もしかすると一禾は夫とはうまくいっていないのだろうか。だから愛情を求めてここへ来たのだろうか。そう考えるとこれまでの言動に辻褄が合う。それなら何故言ってくれなかったのだろう。感情のままぶつけてくれれば良かったんだ。そうしたら……。
そうしたら? 一禾を連れていくのか? ちがう。自分は一禾をどうにもできない。側におきたいだけなのか、結婚したいのか、愛したいのか、どれも違う。
結局のところ、とうの昔に二人の結論は出てしまっていたのだ。一禾もそれに気付いている。だから何度も食い下がることはしない。自分の生活を壊すつもりもないのだ。これ以上、一禾を掻き乱してはいけない。一禾の幸せを願うことが過去に置き去りにした気持ちに折り合いをつけることなのだ。
圭は結婚すると嘘をついて一禾を撥ね飛ばした。青ざめる一禾の顔を見て後悔しないはずがない。だがここで一禾を連れ帰っても、また同じ場所に戻ってしまう。それは一禾もわかっているはずだった。その証拠に一禾は「結婚おめでとう」と言って笑った。
相手はどんな人だと聞かれた。答えられるはずがない、相手などいないのだから。
ドイツに戻った圭は個展の準備に取りかかった。寝る間もないくらい忙しかったが今の圭にはそれくらいがちょうど良かった。せっかく日本に返ったのにすぐに呼び戻して申し訳ないと教授は言うが、それも逆に有りがたかった。予定よりも短い滞在で怪我の田崎には申し分けないことをしたが、金子に任せておけば大丈夫だろう。
おかげで個展は大成功を納め業界の評判もなかなかのものだった。
圭は、研究室の机に面した窓を開けた。冷たい風が室内に流れ込み、積んだ書物の表紙をめくる。ドイツの冬は寒い。窓の外に目をやると来年完成予定のフォトスタジオが見える。防音シートで覆われていて形こそ分からないが、研究員の夢が詰まった希望の場所となる。あの場所から巣立った若い燕たちが世界中を自由に飛び回り、いずれまた戻ってきたときに大きな成長の証を残せるように、こうして圭や教授らが土台を作っている。今はこうして好きな仕事に打ち込めることに感謝している。
大学生の圭がはじめて人を愛し、そして愛され育んだ証しが最優秀賞をとった一禾の写真だった。その笑った一禾がきっかけで田崎が圭に目をつけ、更には教授の目にとまった。圭の全てに一禾がいるのだ。たぶん、これからも一禾は圭の中に居続けるだろう。だがそれは、それだけのこと。一禾が誰よりも幸せであるよう祈っている。
「先輩、来週ロケ撮予定のお客さん来てますよ。案内しますね」
アシスタントの金子は、こちらにどうぞと男女の客を促した。向かいの席に二人を座らせ、金子は圭の隣に座った。
圭は、田崎がプロデュースするウェディングプランナー会社の専属カメラマンとして二年前に帰国した。田崎は自分の弟子である金子を、圭の大学の後輩という理由でアシスタントとして寄越した。最近はハワイやグアムなどの海外の海でのロケーション撮影が人気で、プランナーとして現地に同行し撮影するというのが圭の仕事だ。
ドイツの研究所の方は無事にスタジオが完成し、その影響からか研究員の数も増えた。そろそろ世代交代という流れも合間って、田崎の打診もあり戻ってきたのだ。もちろん一禾には会っていないし、圭が帰国していることすら知らないだろう。
圭の中の一禾は色褪せず笑っているが、ただそれだけのことだ。想い出にはしないことにした。そのかわりに、二度と引き出さない。そう決めたのだ。
事務員の可奈がコーヒーをテーブルに置いた。熱いうちにどうぞと差し出すと、前に座った女がそっと口を開いた。
「けい……くん?」
知り合いなんて珍しい。徐に顔をあげた。
「圭くんでしょ? すみれです。覚えてる?」
すみれと会うのは二十年振りくらいだが五年前のあの日、一禾と海辺のサーファーを見ながらすみれの話をした。
「すみれちゃん、懐かしいな~。この度はおめでとうございます」
隣に座る夫と交互に視線を送り深々と頭を下げた。互いによろしくと挨拶を交わし、打ち合わせに入った。
すみれは一禾の親友だ。五年前のことは知っているのだろうか。そんなことより、一禾の近況を聞きたいというのが本音だった。
「圭くん、いつ日本に帰ってきたの?」
「ちょうど二年前かな」
へー、そうだったんだ、と言って夫に一禾の元カレだと紹介された。
「一禾、驚くだろうな~。だって何年振り?」
それを聞いて少し安心した。一禾は五年前の再会をすみれに話していないようだ。
話すことでもないと思われていたのだろうかと未練がましく考えてしまう。
軽くあしらいながら、本題の打ち合わせに話を戻す。
「ハワイ希望だとゴールデンウィークを避けて、前倒しでこの辺でどうでしょう。天気も安定してる時期ですし」
パソコンでハワイの年間天気を確認しながら話を進める。夫はすみれの問いにうんうんと笑顔で答え、幸せそうで良かったと思う。
気になっていることと言えば、五年前一禾が夫とうまくいっていないのではないかと思ったいくつかの言動だった。一禾は今、幸せなのだろうか。だがそれを、突然すみれに聞くことなどできない。
「そういえば圭くんは結婚してるの?」
すみれが唐突なのは遠い昔に知っていたが、意外な問いに怯んでしまった。一瞬、気まずい顔を見せたすみれだったが、「独身だよ」という圭の言葉に今度は驚いた顔で、うそ~と大袈裟に言った。自分に話が向いたことをいいことに、思いきって切り出した。
「一禾は元気にやってる?」
懐かしいな、と平静を装い聞いてみた。どうか幸せでありますように。そうでなければ二度も離れた意味がなくなってしまう。
「一禾、元気だよ。銀行に入社したあと……ていうか、圭くんと別れたあと旦那さんと知り合って、あ、一禾なら今も銀行に勤めてるよ。何年か前に子供ができてパートに切り替えたって言ってた。ちょっと遠いけど、南通りの銀行にいるから行ってみたら」
行かないよ。会いには行かない。五年前にそう決めた。
なにより、一禾が幸せそうで良かった。すみれは、一禾に子供ができたと言った。五年前、一人にしないでと震えながら泣いていた一禾はもう一人じゃない。良かった。
「やだ、圭くんにやけてるー」
からかうすみれの視線の先には、ビキニ姿で笑顔を向ける金髪美女のパンフレットがある。圭の手元にあるそれには大きくハワイと書いてある。それを圭がにやけて見ていたと思われたらしい。逆に都合が良かった。
「じゃあすみれちゃんもビキニで撮る?」
冗談で返せる余裕がある。
圭くんは結婚しないのかと問われ戸惑った。結婚したくないというわけでもない。恋愛もできない。どうしたって一禾が離れない。離さないのだ。一禾とは結婚を考えられなかった。それなのに一禾でなければだめなのだ。理由なんかない。実際にそうなのだ。相手が自分でなくとも一禾が幸せならそれでいいんだ。
披露宴の二人の写真は、開場前に撮影した。レストラン備え付けの調度品が程よく演出してくれて、写真はなかなか良い仕上がりになった。招待客が来る前に撮り終えてホッとした。今日は一禾も来るだろう。会わないと決めた。たとえ偶然でも会ってはだめだとも思った。
階数の違う結婚式の賑わいは圭のいるフロアまでは伝わってこない。圭はガラス張りの大きな窓から空を覗いた。
ドイツにいても日本にいても一禾に会うことはない。ただどちらも同じ空の下ということだけは確かなことだった。
「金子、ちょっと上の事務所行ってくるから、ここ頼むな」
すぐに戻ると告げエレベーターホールに向かった。ホール前に、ヴァージンロードをイメージしたという金子の力作ブースがある。色とりどりの風船を敷き詰めたそこで、礼服姿の小さな男の子が風船を手で弾いて遊んでいた。結婚式に飽きてしまって遊びにきたのか、圭が近づいても気付く様子もなく夢中で風船を弾く。
「こんにちは」
圭は、男の子の視線に合わせしゃがんで声をかけた。男の子はポカンと口を半開きに圭を見つめた。
「わぁ~これすごーい!」
男の子は、圭と目を合わせるより先に肩に掛かった一眼レフカメラを見て声をあげた。いつも自分が目にしているものよりも、プロ用の大きさに驚いたのだろう。不思議そうにカメラのボタンを弄る男の子に圭はしばらく付き合った。子供が触って壊れるものでもないし、それよりも幼い好奇心を見ていたかった。
「風船あげる、何色が好きかな?」
男の子はしばらくポカンとしていたが、言ってる意味を徐々に理解した様子で開いた口が横に広がり可愛い歯を見せて微笑んだ。
「オレンジいろがすき!」
「そっか、オレンジ色が好きか。おじさんもだよ」
「うん、オレンジいろは、ゆうひのいろだよってママがいってた。ぼくのママはゆうひがすきなんだ」
そのとき圭の脳裏にユリの丘で見た夕陽が蘇った。
――――そうか、この子は一禾の子か。
「はい、オレンジ色の風船。あげる」
顔の前に風船をだすと一禾そっくりの飴玉みたいな大きな瞳にオレンジ色が写りこんだ。その瞳がクシャと崩れ、両手で風船をつかんだ。
「おじちゃん、どうもありがと!」
にっこりと笑うその表情は、一禾のそれと瓜二つだった。
「ちゃんと、ありがとうって言えるんだな。えらいぞ」
頭をポンポンとやると嬉しそうに笑った。
圭は、危なっかしく走るその幼気な後ろ姿を見送った。
完
