第六章 惑乱
「あー。しあわせ極まれり」
食後のチーズケーキを頬張るすみれの肌は、自称「夏の女」に相応しくこんがりと日焼けしている。
学生の頃からサーフィン漬けのすみれは、現在は趣味として楽しんでいるようだ。
「今日はトオルさんにフラれちゃったんだ?」
久しぶりに一緒にランチに行きたいと誘ってくれたすみれに、一禾はわざと憎まれ口をたたく。
「その言い方ひどいよな~。せっかく一禾に美味しいチーズケーキおしえてあげたのに」
半分本気に受け取ったようないじけた口ぶりのすみれに、うそうそごめん、と言ってアイスコーヒーのお代わりを注文する。
「まぁ、トオルにフラれたのは事実だけど」
「ほーらやっぱりそーなんじゃん」
お互い様だと笑った。
久しぶりのすみれとのデートはここ最近の一禾にとって最高の潤滑剤だ。
このところ卓馬や義母とのことで、一禾は正直参っていた。
先日、卓馬の実家で倒れてから、まだ本調子ではない。こんなふうに、きちんと食事をとったのも久しぶりだった。
すみれは、一禾の様子を推し量り、いつもこうしてタイミングよく誘ってくれる。
倒れて病院に運ばれたことを、すみれには話さなかった。心配かけたくないと思ったことが第一だが、そこまで体調不良に陥った理由として、やはりセックスレスだという事実を伝える勇気がなかったのだ。
もしかしたら、最近のメールのやり取りで、こちらの事情を察してくれたのかもしれない。すみれはそういうところに敏感だ。
こうやって、溺れそうな一禾をいつも間一髪で引き上げてくれるのだ。だからつい甘えてしまう。いっそのこと、すみれが男だったらよかったのにと何度も考えたくらいだった。
すみれには、トオルという彼氏がいる。
彼が妻帯者だと聞いたときは正直驚いた。
最初は二人の交際を反対した一禾も、もう三年も関係を続けているすみれに何かを諭せるほどの経験など無いし、そんな力を持ち合わせていない。
「トオルさ、今日は嫁の買い物に付き合うんだって。一禾こそ旦那とデートの予定じゃなかった?」
卓馬は今日、休日出勤をしている。決算時期は毎年忙しそうで、帰りも遅い。だからといって一禾が暇を持て余していた理由にはならない。
普段の休日のほとんどを、一禾と卓馬は別に過ごしている。正直なところ、卓馬がどんな休日を過ごしているのか一禾は知らない。
「今日は休出で会社行ったよ。帰りも遅くなるって。だから夜まで付き合えるよ」
やったー! どこ行く? と大袈裟にはしゃぐすみれといると、悩んでいる自分がくだらないとさえ思える。
サーフショップに寄りたいと言うすみれに付き合い、彼女の馴染みの店に行った。
学生の頃にもこうして連れてこられたなぁと浸っていると、白髪のセミロングの髪をかきあげながら六十代くらいのオーナーが、「いらっしゃい」と顔を出した。
当時、四十歳になるかならないかくらいに見えたオーナーは、数十年の時を経て刻まれた目尻の深い皺さえ演出なのかと思えるほど渋さに奥行きがあった。
店内に広がるワックスのバニラやココナッツの甘い香りも伴って、一禾は一気にあの頃へと引き戻された。
すみれの父親は、その業界では名の知れたプロのサーファーだった。すみれがまだ幼い頃から一年のほとんどを海外で過ごしていた。各所で開催される国際大会に出場するため、海外の所属するクラブチームを拠点に飛び回っていた。
すみれは父親っ子で、幼い頃からよく父親と海に入っていた。まだ小さなすみれをボードの先端に乗せて、真っ赤なトマトみたいな夕日を見せてくれたのだと話してくれたすみれの目が幼い子供のようだった。
海に行かない日は二人でキャッチボールやサッカーをやった。兄妹のいないすみれにとって、父親が遊び相手であり最高の理解者でもあった。
中学生になると、父親とばかり過ごすことに抵抗を覚え、サーフィン仲間と海へ出るようになった。その頃のすみれは仲間と頻繁に夜遅くまで遊び回っていた。
思春期特有の父親払いがあったものの、父親が出場する国内の大会は全て見に行っていた。すみれの父親は本当にかっこよくて、後に一禾や仲間たちが口を揃えて「かっこいい」と言うのを、すみれは鼻高に笑っていた。
高校受験の一年間、すみれはサーフィンをやらなかった。あんなに長い間、海に入らなかったことはなかったと、一禾は後に、すみれからそう聞かされた。
毎週欠かさず海へ出向くすみれには、どれ程の辛苦であっただろうかと不憫に思った。同時に、そういうメンタル的な経験が今のすみれの真髄なのだろうと、一禾は思った。
プロサーファーである父親の教えに、当時のすみれはどんどん心酔していった。そのころのすみれは、一禾たちと一緒に出掛けなくなっていた。
大学に入ると一人暮らしを始めたすみれはますますサーフィンにのめり込んだ。
すみれとは別の大学に進学した一禾は、何度かすみれを遊びに誘ったが、父親の試合を見に行くための資金作りだと言って、授業の無い日はアルバイトに明け暮れた。
大学三年の夏休み、毎年すみれの父親が帰国するお盆に合わせ一禾はすみれと一緒に地元へ帰った。
ところがその年、すみれの父親は帰らなかった。友人と出掛けた海で波にさらわれたと、すみれの母親に連絡が入った。
葬儀は母親とすみれだけの寂しいものだった。
駆け落ち同然で結婚したすみれの両親に、身内と呼べる人がいないと聞かされた。一禾は母親に連れ立って弔問に行き、未だ遺体が見つからないという空っぽの棺桶前で遺影に向かって焼香をした。
すみれは見ていられないほどやつれていて、ただ漠然と父親の死を受け入れるしかないように見えた。
父親の死後、ますますサーフィンにのめり込むすみれを心配した一禾は、夏はバーベキューに冬は鍋、なにか理由を付けてはすみれを誘った。
そんなある日、すみれは一禾をこのサーフショップへ連れてきた。
もう二十年も前のことなのに、この店に漂う甘い香りが当時の二人を呼び起こすような感覚だった。
「オーナー、これ懐かしい匂いがする!」
すみれはメンテナンス用のボトルを手にクンクンと鼻を寄せている。
「あぁそれ、お父さんのお気に入りアイテムだったよ。もっと質の良い物を薦めても、彼はこれ以外は好まなかったな」
懐かしそうに細められた目がひどく優しく感じた。
すみれは感慨深そうに握ったボトルを見つめていた。
「仏壇においてあげよっかな」
そういって仏壇用と自分用に二本買った。
じゃあまた来ます、とオーナーに微笑み一禾たちは店を出た。
外に出ると、もわっとした湿っぽい熱に襲われ、一禾たちは涼を求めて映画館に入った。ちょうどすみれが観たい映画があると言ったのでそれにした。
中心街の映画館は大小合わせて二十ほどのスクリーンがあり、どれも盛況だった。
やはり自分達と同じ考えでここに駆け込むのかなと、すみれと笑った。
長いコマーシャルの後にようやく本編が始まる頃には、一禾たちのスクリーンもほぼ満席になっていた。
映画は、若い男女の十年の恋を描いた恋愛もので、すみれは序盤から鼻をすすり、終わる頃には大号泣だった。隣でティッシュを渡し続けた一禾も、十年ぶりに男女が再開するシーンは、先日再会を果たした自分と圭を重ねるように、食い入るように観ていた。
一禾はエンドロールの下から上へ流れていく白い文字をボーッとみていた。来週の土曜、圭が自分を待っている。でも映画の二人のように幸せな結末が待っているとは思えなかった。
先日倒れたときに、闇に埋もれる一禾の中でプツンと何かが切れるような音を聞いた気がした。不思議とそれからは卓馬や義母の言動が他人事のようで心は動かなくなった。
卓馬は仕事が立て込んでいるとかで連日の帰宅は日付が変わる頃だった。
そんな中で観た映画は一禾の中に重い影を落としていった。
映画館を出ると入相の風がまだ熱っぽく、先ほどまでの快適さのギャップに一気に汗が吹き出した。
すれ違う学生たちが滴り落ちるアイスを舌先で掬っている。
夕食にはまだ少し早い時間なのでショッピングモール内を歩くことにした。
「何かないかな~」と冷やかしで入った店で掘り出し物を見つけたり、流行り物を物色したり、久しぶりの女同士の買い物は気持ちが晴れるようで楽しい。
軒を列ねる店の端から見ていき残すはあと数軒のところに差し掛かると、サーフィン中に切れたネックレスのチェーンが欲しいのだとすみれが思い出したように言った。
一禾はそれほど見たい店もなかったので、すみれのチェーンを買おうと間の店を飛ばして一番端のジュエリーショップに入った。
その店はいわゆる宝石店というにはほど遠く、とてもカジュアルな店だった。すみれが店員と話している間に一禾もじっくりと見て回った。
奥の壁際のケースににずらりと並んだハワイアンジュエリーに目が止まった。
細い金のプレートに南国の花や波の彫刻がされているペンダントやリングを食い入るように見ていた一禾の隣に、いつのまに来たのかカップルが現れ先を阻まれた。
もう少し先まで見たかったけれど仕方ないなと諦めすみれの元へ行った。
店員と話し終えたすみれがずっと一点を見つめて一禾の呼び掛けに返事もしないので、一禾はすみれの視線を追った。
その先には、先程一禾の隣にいたカップルが仲良く陳列ケースを覗き見ていた。
すみれは涼しげなレーヨン素材のパンツにポロシャツを合わせた男の後ろ姿を見つめていた。
隣には綿素材の軽いワンピース姿の華奢な女性が男に向かって嬉しそうに微笑んでいる。
血管が透けて見えそうなくらい色白で、内巻きのボブヘアが上品な女の子という感じの若い女性だった。
「すみれ?」
「え? あ、やっぱいいや。チェーンはまた今度にするわ」
わざとらしい作り笑いでそういうと、すみれはさっさと店を出てしまった。
混雑したエレベーターホールの前を、人を掻き分けながら乱暴に歩くすみれを追う。すみれの背中を眺め、一禾はこの状況を必死で理解しようと思考を巡らせる。
勢いよく階段を駆け下り、ショッピングモールの出口の前ですみれはようやく足を止めた。
吹き抜けになった広場のベンチに座って、吹き出る汗をぬぐった。一禾の隣に腰を下ろしたすみれは乱れた呼吸もそのままに、ただぼんやりと行き交う人たちを見ていた。
その横顔が辛そうに見えて一禾は声をかけられなかった。
何となく察しはついていた。トオルに暫く会っていないので定かではないが、先程のジュエリーショップで見かけた男女はおそらくトオルとその妻だったのだろう。
広場ではくまの着ぐるみが小さな女の子に風船を渡そうと差し出すが、掴み損ねた女の子の上をゆらゆらと赤い風船が昇っていく。代わりに黄色の風船を差し出す着ぐるみに、赤じゃないと嫌だと言って女の子は駄々をこねている。
着ぐるみの手に赤い風船はもうない。困り果てた着ぐるみの仕草が滑稽で笑ってしまった。
一禾は微笑ましい光景に目を細めた。そして、その女の子を羨ましいと思った。
あんなふうに感情のまま、欲望のまま泣き叫べたらどんなに楽だろうと思った。
自分も、そして隣のすみれも。
何となくこのまま夕食という気分でも無いので、いつものように「Bar swing」へ行くことにした。
今日は開店からいるマスターが二人の雰囲気を察し、目配せで奥のテーブル席を促した。一禾はいつものようにモスコミュールと、すみれにジントニックを注文した。
ジュエリーショップで見かけたカップルはやはりトオルとその妻だった。
久しぶりに見たトオルは髪を伸ばしていて以前一禾が会ったときとはだいぶ印象が変わっていた。その為、後ろ姿を見ただけではそれがトオルだということに一禾は最初、気が付かなかった。だが直後のすみれの挙動でピンときた。けれどトオルの妻が想像よりも若くて綺麗な人だったので、一禾は驚いた。
一禾にとってすみれとトオルのことは承知の事実で、一禾がどうこうと口出しをすることではないと思っている。いつも淡々とした口調でトオルの話をするすみれが取り乱したような姿を見て、一禾はいたたまれなくなった。
「やっぱり見ちゃうとだめだわ」
長い沈黙のあとすみれがポツリと言った。
「昨日トオルね、すみれだけだからって言ったの。私だけを愛してるからって、たくさんキスしてたくさん抱きしめてくれたのに。なのにやっぱり愛人は愛人で。それ以上にはなれないんだなって」
最後は涙声で小さく震えながらやっと絞り出したような声だった。
一禾はすみれの話をどんな顔をして聞けば良いのか戸惑った。難しい機械の説明をわからないくせにただ聞いてるだけみたいな感覚だった。
愛人以上というのは夫婦になるということだろう。どうしてすみれは夫婦になりたいと思うのだろう。
一般的な考えなら結婚を望むのだろうか。
少なくとも今の一禾には結婚が良いものだとは思えない。
たくさんキスをしてたくさん抱かれる。でも夫婦にはなれない、とすみれは嘆く。
一方で夫婦になったもののその価値を見出だせない一禾。
無いものねだりの二人が慰め合っているようで惨めで滑稽だと思った。
「たまに思うんだよね。もし私の方が奥さんより先にトオルと出逢っていたらって。でもきっと結果は今と同じだったと思うんだ。私は、妻がいてサーファーで今の地位やトオルを取り巻く環境のその全部を纏ったトオルを好きになったんだよなぁって。そのどれか一つでも欠けていたらきっと好きになってないんじゃないかってね」
結婚という覚悟を決めたトオルを受け入れようとするすみれの覚悟。
一禾はそんなすみれをかっこいいと思った。
同時にとても羨ましいと思った。トオルの妻には申し訳ないけれど、人を好きになるってことはどうしようもない不可抗力を伴うものだ。
散々泣いて涙が出尽くしたと言って笑うすみれに、これ以上無いくらいの幸せが訪れますようにと一禾は願った。
グラスの中の真ん丸い氷を指で回すとカラカラと夏の音がした。
ほどよく酔った二人は駅までの道のりをのんびりと歩いた。
闇に支配された夜の空には星はなくパラジウムのような銀白色の光を放つ丸い月だけが浮かんでいる。
「一禾、今日はありがとうね。本当は一禾も何か話したかったんじゃない?」
察しの良いすみれは、やはり最近のメールのやり取りから一禾のちょっとした何かを感じ取っていたのだろう。
一禾は夫とのすれ違いや義母への鬱憤をすみれに聞いてほしかった。飲んで気持ちを晴らしたいと思っていた。そして自分もすみれのように思いきり泣いてしまいたかった。
でもそれはやめにした。
今日のすみれに話すには夫婦の愚痴など酷すぎる。
「うーん、たいしたことじゃないからまた今度聞いてよ」
今の彼だから愛したというすみれの覚悟が一禾の覚悟を誘ってくる。
圭に逢いたい。逢ってあの頃の圭の気持ちを確かめたい。けれど、青月の光は覚悟を決めるには明るすぎて冷たすぎた。
