第三章 憫笑
週末、たまには一緒に夕食を食べようと義母に誘われ、久しぶりに卓馬の実家へと出向いた。
実家に着くと、同じ理由で呼び出された義兄夫婦も来ていた。
七月に入り、梅雨明けの発表こそまだだが、連日の蒸し暑さに一禾は少々夏バテ気味だ。
「あれ、今日、旬君は一緒じゃないんですか?」
義姉と顔を会わせるのも今年の正月ぶりだ。中学三年の旬は礼儀正しく人懐こい性格で、卓馬に良く懐いていた。
卓馬も、旬とサッカーの話ができると楽しみにしている様子だった。
「そーなのよ~。まったく寂しいったらないわよ。塾ですって、夏期講習。勉強ばかりさせられて、旬が可愛そうよ」
ねぇ、と義姉を遮り、義母は一禾に同意を求めるように小首を傾げる。
せっかく旬の好きな黄色のスイカ買っておいたのに、とブツブツ文句を言いながら台所へと戻っていった。俯きにこにこと微笑む義姉がいたたまれない。
一禾と義姉も手伝いながら食事の支度を終えると、居間のテーブルにやっと収まるくらいの御馳走になった。
義母はどんどん食べてと煽り、こんなに食えるかよと卓馬が鎮める。
さほど食が進まない一禾の様子に口元を綻ばせる義母の、いちいち思わせ振りな言動に嫌気がさす。
「口に合わなかった? ちょっと生姜がきつかったかしら」
箸の進まない一禾に、すかさず義母のつっこみが入る。
正直この暑さでモツの煮込みはキツいが、義母の作るモツ煮は下手な店より美味しいので、体調の悪さが悔まれる。
「最近夏バテぎみで、食欲がないんです。でもお義母さんのモツ煮はやっぱりおいしいですね」
残してごめんなさい、とあしらう一禾に、
「あれれ、一禾ちゃん、もしかしてできたんじゃないの!」
肘をこちらにぐいぐいやりながらニヤニヤと笑う口元から黄色い歯が覗く。
苦笑いで義母に応えながら義姉の方に目をやると、同情のような困った顔でこちらを見ていた。
先ほどの旬の塾の件もあり、何となく目と目で慰め合った。
「私なんて、卓馬を生んだ時はもう二十五歳になっちゃってて、それでも遅すぎるって言われた時代なのに、今の人って呑気よねぇ」
確かに、義母の時代の出産平均年齢は、今よりうんと低い。
え~、そんなに若いのにひどーい。と一禾はわざと口を尖らせて見せる。
「一度くらい病院で調べてもらったら? 病気があったら大変だし」
これまで散々言われて来たが、これを言われるのがいちばん堪える。
毎年検診受けてます。そして、所見なしです。これは、去年言い返した台詞。
そのときは「ごめんね」と言っていた。
あれが口先だけの謝罪だったと一年後に知る。毎年それの繰り返しだ。
「卓馬だってそろそろほしいでしょう。二人とも今がギリギリの年齢じゃないの。もしかすると手遅れかも。もう私、心配で」
何が手遅れなのだろう。
義母は、純粋に孫を可愛がりたいと思ってくれているのだろうか。それとも、体裁を気にしているのだろうか。いや、どっちもだ、と一禾は結論付けた。
息子に子供ができないという事が不幸という認識なのかもしれない。出来損ないの嫁に義母も手を焼いているのかもしれない。
義母の言葉は、一禾自身にとって正直キツい。
でもそれは、姑としてごく普通の希望であり欲なのだ。
認めたくない一禾が被害者ぶって義母を悪者に仕立てあげているだけなのかもしれない。
一禾がそっと卓馬を覗き見ると、湯飲みを片手に新聞をめくっている。
その姿は子育てを終えた父親のようで、子供すらいないのにおかしかった。
もういっそのこと、義母にセックスレスのことを相談しようかと思ったけれど、思っただけ。
性的事情は他人に言われたところでどうしようもない。余計に冷めてしまうかもしれない。それに、抱いてもらえないと泣きつけば、それも含めて一禾のせいだと言われそうで怖かった。
分かっていても、実際に魅力がないと言われればきっと立ち直れない。
結局、卓馬は「ああ」とか「うん」しか言わなかった。
涙の気配がして、グッと奥歯を噛み眉間に力を込めた。
「俺らもう行くわ。旬の塾が終わる時間だから、迎えに行ってやらなきゃ」
項垂れる一禾に気遣ってか、義兄が遮った。
あらもう帰っちゃうの~と嘆く義母を、また来るからと言ってたしなめ、黄色のスイカを手土産に帰っていった。
帰宅後、一禾が風呂から出ると卓馬が一杯やっていた。
一緒に飲もうと言ってビールをグラスに注いだ。
「俺はさ、子供はどっちでもいいよ。いてもいなくても。一禾がいれば他はいらない」
隣で俯く一禾の肩に手を回し、こめかみにキスをした。
卓馬は十分、自分を愛してくれている。大切にされている実感もある。ただ、そうじゃなくて……。
一禾は込み上げる虚しさに必死に耐えた。
卓馬の愛情を必死に自分に言い聞かせた。
「うん、私も」
今の自分に紡げる精一杯の言葉だった。
一禾はもう限界だった。
いろんな感情が腹の底から吹き上がって、間欠泉のように吹き出してしまう前に、おやすみ、と言って自室に戻った。
部屋のドアを後ろ手に閉めたと同時に感情が吹き出した。涙が止まらない。卓馬の愛情を身体で感じさせてほしい。義母に言い返してほしい。虚しくて、情けなくて、いつになっても涙は止まらなかった。
翌日から二週間、卓馬は出張で九州へ飛んだ。
一禾は昨日の泣き腫らした目をどうすることもできず、真っ赤に充血させたまま卓馬を送り出した。卓馬はその事に一切触れずに、行ってきますと言って出掛けていった。
吐き出したはずの溜め息が、一禾の肩に重くのし掛かってきた。
偶数月の十五日は、年金需給のため銀行はひどく混みあう。
今日も開店前から店の周りをぐるっと一周するほどの列ができている。
普段は窓口に陣取る一禾も今日はフロアに立ちATM操作のフォローに入る。
この日ばかりは客の大半が高齢者なので、説明に時間がかかる。数台ある機械を一人で見ているのでかなりの労力である。
列の所々に、年金受給ではない客もいるので、その時だけは少し余裕ができる。そんな客の一人に見覚えがあった。
高校のとき同じクラスだった彼女は、近所に住んでいるらしくたまに見かける。
今日は、娘の後期分の学費を振込みに来たと言う。今日が年金の日だとすっかり失念していたと言って笑った。
彼女が手にしていた振込用紙には、有名私立大学の名に納得させられるだけの金額が印字されていた。窓口業務をしていれば当然、これまでその類いの業務を何度も受けてきている。その中でも特に国立と私立大学の学費の差には驚いた。
子供を国立に通わせる為に必死に塾通いさせている近所の奥様たちの気持ちが、少しだけ分かったような気がした。
国立の大学に入れば、塾に費やした大金も帳消しになるくらい、私立に比べて学費は良心的だった。とはいえ、四年大学だ。子供一人につきいくらかかるのだろう。
じゃあ子供が三人いたら……。同級生の気持ちになって算段する自分がいた。
子供もいないのに、どうしてこんなことを考えるのかと思うと笑えてきた。
自分は子供を望んでいるのだろうか。考えても結論の出ないことで振り回される前に、一禾はフッと息を吐き、重くのしかかる気持ちを一蹴した。
ATMコーナーは窓口より三十分早くから開いているが、それでも列が無くなるのは十三時を回った頃だった。若い行員たちを順番に昼休憩に行かせ、一禾の順番は最後に回ってきた。
休憩から戻るとATMの紙幣が空になったというので、一禾はすぐさま装填作業に入った。
一禾が勤める銀行は、近隣では規模の大きい支店で、ATMは六台ある。完全にエンプティーになった機種から順に作業中の札を立て、機械の裏側に回り、手際よく紙幣の補填と入金された金額の精算を始める。
装填作業は大金を扱うので、必ず防犯カメラに手元を映すように作業をしなければならない。銀行には客の出入りする店舗側だけでなく、こうして行員側を映すカメラも設置されている。
ATM一台につき一千万円分の千円札と五千円札を出納係に依頼して、大きな貯金箱のような機械からガシャンガシャンと出してもらう。それを防犯カメラに向けて見せながら、紙幣の種類ごとの決められたATM機のケースに入れていく。 同時に、客に振り込まれた一万円札を取り出し計算する。
一禾は籠に準備された一千万円の束の帯を外しながら、落胆する。一千万円と聞くと大層な金額だが、実際はこんなものかと思うのはいつものことだ。
不意に先ほどの同級生が過った。四年大学なら、これが二束か、三束か。
世の中はたったこれっぽっちの束のために必死に働いて塾代を稼ぎ、家のローンを組む。
「一禾のところは受験まだ?」
なんの悪気もなく会話の流れで彼女に問われ、一瞬言葉を詰まらせた一禾に、更に間を置いてから察した彼女は、咄嗟に場を取り繕うように話題を変えた。
この年齢になって、結婚十年で子供無しというのは、「子供ができない可哀想な夫婦」という烙印を押されているようでいたたまれない。
申し訳なさそうに帰って行った彼女を見送ると、要らぬ気を遣わせてしまったという罪悪感に苛まれた。別にどちらも悪くないのに。
子供がいたらいたでまた別の悩みがあるのか。と、相手の苦労を感じる事で、一禾は暗い気持ちをごまかした。
ぐるりと見渡せば、パートの女性行員が殆どだ。子供の誕生を機に正行員からパート行員に契約を切り替える者も少なくない。
毎月のシフト表も子供の学校行事が優先され、休憩中は子供の話で持ちきりだ。
変に気を遣わせたくないので、休憩は極力一人で取るようにしている。
一禾は、片手で持てる紙幣の束を愕然と見つめた。
たっぷり一時間もかかって六台分の装填作業が終わると、閉店の十五時が迫っていた。
フロアの記帳台に忘れ物がないか見て回り、ゴミ箱を回収する。フロアのソファーを整え、雑誌を元に戻す。
さて、あとはATMコーナーを見てこようというとき、慌ただしく駆け込んできた客に視線が留まった。
西寄りの陽に晒され、眩しそうに片目を伏せる仕草。
色の抜けたジーンズに、白のサマーセーターの袖を捲り上げた筋張った腕。
その男の姿に、一禾の思考が一気に巻き戻った。
――――圭
それは、かつて死ぬほど愛した男との十年以上振りの再会だった。
