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第七章 憐憫



 卓馬の実家に着くと、既に義母は玄関前で一禾を待っていた。
「お義母さんごめんなさい、ずいぶんお待たせしちゃいました?」
 約束の時間まで十五分近くあったがせっかちな義母はいつもこうだ。
「いーのいーの、私が勝手に早くから待ってただけなのよ」
 じゃあ行きましょうとさっさと歩きだす。

 週末に買い物に付き合ってほしいと義母から連絡があった。
 卓馬は週末はゆっくりしたいと言って断ったが、どおしてもお願いと言って義母も引かない。それなら一禾だけでいいから付き合ってほしいと言い出した。卓馬はそうしてもらえと軽くあしらった。
 週末は圭との約束がある。はじめは行かないつもりでいた一禾だったが先日の義母宅での一件で心が死んでしまった。だから絶対に行こうと決めていた。
「週末はちょっと」
 悪いことをしているような気分だった。
「出掛けるの?」
 卓馬がまっすぐこちらを見て聞いたので動揺した一禾は、すみれと約束があるからと嘘をついた。
 あからさまに卓馬から目を逸らしどう見ても挙動の怪しい一禾だったが、卓馬は行き先すら聞いてこなかった。
 一瞬でも罪悪感に苛まれた自分がバカみたいだった。
 有給を消化しきれていないことを思い出した一禾は、義母の買い物へは平日に自分が付き添うと返事をした。

「平日でもけっこう混んでるのね」
 エレベーターはすぐ上の階に止まったままなかなか降りて来ない。隣で足をパタパタさせているベビーカーの赤ん坊を手であやしながら義母がぼやいた。
 夏のセール真っ只中のデパートは御中元の時期と重なり売り場は混雑している。
 五階の子供服売り場でエレベーターを下りると、母親に手を引かれる小さな子供の姿が目に入った。
「あら可愛いわねぇ」と、あらゆる子供に愛想笑いを向ける義母を見るたびに、一禾はここに来てしまったことを悔やんだ。
 甥っ子夫婦へ出産祝いとして渡す子供服を買いに行くとわかった時点で断れば良かったんだ。 
 後悔ってほんと後から来るんだよね。少し考えればわかるのに。一禾は自分を罵った。
「こっちのロンパースだと、オムツ替えのときに少し面倒かしらね? ほら、ここのボタンのところ」
 義母は母親目線で使い勝手を一禾に聞いてくる。オムツ替えなんてしたことのない一禾にそんなことを聞かれても何をどうこたえれば正解なのか検討もつかない。
「こっちの方がボタンも少なくて、それにオシャレ」
 一禾はわからないなりにも物色しながら良さそうなものを探す。
「こんなに厚い生地じゃ動きずらいじゃないの。もう少し使い勝手の良さそうなのないかしら。やっぱり一禾ちゃんじゃわからないか」 
 義母が「あ、まずい」という顔をしたのを見逃さなかった一禾は、
「ほんとですよ~、子育てしたことない私に聞かないで~。でも今後の参考になるから助かります。さっすがお義母さん」
 いつものように、はははと声だけで笑ってみせた。義母はホッとした顔をした。
 悩んだ末、可愛らしい帽子がセットになったよそ行きの洋服と、いくらあっても困らないという肌着を何枚か買った。
 ラッピングしてもらってる間に地下の食品街へ下り夕食のおかずを見て回った。
 夕方に差し掛かろうという食品売り場は主婦だけでなく、学校帰りの学生も多く見受けられた。
 付き合ってくれた御礼だと言って義母が惣菜を何種類か買ってくれた。
 おそらく今日も卓馬は夕食を外で済ませてくる。けれどそれは言わなかった。というより、話すのが億劫だっただけだ。

 義母を送りとどけ夜道を歩く一禾の手には、義母が買ってくれた惣菜の数々と、反対側の手に白い紙袋が下がっている。
 ラッピングを終えたプレゼントを受け取りに子供服売り場に戻る途中、下着売り場のマネキンが身に纏った真っ赤な下着に一目惚れした一禾は迷わずそれを買った。
 下着を買ったのなんて何年ぶりだろう。
 成長期の中学生でもあるまいし、そう滅多に買い換えたりしない代物にどうしてあんなにも胸が騒いだのかと考える。思い当たるのはもちろん週末のことだ。
 ユリを見に行くだけの約束に自分は一体何を期待しているのだろうと一禾は急に恥ずかしくなった。でも本当はすごく期待している。圭と一夜をともにしたいとさえ思っている。
 一禾の気持ちのブレーキは壊れ既に戻れないところまで来てしまっている気がした。
 それでも構わない、と心のどこかで大胆な自分が囁いた。

 シャワー後、一禾が髪を乾かしているとドライヤーの音に紛れてガチャっと解錠の音がした。脱衣所の時計を振り仰ぐと二十三時ちょうどだ。こんな時間なら惣菜は食べないだろうと思い、特に急ぎもせず一禾はドライヤーに専念した。
 ほどなくしてリビングに顔を出すと卓馬が一杯やっていた。つまみに惣菜を薦めたが要らないというので一禾も卓馬の隣に座った。
 ピクリと反応する卓馬に気付かないふりをして、一禾はやや強引かと思ったが隣の卓馬の頬に手を添え顔をこちらに向けた。
 そして躊躇せず無言で卓馬にキスをした。
 卓馬は手の甲で口を押さえながら反射的に上半身を仰け反った。次の瞬間、テーブルに膝を打ち付ける勢いで立ち上がると、こちらに目もくれずリビングを出ていった。
 動揺を隠せないような卓馬のリアクションは少しだけ想定外だったがほぼ思った通りの成り行きで一禾は強いショックを受けつつもどこか安堵していた。
 一禾はシャワーを浴びながら考えていた。自分は圭に会いたいのか。なぜ会いたいのか。圭のことをまだ好きなのだろうか。
 卓馬よりも? それとも、卓馬に抱いてもらえない自分を圭に慰めてもらいたいだけ?
 もしそうなら圭に失礼じゃないか。
 一禾は自分の気持ちがどこにあるのか、誰に向いているのか、正直わからなくなっていた。だから、会う前に卓馬の気持ちを確かめようとした。もし卓馬が自分を抱いてくれたら圭と会うのはやめよう、そう決めたのだ。狡い選択だったが、今の一禾にとってそれが最良で最短の方法だった。
 本当は、結果はわかりきっていた。それでも期待した。少し無理なやりかただったかもしれないが、あれほどまでに卓馬が自分を拒否するとは思っておらず、一禾はショックのあまり涙も出なかった。

 一禾が自室に入ると、待っていたとばかりに卓馬の部屋のドアが開く音が聞こえた。
「そんなに怯えなくてもいいじゃん」
 一禾は、まるで自分が強姦魔か、卓馬を狙っているストーカーのように感じて自虐した。
 情けない自分を笑った。手を叩いて盛大に笑った。


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