第四章 懐旧
三限目の古文書学は拷問かと思うほど退屈な授業だ。代返で抜けようにも、耳の遠い教授にスルーされたらおしまいだ。
今日は二限で終わりと言っていた圭が食堂で待っている。それだけが一禾のモチベーションを維持している。
「けーい、お待たせ」
テラス席の白いプラスチック椅子に背を預け、食堂の庭に植えられたハナミズキをレンズごと見上げる姿に声をかけると、
「んー」
と、圭はそのままの体勢で返事を返す。
「あ~、キレイに咲いたね。圭、ハナミズキ好きだもんね」
「いや特に好きってほどじゃないけど、この花ちょっと変わってるだろ」
そう言って構えていたレンズを下ろし、一禾に「おつかれさん」と言って微笑む。
「一禾、知ってるか? あの赤や白い部分は花じゃないんだよ」
圭はハナミズキの上の方を指差しながらゆっくり話し始める。
彼の話し方はゆったりと穏やかで、その優しさが言葉尻から感じられる。
「え? 花でしょ? だって色ついてるし、四枚あるよ」
「うん、あの白い四枚はね、ソウホウといって花じゃないんだ。その中心にある黄緑色の小さいのが花だ」
どれ? 見えなーい。という一禾の頭をくしゃっと優しく撫で、これだよ、と言って一眼レフカメラのプレビュー画面を見せてくれた。
頬が触れそうな距離。一禾を覗きこむような格好で丁寧に説明してくれた。
圭の家は祖父の代から続く老舗の写真屋で、数年前に祖父が亡くなって以来、圭の父親がその跡を継いでいる。
幼い頃、その父親に憧れて自分もカメラを持つようになったと話してくれた。
大学卒業後、外での修行が必要だという親の意向で、圭は父の知り合いのカメラマンの助手として働きながら、家の写真屋を手伝っていた。
不定期に仕事が入る写真屋は、休日が返上になることも少なくなく、銀行に就職した一禾の休みになかなか合わせられないと言っていつも謝ってばかりいた。
「今という瞬間に訪れる自然の摂理を感じたい」
という圭は、風景や草木を好んで被写体にした。
明日どうなるかなんて誰にもわからない、だから今を生きたい。一禾は、そんなふうに先を見すぎない圭が好きだった。
カメラマンの助手として五年が過ぎた頃にはアマチュアのコンテストで、圭は受賞の常連だった。作品を真っ先に一禾に見せたいからと言って、そのたびに会場へ一禾を連れて行った。
その日も会場のいちばん目立つ場所に堂々と飾られた圭の作品を見に行った。月の綺麗な夜だった。
授賞式を終え、人の気配が消えたホール沿いの道を並んでゆっくりと歩いた。
普段から言葉少なめの圭だが、その日は一段と無口だった。
連日の残業で、気骨が折れそうな一禾の身体を皓月が優しく照らしている。
月は、まるで固くて冷たい陶器の置物みたいだった。その妖艶な明かりに照らされた圭の横顔がやけに淋しげで、どちらからともなく顔を寄せ、唇を重ねた。触れ合うだけのそれが、だんだんと湿り気を増し、舌をからめ吸い付くように求めあった。
「一禾の目が、お月様でいっぱいになってる」
そう言って圭は微笑み、一禾の瞼に何度もキスをした。
一禾のマンションに着くと夢中で抱き合った。いつになく激しく求めてくる圭は、待てを解放された子犬のように一禾を貪った。
「一禾、愛してるよ」
うわ言のように何度も何度も繰り返す。
いつもはゆったりと海面を撫でる波のような圭が、巨濤のようで、飲み込まれなよう必死に圭に抱きついた。
遠くで木琴を叩くような音が鼓膜から全身に響いて目が覚めた。明け方まで抱き合っていたせいか、じっとりとした気だるさが一禾を纏っている。
一禾はシーツを引きずったまま、窓の外を眺めた。もうとっくに夜が明けているというのに部屋が薄暗いのは、ビー玉みたいな雨のせいなのか。
雨の出口が見えないほどにくすんだ灰色の帳が、飛べない一禾を閉じ込める大きな鳥かごのようだった。
飛べない鳥は、ゆっくりと床に崩れ落ち、広げた翼で自分の身体をくるんだ。
冷えた足先に寄り添うように、合鍵と「サヨナラ」と一言だけのメモが落ちていた。
あれから十年と少し、目の前に現れた温顔は、一瞬見開いた目を細めた。
「久しぶりだね、一禾。元気だった?」
少しかすれた低すぎないその声は、間違いなく圭のものだった。
――どうして黙っていなくなったの?
――どこへ行っていたの?
――私を嫌いになってしまったの?
あの時、聞きたいことは山ほどあった。けれど、携帯もメールも拒否されて、駆け込んだ圭のアパートはもぬけの殻だった。
精算できずに引きずったままの感情は折り合いを付けられず、心の裏側に隠して鍵をかけた。
どんなに仕事が忙しくても、すみれや亜美と大騒ぎして遊んでも、鍵のかかった箱は動かずそこにあった。
「……圭」
箱がコトンと揺れた。
閉店間際の銀行、西へ向かう太陽が二人の影を遠いあの日に届けるかのように、長く長く引き伸ばしている。
ぬるい涙が頬を伝って床に落ちる。
閉店のシャッターが降りる合図に、残りの客も急ぎ足で店を出ていく。慌ただしく流れる時間の中で、一禾と圭の周りだけが静止画のようにそこにある。
事の成り行きを見ていた女性行員が、気を効かせて一禾と圭を外へ出してくれた。
幸い、支店長や他の行員には気づかれていない。礼を言って、すぐに戻るからと伝えると、心配そうにペコリと頭を下げて戻っていった。
沈黙に忍び寄る過去の気配が、索漠とした一禾の心を捉えようとしていた。
週末、待ち合わせのバーにつくと、先に来ていた圭がカウンター席からこちらに手をあげた。
昔と変わらない仕草に胸の奥がチクリと疼いた。
「お待たせ、ごめん遅くなっちゃった」
「いいよ、俺も今来たところだよ」
このやり取りも昔と変わらない。
圭の手元で揺れる淡い白色のギムレットが、あの頃の空気を漂わせている。それを見た一禾は、ブラックルシアンを注文した。
あの頃の二人がそこにいた。
時間がゆっくりと巻き戻り、十数年前の二人の場面が再生されたようだった。
あの日、一禾の前から姿を消した圭は、師弟関係にあるカメラマンの薦めでドイツに留学した。黙って行ってしまったのは、一禾と会って気持ちが揺らぐのを恐れたせいだと圭は言った。
向こうに行ったら行ったで、慣れない土地の暮らしは思った以上に苦労を強いられた。
なんとか話せる英語だけが唯一の救いだったらしく、生活すること事態は困らなかった。
友人との文化の違いによる認識の違いにはかなり苦労した。それを必死に乗り越え、やっとの思いで卒業した。その後も圭は、教授の推薦で大学の研究室に残り、自分が納得いくまでカメラに没頭した。
そんなとき、師匠である田崎が撮影中に利き腕を骨折する大怪我をし、それを手伝うために日本に戻ってきた。それがつい去年のことだ。
今こうして目の前に圭がいるという事実が夢のようで、感情の巻き戻しが加速する。
かすれた優しい声や、ゆったりとした話しぶり。あの頃、隣で毎日のように感じた温もりが今の一禾を包み込んだ。
圭のこれまでの話を聞きながら、一禾は少しだけ不安を覚えた。もし、話を自分に振られたら、結婚したことを伝えなければならないだろう。それだけは避けたかった。何れ分かることだし、もしかすると一禾が結婚していることをすでに圭は知っているかもしれない。意味のないことだと分かっていても、一禾の中の狡さのようなものが甘い蜜を吸いたがっている。
一禾には夫がいて、家庭という居場所を作ってしまった。何よりその事実に後悔している自分がいることに戸惑いを感じた。
――ダメだ。ここから先へは進めない。
こうして再会したのも、たまたま客として圭が銀行に来ただけのこと。一禾に会いに来たわけじゃないのに。
「しばらく日本にいるの?」
何を期待しているのか、自分でも馬鹿げた質問をしている。
「いや、田崎さんの具合次第では直ぐにでも戻る予定だよ。大学の近くに工房があるんだ。そこにスタジオを併設する予定で、教授はそこを俺に任せたいと言ってくれてるんだ」
鈍器で頭を殴られた感じがした。痛くはないが、目の前が真っ暗になってこのまま吸い込まれればいいと思った。
「いちか?」
思わずだんまりを決め込んでしまった。動揺を隠しきれないし、言葉が見つからない。
十年以上も経ってやっと会えたのに、またさよならするのか。圭の中では既に過去の事で、一禾には夫がいる。頭では理解しているつもり。でも一禾の中に閉じ込められたままの想いが悲鳴をあげている。
圭はどうだろう。と一禾は考えた。こうして会っているのは、古い友人としてだろうか。それとも、何かを期待しての再会なのだろうか。
一禾は、少なくとも自分は後者だということを認めざるを得なかった。
「いっちゃん、久しぶりだね。な~に~、今日は旦那に内緒で圭とデート?」
買い物から戻ったマスターが一禾に声をかけた。
何というタイミングだ。
「やだなマスター、この歳でデートだなんて恥ずかしいよ。それより同じのお代わりちょうだい」
マスターのいたずらっ子のような言い種に、一禾はわざと素っ気なくあしらう。
にこにこと穏やかにこちらを見ていた圭の顔が、マスターによって吐き出された「旦那」という言葉に一瞬固まったのを、一禾は見逃さなかった。
一禾は、横顔に圭の視線を感じながら、気づかないふりをしてグラスに口を付けた。
しばらく続いた沈黙を破ったのは圭だった。
「一禾、結婚したんだ。いつ?」
声を聞けば分かる。圭は動揺している。辛そうに顔を歪める圭に、一禾も平静を保てる自信がなくなった。
自分から姿を消した圭に責められる覚えはないし、むしろ一禾の方が文句を言いたいくらいだ。けれど、既婚者になってしまったことが圭を裏切ってしまったように感じて心苦しかった。同時に、圭のその目に責められているようで、これ以上圭の顔を見ていられないと思った。
そして一禾は、圭ではない男の妻になった自分を知られたくないと思った……
「ごめん、私帰るね」
付けといてとマスターに声をかけ、一禾は店を出た。勢いよくドアを開けたせいで、カウベルがカランカランと少し乱暴な音を立てた。
大股で駅に向かって歩く。テストで悪い点をとったとき、親に叱られる前のドキドキみたいな焦りを伴う恐怖が一禾を現実へと引き戻していく。
早く帰ろう。
明日には卓馬が二週間ぶりに出張から帰ってくる。そうしたらもう、圭には会わない。
モバイルで改札を抜け、ホームへ向かう。階段を昇ろうというとき、乱暴に後ろ手を捕まれた。
「一禾、まって」
圭だった。だいぶ息が上がっている。一禾を探しながら追いかけてきたことがわかるその様子に胸が苦しくなった。
大きく上下する肩がなかなか治まらない。
それでもやっぱり、少しかすれた穏やかな声だった。
「一禾、話がしたい。さっきは驚いたけど、よく考えたら十年以上も一禾が独身でいるわけないよな。こんないい女、放っておく奴いないよ」
はははと口だけで笑った圭の一禾を掴む手が微かに震えていた。
「なぁ一禾、今度の休みにユリを撮りに行きたい。覚えてるだろう? あの場所、一緒に行ってくれないか? そうしたらもう二度と一禾には会わないよ。来週、土曜日の昼に、あの公園で待ってるから」
覚えてる。忘れられるはずがない。私たちが愛し合っていた証しのような場所なのだから。
「よく覚えてない。ごめん。じゃあ、私、行くから」
気を抜いたら一気に涙が溢れそうで、必死に堪えた。
少し強めに振りほどいた圭の手はすんなり外れ、待ってるからと言う微かな声が聞こえた。
ホームに滑り込んできた電車は混んでいた。
一禾は「待ってるから」と言った圭のすがるような目がこちらを見ている気がして、彼のいるホームに背を向けるようにドアにもたれた。
タタン、タタンと規則正しい音に反した不規則な揺れに負けないよう、必死で足を踏ん張った。車窓から見えるのは月明かりも星の瞬きもない真っ黒の闇だった。
一禾は、ガラスに写った自分の姿を他人事のように見つめていた。
――十年と少し前
「一禾が金平糖の中にいるみたいだ」
後ろを行く一禾のゴンドラに振り向いてカメラを構えてる圭が嬉しそうに叫んでる。
眼下を埋め尽くすカラフルなユリの群生は、甘い砂糖菓子のようだ。ピンク、白、黄色、だいだい、赤、それに葉っぱの緑色がファインダーでキラキラと輝いて、それを一禾みたいだと言って圭は何度もシャッターを切った。
一禾、一禾、と一時も目を離さず注がれるファインダー越しの圭の瞳に触れたくて、何度も瞼にキスをした。群れるユリの花の中で、隠れて抱き合った。はしゃぐ圭が愛しくて、何度も何度もキスをした。この日の為に新調したお気に入りのワンピースが花粉まみれになってしまい、拗ねたふりをした一禾を必死で宥める圭が子供みたいで可愛かった。
「ウソだよ~」と舌をだすと、その舌ごと絡めとられ、息ができないほどの深いキスをした。息ができず呼吸を乱す一禾に、お仕置きだと言って圭は笑った。
翌年は売店で十枚入りの絵ハガキセットを買った。まるで合成写真かと思うような色鮮やかなユリの景色が写っていた。
圭は、いつか自分もこんな風に一禾を笑顔にできる写真を撮りたいと言った。一禾には写真のことはよくわからなかったが、圭の撮るものは全て生きているように見えて、元気をくれる気がして好きだった。一禾と圭は、顔を寄せあって絵ハガキを次々と見ていく。そして最後の一枚に圭の送る手が止まった。
その一枚だけ雪山の景色のものだった。よく見ると、二人がいるユリの丘と同じ丘のように見える。風景と雪の絵ハガキを見比べていると、売店の老婆がのそのそと歩み寄ってきた。
「ほら見てごらん、奥の突き出ているところがちょうどここだよ。昔はもう少し先までゴンドラで行けたんだけど、ずいぶん前に崩れて地形が変わっちゃってね」
やや曲がった腰を後ろ手にくいっと伸ばし、遠くに迫り出した丘を指しながら、ユリの丘になる前はスキー場だったのだと教えてくれた。ゴンドラやなだらかな斜面に急な斜面、なるほどね、と一禾と圭は顔を見合わせて笑った。
「新婚さんかい?」
顔の皺に紛れてしまいそうに細めた目で一禾と圭を交互に見た。
「いえそんな、俺たちまだ……」
結婚という言葉に照れたのか、応えた圭の顔は耳まで真っ赤に染まっていた。
毎年、夏になるとユリの丘へ行った。圭はたくさん写真を撮ってたくさん一禾にキスをした。
その年は小雨が降っていた。圭は、どんよりと垂れ下がる雨雲のせいで光が足りないからと言って、景色をとらずに一禾ばかりを写した。照れる一禾にわざと官能カメラマンの真似をした。一禾は圭と指を絡めるように手を繋ぎ、ゆっくりと散策して回った。
次第に雨粒がが強くなってきて、近道をして売店に寄った。毎年買い続けている絵ハガキはもう何セット目だろう。
煙雨に浮かびあがる所々ペンキの剥げた、白い鉄筋の建物に走り込んだ。けれど、入り口のガラス戸はレースのカーテンが引かれていた。
「今日は休みかな?」
残念そうに圭が呟いた。
「おばあちゃんに会いたかったね」
絵ハガキも残念と言う一禾に
「また来年のお楽しみ」
そういって圭は一禾の額にキスをした。でも、その「また」は来なかった。この日が最後のユリの丘だった。
圭がこのときに撮影した、雨とユリの中で笑う一禾の写真が、その年のコンクールで最優秀賞をとった。圭にとって、それが人物を被写体にした初めての作品だった。
「これが一禾の土産な。クマゾーのぬいぐるみ」
出張から帰った卓馬は、ほっぺの赤いところが、酔っぱらった時の一禾に似ていて可愛かったからという理由で、九州で人気の熊のぬいぐるみを買って来た。卓馬は、一禾とクマゾーを交互に見て笑っている。
「明日、実家に土産を届けに行こう。母さんの好きな明太子のでかいやつ買って来た」
卓馬の出張は北から南まで様々で、海外に行くこともある。どこへ行っても必ず一禾への土産を忘れない。お土産を選んでいる時だけは自分のことを考えてくれていると思うことで、一禾はセックスレスに対する気持ちに折り合いをつけている。もちろんそれだけではないが、卓馬が自分の為に何かをしてくれる時は素直に受け入れるようにしている。
荷ほどきが終わり、卓馬が持ち帰った洗濯物を標準洗いにセットすると、既に卓馬はビールを飲んでいた。
「私も飲もっかな」
冷蔵庫から自分の分と卓馬の追加分をもって、卓馬の隣にぴったりくっついて座った。
「なんだよ~」とか「くっつきすぎ~」とか言いながら卓馬は一禾と目を合わせない。
何となくはぐらかされている感じはいつもと同じだ。
不意に圭の顔が浮かんだ。真っ直ぐに一禾を見つめる瞳は焦げ茶色の縁に囲まれた濃いグレーで、光を反射して青みがかって見える。
だけど、卓馬の瞳はどんなだろう。目の前にいる夫の瞳を全く思い出せない。それだけ目を合わせていないということだろう。得体の知れない不安に掻き立てられ、気づくと卓馬の胸に顔を埋めていた。
「なんだよ、急にどうしたんだ?」
子供が父親に抱きつくような格好に、卓馬は身を捩る。
「ねぇ卓馬、しよ?」
沈黙が沸いて出た。ほんの数秒間の沈黙は数十分にも感じられた。言わなきゃ良かったと一禾はとても後悔した。
卓馬の薄い唇に顔を近づけると、卓馬はフイっと顔を反らし、風呂入ってくると言い立ち上がった。
「あ~、卓馬照れてる~。せっかくすみれの真似して色っぽく言ってみたのに~」
わざとおどけて見せた一禾は、はははと声だけで笑った。もうこの笑い方が定着しそうだ。
卓馬は、あーはいはい。と何でもない様子でリビングを出ていった。一瞬安堵したような卓馬の表情を、一禾は見逃さなかった。
――ユリを見に行こう。
圭のかすれた声がよみがえる。ソファーに身体を投げ出し、天井を見上げて涙が溢れ落ちないように目を閉じた。閉じた瞼に閉め出された滴がポロポロと転がり落ちる。一禾は顔の上で腕を組み、止まない涙を覆い隠すことにした。
